第1話 『少年の終わり』 1
男はいつ、その少年を終わらせるのだろう。
所謂大人になる事がそうなら、それはいつか。
答えられるものはいない。
男はいつだって知らぬ間に、少年ではなくなっているのであろうか……。
* * *
一人の少年が道を走ってくる。
深まる夜の静けさをうまく身にまとえない事が、彼をして少年であると裏付けている。
彼は十六才――高校一年生――。
これから見舞われることにより、彼は少年を《知らずのうちに》脱皮していくのだが、その容姿はどことなく無邪気で、そうなるのはあまりにむごい事と思わせる。
少年は名を、綾世貴士と言った。
「今夜はカレーだって美亜、言ってたからな。加速装置! カチッ、なんてね――」
少年には妹がいる。綾世美亜、十四才。中学三年生。
両親はおらず、昨年逝った母親が姉妹のようにしていた女性の仕事場の二階に、間借りして暮らしている。無論、兄妹二人のつましい暮らしである。
母親の知己は、二人を過保護にすることはせず、経済的援助もしていない。部屋の家賃も、相場をきちんと納めさせている。
だからその暮らし一切をまかなうため、少年は定時制高校を選び、昼間は働いていた。
妹を希望する高校に進学させたい為というのも、もちろんあった。
『お兄ちゃん、美亜も卒業したら働くから!』
それが妹の口癖であり、気早にも近所のコンビニのレジ業務をのぞき見したりして、準備に余念がない。少年はそれを諫めはするものの、心の内では喜んでいた。
なにしろ、母親が逝って泣き暮らしていた妹である。こうやって一歩ずつ、成長していく姿は、なによりも嬉しく頼もしい。
今夜のカレーだってそうである。
そもそも、母の大得意、自慢のカレーライスの味は妹に引き継がれてはいたが、それは二人にとって哀しい味でもあったのだ。
それを、妹が今夜初めて作る――。
そんな日に帰りが遅くなって、少年は精一杯に駆けていた。
――あわせて、運命も加速する。
少年は丁字になった道路を右へと過ぎる時、嫌なものを目にした。
それはゴミ捨て場に置き捨てられていた、一つのゴミ袋のなかみ。
* * *
「――ヒエッ!? 人形かよ。人間かと思った――」
少年の住む地区は、繁華街の雑多な裏通り。飲食店やいかがわしい店も多い。自然、捨てられるゴミも無分別で、よく異臭を放つゴミの山は、問題に取り上げるのも今更のこと。
どのみち、このゴミたちは、深夜のうちに業者によって回収され、朝日を浴する事も無い。
――もう、この世に在って無いようなもの。
きっとマネキンか、もの好きの捨てた愛玩人形だろう。誰も、気付いたところで、驚くくらいの事である。立ち止まった少年は、しかし、そのゴミ袋から目が離せなかった。驚くだけでは、足りない何かを感じたのか。その人形は体育座りのような格好で丸くなって袋に詰め込まれているのだろう。パッと見では分かりにくいが顔形は確認でき、緑の瞳は少年の方を睨みつけるようにしていた。
「捨てたヤツ、悪趣味。あれじゃ可哀想すぎだろ――」
とはいえ、同情もそこまで。少年は気を取り直して、再び駆け始めた。
妹がカレーを作って待っているのだ。
「美亜! 兄ちゃん、今日は食うぞー!」
少年はそう口走りながら、けれども足は止まった。
そして、もと来た道を駆け戻っていく。それが運命の岐路だったなどと分かるのはいつだって事の起きた後。
少年はさっきのゴミ捨て場まで戻ると、息切れしたまま人形の姿を探したが、どこにもいない。早速、変態が持ち去ったとでもいうのか。それとも後出しのゴミに埋もれたか。
少年は手の汚れなど構わず、ゴミを漁った。
「ちくしょ! なんで俺がこんな――」
少年は、あの白い顔の、黄色い髪の人形の、開かれたグリーンの瞳をせめて閉じようと思い、戻ってきたのである。目が閉じぬなら、顔の角度を変えてもいい。
とにかく、あの人形からの凝視が頭から離れず、しかし人形は居ない。
ようやく諦めようと思った時、少年は背後におぞましい気配を感じる。それはもったいぶらずに、少年に声をかけた。
「しょ~うねん。いかんだろう? ゴミを荒らしちゃ……」
少年は振り返ると、いかにもこんな夜に相応しい男を見た。傍らには女も立っていた。
男は、だからというわけでもないが、少年ではなかった。
女はとても痩せて、美しいにも程があるスタイルだった。
――まるで、人形のように。
「おっとぉ、しょ~うねん? ボクちゃんのトラヴァースに、もう色目使っちゃう? そんな事だから、あのエンゲージに引っかかるぅ? キミの所為で、彼女は息を吹き返した。折角あきらめたのに、希望を見せちまった。さぁ、どんな責任をキミは用意している? しょ~うねん?」
「はぁ? 責任っ? し、知りませんよ? 俺はただ、落とし物を拾いに来ただけ――」
咄嗟に嘘をついた少年が、学ラン姿。
「ほう。拾いに、ねぇ……。トラヴァース・アマンダ? 今、エンゲージはどのあたり?」
嘘を即、見抜いた男は、ブラウンのはげた革ジャン。
「ハイ。マスター。ここから二〇〇メートル先の路上を逃走中です。やがて、一人の少女と接触します。近隣に他の人間は居ませんから、エンゲージは高確率でその少女をコピーするはずです――」
まるで見ているかのように話すこの女性は、濃赤のワンピースに黒のジャンバー。
「じゃ、しょ~うねん? もう会う事もないだろうけど、ごきげんよう。あの人形はボクらが確かに処分する。特別に見逃してあげるってこと。だから、忘れな――」
男はそう告げると、ゴミ捨て場を離れて行く。
* * *
少年は一緒になって駆けだしていた。
「……? どうしてついて来る? しょ~うねん?」
全力で走っているというのに、男の声には乱れがない。
「さっき――その女性が……一人の少女と接触って――それ多分、妹――」
少年の声は切れ切れである。でも十分に会話は成立した。
「はーん。キミの妹か。キミの愛の矛先か。ははーん、その無垢な愛に反応したのか。穢れ無き愛が、エンゲージの大好物だからねぇ? ま、そのせいで廃棄されたんだけどね――」
成立した会話は、しかし一方通行でもある。少年は嫌な予感がしてならない。
「俺も、行きます。意味わかんないけど、妹が危ないんでしょ!?」
少年はいつしか先頭を走っている。
道は歩きなれた路地裏。少年は目を閉じていてもたどる事ができる。
そしてきっかり二〇〇メートルへ、最後の角を曲がると少年の家が見え、妹が外灯下に立っていた。
(「ああ、美亜!? 美亜っ!! 無事だったか!! 兄ちゃん、帰ってきたぞ!! 早く家に――」)
少年から妹まで、距離にして三十メートル。それはそのまま、運命までの距離である。
縮まる程に、不安が高まる。あと十五メートル。
「美亜っ――!?」
「あ、お兄ちゃん!」
あとたった五メートル、互いに伸ばした腕で、あと二メートル。
しかし、少年の指が妹に触れることは無かった。
少年が触れたのは、運命の背中である。
なぜそうなったのか――。
少年と妹との間の僅か一メートルに、知らない体が割り込んでいる。
黄色く長い髪。真っ白に光る服。背は少年より高かったが華奢で、あの怪しげな男が連れている美人とまるで同じスタイルに見えた。
少年は背中越しに、その運命の声を聴く。
「コピー正常ニ完了シマシタ。エンゲージ・スタイル・ノヴァ、再起動シマス……」
言いながら、運命はゆっくり振り向く。
その腕の中には、動かなくなった妹、美亜の姿があった。