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馨香

作者: だいふく

 身体を起こすと、無駄に重ね着をした衣服が垂れて重たい。側で蜜香の起床を待っていた童女——(ミイ)(シャン)と歳はそう変わらない——に声を掛ける。


小鈴(シャオリン)、ちょっと」


 小鈴はその一言で何を求められているかを察して、すぐ蜜香に手を貸してくれた。


「ありがとう」


 礼を言うと、小鈴はにこりと微笑んだ。彼女は生まれつきものを話すことができないが、そのぶん表情が豊かだ。

 上に着ていた衣を脱ぐと、幾分か身体が軽くなった。脱いだ衣を小鈴に託して、蜜香はひとり湯殿へ向かう。

 蜜香の朝は湯浴みから始まる。

 好んで湯を浴びるわけではない。世の中にはそういう者もいるのだろうが、彼女の場合は仕事の一環として入る。

 国内一の花街である洛楼。

 幾つもの妓楼が立ち並ぶその中でも、ごく限られた客しか一夜を過ごすことの許されない高級妓楼、白瓏館。

 蜜香はここで、住み込みで働いている。

 しかし、遊女としてではない。もちろん遊女見習いでもない。

 (シン)(シャン)族という一族がいる。

 汗をはじめ、身体からの分泌物が甘い芳香を放つ特異な体質を持った一族のことをそう呼ぶ。その香りの強さや種類は個体差が大きいが、その中でも若い女のものは特に強く芳しいとされている。

 彼らの香りは香料に加工され、貴族や妓楼で重宝されているが、蜜香はその血を一切の混じり気なしに継いでいる。その上、他の馨香族に比べるとより強く甘美な香りを漂わせる。

 金に困った両親によって、物心つく前に洛楼の妓楼に高く売られた蜜香は七年あまりの年月、香料を産む道具として扱われてきた。三年ほど前に白瓏館に行き着いてからは好待遇で迎えられ、いまに至る。

 蜜香はいつも同じ時刻に湯浴みをするから、既に釜炊きの手によって湯は沸かされているはずだ。

 念のため釜炊きに一声掛けて、脱衣所へ入る。一晩着ただけで甘い香りの移った衣をするすると脱いで、籠に放り込む。あとは当番の者が籠を持って行って念入りに洗ってくれる。良い香りがするとはいえもとは人の汗だから、放っておけば嫌な臭いを放つようになる。ひとたび甘い香りと混ざれば、それは奇妙な異臭へと早変わりする。

 裸になった蜜香は成長のしない胸元をひと撫でして、小さな湯船へ足をつけた。少し熱いが我慢するほどでもない湯加減だ。そのまま湯の中に身体を浸けていく。この前には、一切身体を洗い流さない。彼女の貴重な香りを無駄にせぬよう、汗の一切を湯船の中に溶かすのだ。

 より多くの汗をかき、湯の中に溶かす。それが彼女に与えられた、唯一と言っていい仕事。

 肩まで身体を浸けて、小さく息を吐く。

 湯浴みは嫌いではない。

 湯に浸かればさっぱりするし、何より、臭いが一度は取れる。他人からしてみれば良い香りでも、体臭には違いない。ずっと嗅いでいれば嫌にもなるし、自分の臭いが他人に嗅がれていると思うとあまり良い気分ではない。

 それは、もしかすると蜜香自身への誤魔化しかもしれない。

 白瓏館の人々は、それこそ玉か黄金かと言わんばかりに蜜香のことをとても大事にしてくれている。ここに来るまでの扱いのことを考えれば幸せには違いないのだが、それでも時折思う。

本当に、わたしが必要とされているのだろうか、と。

 いままでもそうだったように、蜜香という個人ではなく、馨香族の女という事実だけが求められているのではないか。この白瓏館にあってさえ、そう思う。

 求められるがままに湯を浴み、己の香りを提供する。そこに蜜香という個人は求められていないという事実から、目を逸らそうとしているだけなのかもしれない。

 ぽちゃん。

 湯の中にすっかり頭を沈めて、そっと目を開ける。ぼやけた視界の端に、栗色の髪の端がふよふよと漂う。

 己の妄想が真実であるかを確認するような度胸は蜜香にはない。ただ一言、「わたしをどう思っていますか」と聞けば良いだけなのに、それをしてしまえばいまの生活が崩れて無くなってしまうのではないかと思ってしまう。

(外に、出られたらいいのにな)

 白瓏館の外。洛楼の外。花柳界の外。

 もともと蜜香が居たはずの、なのに知らない世界なら、蜜香という人間そのものを必要としてくれる場所があるだろうか。

 根拠のない空想に想いを馳せているうちに息が続かなくなって、蜜香は湯から顔を出した。


     ***


 湯から上がると、脱衣所の籠は取り替えられており、中には新しい衣が綺麗に畳んで入っていた。

 小鈴が仕度しておいてくれたのであろうそれに袖を通す。寝間着にしていたものよりも随分薄く、過ごし易いものだ。

 蜜香が厚着をしていたのは、朝に香り取りをするためだ。就寝の際に厚着をすることで、寝ている間に汗をかく。特に寒い時期は、そのうえ部屋の中で炭でも熾さないことには汗をかくことができない。それ以外のときは、こうして時節にあった服装をしている。

 仕事はこれで終わり。香りの移った湯はお抱えの香料職人が回収して、より香り立つように加工したうえで小瓶に詰めてくれる。蜜香はこれ以上、何をする必要もない。

 新しい衣を身につけた蜜香は、脱衣所を出て自分の部屋に戻ることにした。

 朝の白瓏館は、少しばかり忙しない。

 妓楼の客は様々だ。酒を呑み料理を楽しみ、女と戯れる。そういう客は夜中のうちに帰ってしまうが、遊女と一夜を共にする男は朝方に帰ることが多い。

 客が帰った後の片付けは主に小間使いや見習い遊女が務めるが、太陽が天辺に上るまでは、彼女たちの足音は絶えることがない。

 廊下を早足で往き来する者たちの間を、蜜香はゆっくりと歩いていく。

 蜜香はこの喧騒を好ましく思う。騒がしさに包まれることで、彼女たちの仲間になったように感じられるのだ。実際にそうかどうかは別にしても。

 自分も混じりたいと思うが、下手に部屋に香りを移してはいけないので、白瓏館の主人である馬環(マーファン)に禁じられている。こういうところは不便な身体だと、蜜香自身も思う。

 階段を上がろうとしたそのとき、後ろから声を掛けられた。


「お、蜜香。おはよ」


 遊女らしからぬやや低めの、よく通る声。あまり品を感じられない、なげうつような話し方も相まって、蜜香には声の主が誰だかすぐにわかった。階段に掛けていた右足を下ろして振り向く。


「おはよう、(ラン)(ファ)


 蜜香と同じ人種とは思えないほど小さく、輪郭のほっそりとした顔。鼻筋はすらっと通り、ややつり目気味の細い眼差しは、しかし見据えられた者に恐怖感を与えることはなく、その美貌に虜にされるだろう。唇は紅を塗っていないはずなのに、そうと思ってしまう艶やかな色をしている。

 藍花は、洛楼の誰よりも高い女。そして、最も美しい女でもある。

 彼女と一夜を共に過ごそうと思えば、ひと月の稼ぎがまるまる無くなってしまうほどの金が要る。

 そんな高級遊女だから、自然、彼女の客は王宮勤めの文官や位の高い武官ばかりだ。

 その名の通り藍の花の色に染めた衣をいつも身に纏っており、客前ではない今でも、肩を大胆に出した藍色の薄衣を着ている。


「ちょうどあんたの部屋を訪ねようと思ってたんだ。もう香り取りは終わったのかい?」

「うん。何か用事?」

「まあ、大したことじゃないんだけど少し話がしたくてね。いまからあたしの部屋に来てもらってもいいかい?」

「話?」


 蜜香は思わず彼女の言葉を反芻した。

 藍花からこういう誘いがあるのは滅多にない。白瓏館の中でも彼女とはよく話すし部屋にも頻繁に行くが、それはお茶しに行ったり、遊びに行ったりが主だ。


「忙しいならいいんだけど……」


 勝ち気な藍花にしては珍しく気弱な様子で言うものだから、蜜香はすぐに首を横に振ってみせた。


「ううん、行く」

「よかった。じゃ、おいで」

「うん」


 踵を返して歩いていく彼女の後を追って、蜜香も早足で歩き始めた。


     ***


「ほら、入って」


 藍花が部屋の戸を開け、蜜香を招き入れる。

 彼女の部屋はとても質素だ。ごく限られた生活に必要なものと、自分の身を飾るいくつかの道具、それから茶を沸かす道具が一式あるだけ。大抵のものは馬環が用立てるから、この部屋にあるのは一切が彼女のもの。

 今までいくつもの妓楼を渡り歩いてきたが、ほとんどの遊女は稼いだ金をすぐに遣ってしまう。特定の客への贈り物もあれば、酒や煙草・香といった嗜好品。もちろん、高価な衣類や飾りなどにも。贈り物や飾りは自分の価値を上げるための道具として、贈り物は固定の客をつけるため、嗜好品は溜まった苛立ちや欲求の発散に。末端の遊女はそうでもしなくては稼いでいくことができないのだ。

 しかし、藍花は――洛楼一の遊女は違う。

 何もしなくても上客が転がり込んでくるし、着飾るものは店が用意する。気を遣うのは彼女ではなく客の方であることが多いから、苛立ちもそう溜まらない。


「座りなよ」

「うん」


 先に座椅子にもたれていた藍花に促されて、蜜香は床に腰を下ろした。


「茶でも淹れようか?」

「そうだね、お願い」


 蜜香がそう返すと、藍花は慣れた手つきで茶を沸かす支度を始めた。火鉢の中では炭が燻っていて、その上に水の入った薬罐を載せて湯が湧くのを待つ。


「ところで、話って?」


 茶が入るまではもうしばらくの時間があるので、蜜香は本題を持ち出した。藍花は茶を淹れる作業で我を忘れようとしていたのか、その言葉ではっとしたように蜜香の方を向いた。


「ああ、そうだった」


 湯呑を用意していたのを途中でやめて、藍花は神妙な顔で蜜香に向き直った。


「実はね、今日、特別な客が来るんだよ」

「特別な客?」


 特別というなら、藍花が取っている客は他の遊女からしてみればみな特別だ。しかし、彼女がわざわざそんな言葉を使う辺り、どうやらただの客ではないことがわかる。

 少しの間があって藍花の口から出たのは、想像もつかない名前だった。


「将軍様さ、この国の」


 蜜香は何か言おうとして、驚きで声が出せなくなっていることに気づいた。

 将軍。

 つまり、武官の最高位に当たる人物。当然、その生まれも高貴なもので、今代の将軍は王族に連なるものだったと記憶している。少なくとも、蜜香が白瓏館に行き着いてからはこれほどまでの大物が訪れたことはない。


「藍花は、将軍様のお相手をしたことはあるの?」


 恐る恐る、尋ねてみる。藍花は頭を振った。


「もう辞めちゃったけど(ホン)(ラン)は……ああ、あたしの前に一番だった女だけど、あいつは経験あった。でも、あたしは将軍様の相手なんてしたことない」


 紅蘭の名前だけは聞いたことがあった。蜜香が白瓏館に来る前にいた遊女で、藍花とはまるで正反対の女だったらしい。

 薬罐から湯気が立った。話はそこで一度中断さた。藍花は薬缶の湯を一度湯呑に移して冷めたものを、中に茶葉の入った急須へと注いだ。蓋をして、茶葉がしっかり開き茶の香りが湯の中に染み出すのを待つ。蜜香は一連の作業を眺めて、まるで自分のようだと思った。

 茶が入った。

 藍花が小机を蜜香の前に引き寄せ、そこに湯呑を置く。自分の前にも、もう一揃え同じものを。


「いただきます」

「どうぞ。お茶菓子はないけどね」


 湯呑に口をつけ、少しだけ口に含む。


「美味しい」

「当たり前さ、高い茶だからね」


 萎れたような物言い。いつもなら笑って言うはずなのに、今日の藍花はやはり何処かおかしい。


「でも、将軍様のお相手なんて凄いよ」


 そう言うと、藍花は小さく頷いた。


「名誉なことだよ。でも、あたしは怖いんだ」

「何が?」


 反射的に聞き返す。


「……将軍様のお相手をするのがさ」


 藍花は俯いたまま、まるで覇気のない声で言った。


「そこらの文官武官なら今まで何十人にも抱かれてきたんだけどね。あたしには、将軍様を満足させられる自信がないのかもしれない」

「…………」


 藍花は、この洛楼において最も美しい女だ。その彼女がこう言っているのに、遊女ですらない蜜香が何か言えるはずもなく、ただ両の手のひらを膝の上でぎゅっと握り締めるだけ。

 恐る恐る、というように藍花が面を上げる。


「だからさ、蜜香。ちょっとだけあんたの力を貸してくれない?」

「力を貸すって……わたしは何もできないよ」


 逡巡を挟んで蜜香は言う。藍花のような遊女ではない自分に、何かできることがあるはずもない。

 しかし、藍花は首を横に振った。


「いいや、あんたにはその香りがある」

「……っ」


 肩がびくっと震えた。

 また、香りだ。

 何処にいても、誰からも、それしか必要とされていない。藍花もその例には漏れていなかったということだ。

 それは、お前には身から発する芳香以外に価値がないと言われているようで。

 自己の輪郭が揺らいでいくのを感じた。結局、わたしは馨香族の女でしかなかった。


「蜜香、こっちへ来て」

「……うん」


 蜜香は熱病にかかったようにぼうっとした頭で、言葉の意味も理解せずに返事をした。

 這うように藍花の方へ寄っていくと、彼女は蜜香の肩に両腕を回して抱き締めた。自分の強く甘い香りの中に、茉莉花のような藍花の薄い爽やかな香りが混ざって匂った。


「ちょっとの間だけでいいから、このままでいてくれない?」

「……うん」


 もはや、それが蜜香自身の言葉なのかも分からなかった。


     ***


 夕刻。

 客である男たちを迎え入れるために、洛楼全体が忙しなく動き始める時間だ。

 もちろん御多分に漏れず白瓏館も慌ただしくなる。厨房では料理人たちが腕によりをかけた料理を作る。遊女は各々の部屋で化粧を施し美しい着物を着付け、見習いや小間使いは客と遊女が過ごす部屋の支度に取り掛かる。蜜香の香りから作られた香は、こういうときに使用されている。

 忙しいとはいえ、蜜香はすることがない。例の如く手伝いはできないので仕方なく自室に篭っている。身の回りの世話をしてくれている小鈴も今は他のところで仕事をしているから、相手をしてくれる人もいなくて暇を持て余す。小鈴は話すことができないが、こちらの話をとても楽しそうに聞いてくれるから、それだけでも気が紛れるのだ。

 いつの間にか日が沈んだらしく、窓の外は薄暗くなっていた。

 これから更に日の光はなくなっていくが、そこかしこにある妓楼から漏れる明かりのため、それでも洛楼の夜は明るい。夜も半ばを過ぎれば徐々に明かりは消えていくが、それでも明け方まで全ての光が消えることはない。ここはそういう街なのだ。

 蜜香は、窓の外へせり出した柵を支えに身を乗り出した。

 路にはちらほらと男の姿が見え、彼らを呼び込む女も店の前へ繰り出している。

 ひとりの男が、女に誘われて店の中へ入っていった。彼らはきっと、これから美味しい料理を食べ、軽く遊び、そして閨で男と女の行為に及ぶのだろう。それを想像すると同時に、この街にいるのにそれらの行為と関係のない立場にある自分がどれだけ異様な存在なのかと考えてしまう。

 蜜香は手すりにもたれ掛かり、両腕の上に頬を乗せた。


「……止めよ。あんまり考え過ぎたらおかしくなっちゃう」

「何がおかしくなるのだ?」


 階下から低い声がして、蜜香は吃驚して顔を上げた。この下には白瓏館の庭があるが、そこにいた誰かに独り言を聞かれたらしい。

 慌てて下を覗くと、そこに立っていたのは見たこともないような偉丈夫だった。

 男は蜜香の顔を認めると、ごつごつとした厳つい顔をくしゃっと破顔させてみせた。


「遊女かと思えば、可愛らしいお嬢さんじゃないか」

「あなた、誰? 見たことないけど……」


 突然話しかけられて、少し怯えたように蜜香が問う。


「儂か? 儂はただの客だ。……そうだな、(ウェイ)と名乗っておこうか」

「衛さんね」


 ドン、と胸を叩く衛の名前を確認するように、蜜香は復唱した。


「ああ。それで、おかしくなるとは何のことだ?」


 改めて衛に尋ねられて、蜜香は言葉に窮した。僅かながら、二人の間に沈黙が流れる。


「言いたくない、か。まあ、そういうこともあるだろう。しかし、大抵の辛いことというのは話せば楽になるものだ。儂で良ければ聞いてやるぞ」


 それは、蜜香にとっての救いの手のようにも聞こえた。


「……本当?」

「ああ、一切他言もしない」

「……降りるから待ってて」

「うむ」


 客が来る時間にもなると、流石に騒々しさはなくなる。落ち着いた、高級妓楼らしい雰囲気を演出するのだ。蜜香はそんな静かな廊下を、階段を、早足で歩いていく。

 階下の庭に出ると、衛は軒先に腰を下ろしていた。彼は自分の隣をとんとんと叩く。


「まあ、ここに座りなさい」


 蜜香はそれに素直に従って、衛の隣にゆっくりと腰を下ろした。


「さて、話を聞こうか」


 背筋を伸ばし両腕を組んで、衛が言う。


「うん、えっと、何から話せばいいのかな」


 蜜香が言葉をうまく纏められずにいると、衛が見兼ねたように言う。


「儂に伝える必要はない。思っていることを言葉にするのが大切なのだ」

「……それじゃあ、わたしの身の上話から——」



「つまり、自分が本当にこの妓楼に必要とされているのかがわからない、と」


 蜜香は頷いた。

 胸の内に渦巻いていたことを全て話した。自分が馨香族の娘で、物心つく前に妓楼に売られたこと。それからいくつかの妓楼を転々として白瓏館に行き着いたこと。香りではなく、自分そのものが必要とされているのだろうかという疑問。仲の良い藍花ですら、自分の香りのみを必要としているのではないかという疑念。外の世界に出てみたいという願望。全て、ぶちまけた。

 それができたのは、衛が白瓏館の人間ではないからこそだろう。例えば同じ男でも、馬環ならこうはいかなかった。

 それに、話しているうちになんだか、衛は全てを受け止めてくれるような気がしたのだ。

 衛はじょりじょりと生えっぱなしのあご髭を擦った。


「そうだな、お前は勘違いしている」

「勘違い?」


 衛は首肯する。


「ここにいる人たちは皆、きちんとお前のことを必要としてくれている」

「だから、それはわたし自身じゃなくって——」

「何が違う?」


 蜜香の言葉を遮るように衛が言う。


「誰しも、能力があれば人から必要とされるだろう。香りはお前の優れた能力だ。それを真に必要とする者は、必ずお前のことも必要としてくれている。そこに気付けていないだけのことだ」


 これまで、いくらでも蜜香のことを必要としてくれる人はいた。しかしそれは、蜜香そのものではなく蜜香の出す香りを必要としてのものだった。それが真ではないと言うのなら、一体何が真なのか。

 蜜香が言い返せずにいると、衛は言葉を続けた。


「しかしまあ、それでもまだここから出てみたいと言うのなら、儂がお前を引き取ってやっても良い」

「それって……」


 衛が外の世界へ、花街の外へ連れて行ってくれる、ということだ。蜜香からしてみれば願っても無い申し出だった。

 今すぐにうんと返事をしようとした、そのときだ。ふたりのいる庭に、男が駆け込んできた。


(ウェイ)(ダン)将軍! こんなところにいましたか!」

「おお、ご苦労」


 息を切らしながら言う男に対して、衛は軽く手を挙げて労った。どうやら連れらしい。

 しかし、注目すべきはそこではない。


「将軍……? 衛さん、将軍様だったの!?」


 つまり、今夜藍花が相手をする男だということだ。

 驚きで声を上げる蜜香に、衛は首を縦に振ってみせた。


「ほら、遊女を待たせてあります。行きますよ……って、その娘は?」


 衛を迎えに来た男——恐らくは彼の部下なのだろう——が蜜香の方を一瞥する。


「ああ何、相談に乗ってやっていたのだ。さて、行くとするか」


 衛は立ち上がり庭を立ち去ろうとする。だが蜜香との話はまだ途中だ。


「待って! さっきの話——」

「答えはひと月後に聞きに来る。それまでに答えを出しておきなさい」


 今は答えを聞かない、とばかりに衛が言う。それから、思い出したかのように、


「ああ、そういえば名を聞いていなかったな。何という?」

「……蜜香」


 間を置いて答える。衛はふっと笑って、立ち去る前に一言告げた。


「良い名だ」


     ***


 衛登将軍と話した夜も明け、蜜香はいつも通りの朝を過ごしていた。

 汗をかいて目覚め、小鈴に衣を脱がせてもらい、湯浴みをする。何も変わらない日常の光景だ。当然、白瓏館も平時と変わりない。

 だが、蜜香の胸中は穏やかではなかった。

 湯浴みが終わり部屋に戻ると、蜜香は窓の外を眺めていた。

 昨夜、衛登将軍から言われた言葉が消えずに残っている。

 白瓏館を出る機会を与えられた。自分が必要とされる外の世界を求めるなら、断るという選択肢はない。しかし、同時に蜜香は考えていた。

 蜜香を必要としてくれている人は白瓏館にきちんといて、しかしそれに自身が気づけていない可能性。衛登将軍が言っていたのはそういうことだ。

 とはいえ、白瓏館の主人である馬環は間違いなく蜜香自身ではなく香だけを必要としているであろうし、昨日の件もあり、藍花をはじめとした遊女たちにも期待は持てない。世話をしてくれている小鈴だって、いつかは遊女になるのだから同じことだろう。

 そんなことを考えていると、とんとん、と後ろから肩を叩かれた。振り返ると、小鈴だった。入口の方を指さしているので視線をやると、そこには藍花が立っていた。少しどきっとした。

 昨日の元気の無さが嘘のように、にかっと笑っている。


「おはよ、蜜香」

「おはよう」

「上がってもいい?」


 蜜香が頷くのを見て、藍花は部屋の中に入ってきた。蜜香も窓の側から離れる。

 部屋の真ん中あたりに座り直そうとしたところに、突然藍花が抱きついてきた。


「ちょ、藍花!?」


 戸惑う蜜香を差し置いて、藍花はいつになく穏やかな声で言う。


「ありがとうね、蜜香」

「……うまくいったの?」


 蜜香の肩に回していた手をすっと解いて、藍花は頷く。


「ああ、蜜香のお陰だよ。蜜香が側に居てくれたから、あたしは怖くなかった」

「わたしは何もしてないけど……」


 ただ、話をほんの少し聞いて、それから抱き締められただけだ。衛登将軍には会ったけれど、自分の話ばかりで藍花のことをよろしくなんて頼んではいない。昨日の夜は二人の側にいたということもない。

 それなのに、藍花は首を横に降った。


「昨日、蜜香の香りを移してもらったろ? あんたの香りがあったから、あんたを側に感じることができたよ」


 芳香剤として加工されたのではない、蜜香の香り。それは確かに加工されたものよりは強く蜜香のことを感じることはできるだろうが……。

 しかし、藍花の言葉を素直に受け取るならば、昨日。彼女が本当に必要としたのは蜜香の香りなどではなく――


「それは、わたしが必要だったってこと?」


 自然に、その言葉が口から出ていた。口にすれば、今の生活が崩れ去ってしまうかもしれないと思っていた言葉が。

 答えを聞きたくなかった。聞いてしまったら、今まで曖昧にしていたものが確かになってしまう。

 藍花が言う。


「ああ、そうさ」


 心ノ臓が止まるかと思った。

 藍花は、わたしのことを必要としてくれていた。わたしが最も求めていたものを、彼女は与えてくれた。それだけで、心がすっと軽くなった。

 いつの間にか、蜜香の目からは涙がこぼれていた。


「あたしだけじゃないよ。白瓏館の――ああ、馬環はどうか知らないけど、皆はあんたのことを必要だって思ってるんだよ。家族だって」

「か、ぞく……?」


 顔をくしゃくしゃにしながら、涙声で問う。


「ああ、家族さ」


 幼い頃に捨てられた蜜香が持ち合わせていないはずのものだ。白瓏館の皆は、蜜香という個人を必要としてくれている。


「ら……藍花ぁ……」


 藍花にぎゅっと抱きつく。

 涙が止まらない。今まで溜め込んでいたものを洗い流していくように、とめどなく流れていく。

 蜜香はそれから、太陽が天辺に昇るまで泣き続けた。


     ***


 ひと月が経った。

 今宵は再び衛登将軍が白瓏館を訪れるとあって、いつもと比べて夕刻の慌ただしさが増している。

 そして蜜香にとっては、衛登将軍への返答の期日でもあった。

 とはいえ、蜜香はいつもと変わりのない生活を送った。朝起きて湯を浴み、昼過ぎまでは藍花の部屋で茶を飲みながら歓談し、さっきまでは小鈴に藍花から聞いた面白い客の話をしていた。

 夕方が近くなり、洛楼に喧騒が増えてきてからは、ずっと窓の外を眺めている。そろそろ客が入り始める時間だ。

 男がひとり、女に誘われて妓楼の中に入っていくのが見えた。いつぞやに見た光景と同じだ。


「おう、蜜香」


 階下から低い声がした。見ると、いつの間にか衛登将軍がひと月前とほとんど変わらない姿で立っていた。


「衛登さま、いらっしゃい」


 蜜香が悪戯っぽく言うと、衛登は苦笑した。


「畏まられるとむず痒い。衛さんで良い」

「すぐ降りるから待っててね」


 蜜香はそう言って、跳ねるように窓から離れた。


「それで、返事は決まったのか?」


 隣に座った衛登が問う。蜜香は迷うこともせず、首を大きく縦に振った。


「はい。わたしは白瓏館を出ません。必要としてくれる人がいるから」


 その答えを聞いて、衛登はごつごつとした厳つい顔を崩して笑った。


「ははっ、ひと月の間にいい女になったな。いずれ抱いてやろう」


 蜜香は苦笑する。


「わたしは遊女じゃないけどね」

 時代考証なんてなかった。

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