001
名もなき町の。その表通りの横道にあたる、吹きさらしの裏路地。
そこに薄汚れた布の塊が無造作に転がっていた。正確には布の塊ではなく、襤褸を身に纏う死にかけの子供だ。もう何日も何週間もその身体を清めていないのだろう。人間の汗だの糞尿だのを煎じたような酸っぱい異臭が鼻につく。
その存在に道行く町の人々も気が付いていない訳じゃない。
異臭の方向に、ちらりと目を向けるがその存在を認めるとスッと目を逸らし、歩幅を大きくして立ち去ってしまう。
その行動を『人でなしっ』『薄情だっ』と弾劾するのは、簡単なことだろう。
しかし町人には王侯貴族のように湯水のような金があるわけでも、物語の聖人のように捨我の精神を持ち合わせているわけでも、無い。町人たちにも町人たち個人個人の生活がある。可哀想だと同情することはあっても、見て見ぬふりをするのは仕方のないことだ。
逆にそうしない者は変わってる。変人かあるいは悪人か。
オレはたぶん悪人にあたるのだろう――とシールは自嘲気味に笑った。
――…おいっ。
ぶっきらぼうな問いかけにちっぽけな子供の身体がぴくんと震える。
運がいいのか悪いのかまだ"生きている"らしい。子供はなけなしの力をこめて死にかけの身体をもちあげる。絶望で黒く濁ったふたつの目がこちらの姿をとらえる。
「あーあ。獣人ね。こうも都合よく転がってるとは笑えるね」
ボサボサの黒髪の上に、ぴこんぴこんと三角形のねこみみが付いているし、黒色のしっぽもおしりに付いている。身体の一部ないし全体にケモノの特性を持つ"獣人"。見た目は人間っぽい奴とケモノっぽい奴の二パターンいるが、どっちも賢い。人間と同じように言葉を操るし、人間と同じようにコミュニケーションをとることができる。
大陸の隅っこには、こういう獣人たちの国もある。
――が、ここは獣人の国じゃない。人間の支配する国だ。獣人は異端だ、弾圧しろ。国民の8割~9割が信仰している国教がそう言うのだ。獣人は憲兵に見つかるとその場で捕縛され、男は鉱山奴隷にそして女は娼婦に堕とされる。つまりコイツは……。
「……。逃亡奴隷」
シールは、にやりと笑う。首を戒める奴隷用の首輪。鎖骨のあたりに奴隷用の焼き印が黒々と刻まれている。おそらくは獣人娼婦か何かの子供だろう。人間の男と交わり出来てしまったハーフ。
――俗にいう呪い子。その存在はとくに珍しいものじゃない。男はやっぱり"ナマ"のほうが気持ちいいし"ナマ"でやりたがる。しかし人間の娼婦は人間だ。いやしい職業と同族に悪口を言われることはあっても人間として尊重されるし、法律に守られている。要するに相応の金を積まなきゃ"ナマ"はムリだ。
そこで獣人の娼婦だ。国内において人間じゃない獣人の待遇は文字通りそこらのイヌ・ネコと変わらない。殺しても罪に問われないし孕ませても責任をとる必要はない。獣人の娼婦は男共に"そういう"使い方をされる。
そしてコイツのような呪い子が生まれる。誰にも祝福されない子が。
「………あ……う…………」
脂でぬめる黒髪をむんずと掴んでグイと上に引き上げる。
八百屋に並ぶ野菜を選ぶ時のように無機質な目で獣人の顔を拝ませてもらう。黒髪はボサボサだし汚らしいが、子供ながらその顔立ちは見られるものだ。春を売りさばく娼婦の子供と言うべきか顔立ちは悪くない。
「まあ。ちゃんと磨いたら使える程度だな」
「……。あ……たしを…………どうする……つも、り?」
ひび割れたくちびるが言葉を紡ぐ。もうずっと食物も水もとっていないのだろう。声の音色は老婆のように涸れている。しかし、死にかけだと言うのに、こちらを見る目には意思の光がちらちらと仄かにくすぶっている。
悪くない。実に。
「獣人に答える必要はない お前を…。お前の身体をどう使おうとオレの自由だ」
「……!? ……。や……やだ……。もう。あんなとこ……には……」
なけなしの力で弱弱しく藻掻く。
紅く充血した瞳でこちらを睨みつける。人間を深く恨む者の目だ。しかしココロが強かろうとウラミが深かろうと衰弱した身体は持ち主の意思を無視する。しばらく四肢をバタつかせていたが、ついに無駄を悟ったのか、だらりと身体を弛緩させる。
「う……。うう………うぁ…………。せっかくここまで……ここまできたのに…………。なん……で……。こうなっちゃう……かな」
ぷるぷるとむき出しの肩を震わせる。そのはしばみ色の瞳は涙を流していない。まあ脱水症状で涙が出ていないだけだろう。
鼻をぐずぐずと啜りながら深く絶望する様子を、
シールは興味深そうに眺めていた。