??? 100%
「おはよ」
俺が挨拶しても圭は聞こえないふりをした。それくらい怒らせてしまったのだから仕方がない。
「弘兄、ごみ出ししてくる」
弘和のことだけを見てそう言うと圭は店を出て行った。その後ろ姿が見えなくなっても俺は圭がいた場所を向いたまま、じっと立ち尽くしていた。
「亮太、やっぱり協力しようか?」
オレンジ色の西日がサンシェードの間から差し込み、カウンターに置かれたグラスをキラキラと照らす。働き始めた時よりも日は短くなり夏は終わりを迎えようとしていた。
「いいよ。夏が終わればアイツともう会うこともないから」
「圭も同じこと言っていたよ。お前たちそれでいいのか?」
そう言う彼は子どもの喧嘩を見守る親のような優しい顔をしていた。こんな優しい男なら圭が惚れるのも分かる気がする。
「正直に言うと俺は圭を男友達として見れないんだよ。一緒にいればそれ以上を求めちまうし、そういう目で見ちゃうんだ。そんなの、お前だって嫌だろ?」
弘和はきょとんとした顔をしていた。そしてくすくすと笑いだす。
「何だよ、弘和」
俺は弘和が何で笑っているのかさっぱり分からなかった。
「ごめん。お前って純粋だなと思ってさ。お前さ、姉ちゃんが巨乳だから女はみんな胸がでかいものだと思ってないか?」
「なんだよそれ。女は乳があるもんだろ」
「それはそうだけど、圭が怒っているのはだな、その、あれだな……あの――」
何か言おうと宏和が言葉を選んでい間、俺は宏和の言葉の違和感に首を傾げた。
「ところで何で弘和が俺の姉ちゃんの巨乳を知っているんだよ。姉ちゃんの乳がでかくなったのは高校入ってからだぞ」
「う、噂だよ、ほら俺も昔から巨乳が好きだっただろ?」
確かに弘和の彼女はどの子もみんな巨乳だった。弘和との会話にどこか引っ掛かりを感じながら考え込んでいると濡れた布巾を手渡された。
「そんなことよりもうすぐ夜メニューの時間だぞ、準備にかかってくれよ」
弘和はそう言いながら立ち並ぶ酒瓶を丁寧に並べ直す。酒屋の息子だけあって弘和は酒を大事に扱っていた。俺はテーブルを拭きながら夜用のメニュー表を置くと端の方に書かれた『シークレットカクテル』の文字が目に入った。
「これさ誰にも作らないならメニュー表に乗せる必要ないんじゃないか?」
弘和が酔わせたい相手にだけつくるそのカクテルは、まだ誰も口にしたことがない。女を口説くために用意したのであればもう必要ないはずだ。しかし彼はメニュー表を訂正しようとはしなかった。
「それがないとこの店をやる意味がなくなるんだよ」
弘和は少し寂しそうにそう言った。
夜の部の開店時間間際に店の中へ戻って来た圭は、その後も俺を無視し続けた。俺も圭もいつもの仕事を黙々とこなしてはいるが、俺たちの微妙な雰囲気を察してか常連客たちは早々と帰っていく。「仲直りしなよ」なんて帰り際に声をかけてくる客もいた。そうでなくとも客はピーク時よりも少ないのに俺は責任を感じていた。
「弘和、なんかごめん」
「気にするなよ。夏も終わりに近づけばこんなもんさ」
弘和はメニュー表に目を落とし浮かない顔をした。秋が終われば海の家は解体され、このバーもなくなる。
「亮太の言う通り、このカクテルは必要なかったかもしれないな」
その時、一人の客が店に入って来た。
『すげえ巨乳』
あまりのインパクトに俺の視線は胸元から顔へと上がって行く。オレンジ色のマキシドレスの胸元には日にさらされていない真っ白な深い谷間が刻まれている。女はゆるくウェーブのかかった長い髪をかき上げた。その顔を見て俺はげんなりとした。
「姉ちゃんかよ」
「何よ、来ちゃ悪いの? この店で一番強い酒を用意しろってそこのバーテンダーに伝えてよ」
瑠璃子は勝手に籐でできた一番立派な席に座る。
「ごめん、あれがうちの姉ちゃんなんだ」
「うん、大丈夫。お酒ならすぐに用意するよ」
心なしか弘和は興奮気味に早口で言う。そんな彼を見るのは初めてだった。そして海のように澄んだ瑠璃色のカクテルを作るとカウンターを出て自ら瑠璃子の元へと行った。
「ずいぶんきれいなお酒ね。本当に強いの? 私は手っ取り早く酔いたいのよ」
カクテルを見た瑠璃子は挑戦的な目で弘和を見る。
「これはこの店で一番強いカクテルですよ」
それは弘和が酔わせたい相手につくるシークレットカクテルだった。遊び人の弘和は自分好みの巨乳が店にやってくるのを待っていたのだ。
「ふうん」とカクテルをマドラーでかきまぜるとシュワシュワと細かな泡がたつ。
「そんなに酔いたいなんて酔わないとやってられない理由でも?」
「あなたには関係ないでしょ」
瑠璃子の頬がぴくりと動いたのを見ると弘和はふっと柔らかく笑う。
「関係ないなんて酷い。俺は君をずっと待っていたのに」
そう言いながらも視線はマキシドレスの胸元からのぞく谷間に注がれていた。
「調子がいいのね、彼氏がいるくせに」
圭はスタッフルームのある暖簾の奥で二人の様子を見つめていた。俺はいてもたってもいられずに圭のそばへと駆け寄る。
「圭、ごめん。今すぐに姉ちゃん追い出すから」
「そんなことしてどうするんだよ、本当に鈍感だな」
圭は呆れながら言った。しかしその目は切な気に瑠璃子の胸を見ている。
「あんなのただの脂肪の塊だよ」
俺の言葉に圭の顔はみるみる赤く染まる。そして小さな声でつぶやいた。
「お前だってないよりあった方がいいんだろ」
寂しそうに俯く圭に俺の中の何かが音を立てて崩れ落ちた。
「俺はおっぱいなんてなくてもお前がいい」
「え?」
驚く圭を置いて俺は弘和の元へ行く。
「おい、弘和! 俺はお前ならあいつを幸せにできると思ったから諦めたんだぞ! なのにあっさりと瑠璃子のGカップにやられてんじゃねぇよ!」
弘和はこうなることを予想していたのか余裕の笑みを浮かべていた。
「亮太、俺は初めから女しか恋愛対象じゃないよ。お前はあいつがいいのか?」
瑠璃子は突然、自分の目の前で繰り広げられたボーイズラブな展開に目を丸くしていた。
「え? 何? 亮太も弘和の彼氏が好きだったの?」
これじゃ瑠璃子のいいネタだ。でも今はそんなこと関係ない。
「ああ、そうだよ――」
俺は覚悟を決めた。
「男とか女とか関係ない。俺は圭が好きなんだよ!」
まるで時が止まったかのような沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは瑠璃子だった。
「圭って……圭ちゃん? 亮太、もしかしてあんたの言っていた少年って圭ちゃんなの?」
瑠璃子は目を点にしながら聞く。圭ちゃん? なんで瑠璃子が圭のことを知っているんだ。俺たち姉弟は「え?」「え?」とお互いの顔を見る。
その様子を面白そうに見ていたのは弘和だった。
「そうだよ、瑠璃ちゃんの言っていた俺の彼氏は圭だよ」
すると瑠璃子は頭を抱えてため息をついた。
「亮太、あんたってバカで鈍感だと思っていたけどここまでとは……」
「なんだよ、どういうことだよ」
瑠璃子は手招きして圭を呼んだ。圭は真っ赤な顔をして大人しくやってくる。
「圭ちゃんは女の子よ。そして弘和のイトコなの」
「え?!」
俺は思わず圭の胸を見たがどう見てもぺたんこだった。
「嘘だろ? だって――」
まだ信じられない俺に圭がムッとしながらダボダボのTシャツを脱ぐ。
「うぉ! やめろ、圭!」
そう言いながらも目を隠した指の間から俺はしっかりと見た。細い身体には水色のビキニを着ている。
「な、なんで男のフリしていたんだよ!」
「裸を見られたのに男だと思われたんだぞ! それなのに『女です』なんて恥ずかしくて言えるか!」
圭の言葉に出会った時の圭の姿がボワンと浮かぶ。
「見てない見てない! 大事な部分は見てない! あーちきしょー、そういうことならちゃんと見ておくんだった! いてっ」
俺の頭に瑠璃子の鉄拳が飛ぶ。揺れる瑠璃子の胸に圭はさっきと同じ切なそうな顔をした。
「その顔、さっきもしてた……」
「私も瑠璃子さんみたいに胸があったら亮太に女だって気づいてもらえたのにって哀しくなっただけだよ」
「圭ちゃん、健気すぎるわぁ……分けられるものなら分けてあげるのに」
瑠璃子は圭を抱きしめた。
「だめだめ、そんなことしたら瑠璃ちゃんのが小さくなっちゃうだろ」
真面目に言う弘和に瑠璃子がちっと舌打ちをする。
「あんたの頭の中は相変わらずそればっかりね」
「なぁ、さっきから思ってたんだけど二人は知り合いなの?」
すると弘和は瑠璃子の肩に手をまわしてにっこりと笑った。
「やっと気づいたか。瑠璃ちゃんは俺の元彼女なの。俺、瑠璃ちゃんが忘れられなくてさ。瑠璃ちゃんの家が近いこの海岸でバーやることにしたんだよ。だから亮太に遊びに来いって言ったのも手伝ってほしいって言ったのも全部瑠璃ちゃんに繋がるためだったんだよね」
「え、じゃあ圭も知っていたの?」
「うん、知ってた」
圭はあっけらかんと答えた。何も知らないのは俺だけだった。
「じゃあさっき弘和が俺を煽ったのは――」
「ああでもしないと二人とも素直になれないと思ってね。ほら、言っただろ。仲直りしたいなら協力するって」
「私たち、弘和にまんまとハメられたみたいね」
ため息まじりに瑠璃子が言う。でも俺は解せなかった。優しい弘和が付き合った彼女にひどい別れ方をするとは思えなかったのだ。
「おい、姉ちゃん、ボロ雑巾のように捨てられてんじゃなかったのかよ」
「そうよ。弘和は私が腐女子だって分かるとすぐに別れを切り出したの。私のことを全部愛してくれるって言ったのにひどいでしょ」
しかし、弘和はそれを否定した。
「俺は別れたいとは言っていないよ。距離を置きたいって言ったんだ。俺の彼女である瑠璃ちゃんが他の子と俺を恋人にして喜ぶ気持ちが理解できなかったんだよ。しかも男同士に置き換えて……。今まで圭に嫉妬する女の子はいたけど、こんな経験は初めてだったから俺も受け止めきれなくて」
「いや、受け止められる方が難しいだろ。よく姉ちゃんも言ったな」
「私も腐女子であることは隠し通すつもりだったのよ。でもあの晩、弘和と圭ちゃんと3人で飲んだ日に青葉酒店にある『LURI』を全部飲み干したら気持ちよくなっちゃってね……漫画のネタ帳見せちゃったのよ。ネタ帳は私の妄想が炸裂してたから弘和もドン引き。今でもあの顔は忘れられないわ。でもその漫画はバカ売れしたんだけどね。ほら、あんたにも渡したでしょ?」
俺は瑠璃子に投げつけられた漫画を思い出した。あの登場人物は二人に似ているのではなく、二人をモデルにしていたのだ。
「瑠璃ちゃん」
弘和は彼女にひざまずきその手を取った。
「俺は瑠璃ちゃんが腐女子でも構わない。昔の俺は君のことが理解できなかった。でも離れてみて好きという気持ちに腐女子であることは関係ないって気付いたんだよ。妄想のネタにされても瑠璃ちゃんが喜んでくれるならそれでいい。だから俺とやり直してくれないか?」
瑠璃子は目を潤ませ弘和の手を握り返す。
「実はね、弘和が美少年といい感じだって聞いて気が気じゃなかったの。妄想では許せても現実ではあなたを独り占めしたいなんて勝手よね。弘和、こんな私でいいの?」
「もちろんだよ」
手を取り合い二人はやり直すことになった。
「何も知らなかった俺だけ馬鹿みたいだ」
幸せそうな二人を見て俺はがっくりとうなだれた。
「まぁいいじゃない。おっぱいおっぱい言っていたあんたが勘違いとはいえ男でも好きだって宣言できる相手に出会えたんだから」
瑠璃子の言葉に圭を見たが目線はすぐに彼女の胸元へいく。ふくらみのまるでない胸とビキニの間には危うい隙間が空いていた。俺はすぐにダボダボのTシャツを圭にかぶせた。
「なんだよ、いきなり」
「好きな子のおっぱいだぞ! 誰にもみせたくないんだよ」
圭は耳まで真っ赤にしてTシャツの上から胸元を隠した。
「近寄るな! 変態!」
「ひどい……」
やっぱり俺は圭にとって変態止まりか……。
瑠璃子は俺と圭のやりとりを見ながらにんまりと笑う。
「いいネタになりそう」
彼女はカクテルに口をつけると一口飲んで目をぱちくりとさせた。
「弘和、これただのサイダーじゃない! アルコールが入ってない!!」
弘和は満足気に口の端を上げる。
「瑠璃ちゃん、このカクテルにアルコールは必要ないんだよ。シークレットカクテル『瑠璃子』は俺の愛で君を酔わせるためのカクテルだからね」
「弘和ったら」
俺の腕にサブイボが並び立つ。しかし瑠璃子はうっとりと弘和のクサい言葉に酔いしれていた。