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椿説霊異記 中の八――蟹蝦の命を贖ひて放生し、現報を得る縁

作者: Seimei

椿説霊異記(ちんせつりよういき)――日本霊異記(日本国現報善悪霊異記にほんこくげんほうぜんあくりよういき)に想を得て創作。

中巻・第八「(かに)(かえる)の命を(あが)ひて放生(ほうじよう)し、現報(げんぽう)を得る縁」より

 (わし)はこのあたりの山に()(くちなわ)じゃ。

 からみ合う草の根方(ねかた)を這いずりどろりと(よど)む沼を滑り、ずっしり(かさ)なる石の隙間に身を(もぐ)らせて(かえる)だの蜥蜴(とかげ)だの()ろうておる。

 手頃な木をじれば、ときに(とぐら)にあたることもある。餌を探して里まで下りた親鳥の留守を(ねろ)うて呑み込む雛は(おお)ご馳走じゃ。

 とはいえ、そうそう獲物にありつけるものでもない。大抵は口のすぐうしろから尻尾の先まで腹に(うつろ)を抱いたまま幾日も過ごさねばならん。そんなときには好きも嫌いも言うてはおれん、からだをぐるりと転じて背を(つち)につけ腹を(そら)(さら)したとて背を腹に、腹を背に代えられようはずもなし、蟷螂(かまきり)だろうが飛蝗(ばつた)だろうが、すかすかかさかさと旨くもない虫螻(むしけら)でもって(もだ)える腹を鎮めるほかはない。じゃが、どれほどひもじかろうと、仮令(たとい)うっかりでも蛞蝓(なめくじ)だけは(かぶ)りついてはいかん。あれは、あのねばねばが身中から儂のからだを()かしてしまいよるからな。


 そのとき儂は例によって半月ばかり、なにも喰うておらんかった。ついさっき螻蛄(おけら)を一疋呑み込んだばかりじゃったが、そんなものは()れた沢に落ちる雨ひと(しずく)にも足りぬ。()よう次を寄越せと腹の鱗が逆立ってざわざわ(うる)そうてかなわん。(がま)の一疋でも()れば、そのあとひと月はなにも喰わずと(ながら)えらりょうが、このままでは半月ももたんじゃろ。

 せめて陽射しを避けて水の(ほとり)で涼もうと沼へゆくと、ほんの一(けん)半ほど先に大きな殿様が半分泥に沈んで、(ぬる)んだ水に微睡(まどろ)んでおった。

 儂はしめたと思うた。嬉しさのあまり舌がちろちろ騒ぎ始めて、押さえるのに難儀(なんぎ)した。ここからなら思い切り身を縮めて()ねれば、ひと跳びで捕らえられる寸法じゃ。じゃが、半月ぶりのご馳走をしくじるわけにはいかん。用心がうえに用心を重ねて、儂はそいつにそろりそろりと這い寄った。浅い(みぎわ)に泳ぎ()ってさえ水が波紋を立てるのを(はばか)るほどの儂の忍びぶりじゃった。

 ここまで来ればなにがどうあろうとしくじるまいまで近づいて、じっと獲物を見据える三角の頭にあとから追いついたからだを手繰(たぐ)り寄せにかかったとき、そやつの眼がむくりと開いた。頭の上に突き出た両の眼がさらに飛び出て儂を認めるや慌てて横へ跳ぼうと身を(よじ)るのへ目がけて、儂は撥ねた。

 口中を埋めてなお余るそいつの太った頭に儂の顎は大きく外れたが、かまうものか。ふたつの目玉がきょろきょろ動きまわるのが顎裏を(くすぐ)って、そのこそばゆさが心地よい。藍藻(あおこ)(まみ)れた(なまぐさ)()が舌の先から脳中に む っと伝わり、はち切れそうなそいつの背中に打ち込んだ牙から毒の(よだれ)がとろりと垂れる。これこそ至福、これこそ愉悦。

 ああ、これでひと月生き延びた。あらたに天寿を授かった。儂がこの世に()ることを、天が許してくだされた。


 「この(かえる)(われ)(ゆる)せ」

 恍惚を味わう儂の前にひとりのひとの女が現れて、儂にこう言うた。

 この女はなにを言うておるのか。この獲物は天が儂に与えたもうた天恵じゃ。たかがひとごときが天に逆ろうて獲物を放せとは、おこがましいにもほどがあろう。儂は女をじろりとひとつ睨んでおいて、さらにがぶりと呑み込んだ。

 「我、汝が妻とならむ。故に幸に吾に免せ」

 儂は蝦を咥えたまま、痴れ事(しれごと)を言う女の顔をよく見てやろうと頭を高く(もた)げた。

 「吾は置染(おきそめ)臣鯛姫(おみたひめ)なり。奈良の(みやこ)(とみ)の尼寺の上座(じようざ)の尼法邇(ほうに)(むすめ)なり」と言う。

 仏に帰依(きえ)行基(ぎようき)大徳(だいとこ)供侍(つか)え奉る身として、いま儂に呑まれんとする蝦に情を致したのだと言う。(おぞ)ましい姿で地を這う(くちなわ)といえど、仏の加護の(もと)に生を()けたものなれば、いかばかりか心はあろう。同じく心を持つに違いない蝦に憐みを(たま)えと言う。

 蝦の心なぞ知ったことか。儂はこの蝦を喰ろうて(ながら)えねばならんのだ。それが天からこの蝦を(たも)うた、天から生きることを許された儂の務めじゃ。

 じゃが、それにつけてもこの女は美しい。蝦を思うて涙を浮かべ儂に命乞いするこの女が、蝦を放せば儂の妻になると言う。女の言うとおり、儂にとってそれはこの蝦と引き換えにできるほどの(さいわ)いとも覚える。

 儂は女の前に蝦を放した。女は身を屈めて蝦の尻を押してやり、蝦はのそのそ(くさむら)に姿を消した。

 「今日より七日を経て()よ」女はそう言いおいて山を下りた。


 (ちぎ)りのとおり、七つの日を経て七つめの(よい)に儂は女の住居(すまい)(おとの)うた。あれから百足(むかで)の一疋とて喰ろうておらん儂の餓えは(きわ)みにあったが、祝言の膳には食い切れんほどの馳走が並んでおろう。珍しやかな蝦は言うに及ばず、蜥蜴は尻尾も頭もきれいに揃うておろうし、(とり)の雛や卵さえあるやもしれん。(さら)にひとは(おか)だけでなく水に棲むものも喰らうと聞く。儂はいっぺん半裂(はんざき)というものを喰うてみたい。

 宴の(さま)を思い描きながら門前に辿り着いたが、どうしたことか、戸という戸はすべて閉じている。家の周りをぐるりと(めぐ)るも、わずかな隙間も見当たらぬどころか節穴から床板の割れ目に至るまで土で埋められ家内に這入る経路(みち)がない。

 途方に暮れた儂は尻尾を振り立てて壁をほとほと叩いたが、女の気色(けしき)はありながらも家内は静まりかえってうんもすんもない。

 これは馳走にありつける嬉しさに我を忘れて早まったか。

 「我が妻、(とき)(たが)えたは何卒(なにとぞ)許せ。明けてまた()む」

 こう壁の向こうに息を潜める女に言うて、儂は山へ戻った。


 明くる八日めの夜、儂はまた女の家の前に来た。やはり戸はすべて閉じたまま、隙間も穴も塞がれたまま。

 さては(かえる)一疋を(ゆる)さんがため(たばか)ったか。総身の鱗は瞋恚(しんい)に震え、互いに打ち()うてちゃりちゃりと鳴る。

 儂は柱に取りつき棟に上り、草屋根の草を抜いて潜り込む。梁から見下ろす先に女が()じて縮かんでおった。儂は一躍(いちやく)身を(おど)らせて女の前にどさりと落ち、首を(もた)げて赤い眼を女に向ける。女は ひい と()れた声を出し尻をずって後退(あとじさ)る。儂が追う、女が退()く、儂が追う、女が退く。

 いよいよひと跳びで女の白い喉笛に毒の牙を立ててやろうと身構えた儂と女の間に大蟹が立ち塞がり、左右の(はさみ)を振り上げた。

 「何の蟹ぞ。邪魔を()るな、()退()け」

 「難波(なにわ)の蟹なり。画問(えどい)邇麻呂(にまろ)より(あが)わる。いまこそ恩誼(おんぎ)(むく)わむ」

 昨晩、儂の(おとな)いを受けてより女は一睡だにできず、明けるや大徳(だいとこ)を訪ねて三帰五戒を受持(じゅじ)し、儂との契りを(まぬか)るるを得た。その帰りに邇麻呂(にまろ)なる(おきな)が手にする大蟹を見て慈心を(ほつ)し、着る(きぬ)()と引き換えに蟹を贖いて放生(ほうじよう)したという。その蟹が、いま儂に恐ろしげな(はさみ)を向けておるこの蟹じゃ。

 のう、女。(かえる)を憐れんで儂を(たばか)り、蟹を(うれ)えて(おいぼれ)に裸身を(さら)す。この()に及んでお前の道心はよう分かった。

 じゃがのう、女。儂とて蝦を呑むために生きておるのではない。生きるために蝦を呑むのじゃ。天に許されて生を()け、生まれついて蝦を呑むことが定められておったのじゃ。蛇が蝦を呑むは自然(じねん)(ことわり)、蝦が蛇に呑まれるも自然の理。蝦や蟹に向ける慈悲の、ほんの上面(うわつら)でよい、儂にも向けてはくれんか。儂を憐れと思うなら、(むくろ)は山に(さん)じてくれ。のう、女。


 朝、蟹の(はさみ)條然(つたつた)に切られた蛇の骸はまとめて(かわや)(ほう)られた。

参考:『日本霊異記』板橋倫行校註/角川文庫/昭和32年1月30日初版発行、昭和46年5月30日12版発行

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