乾杯
最初からBL要素がありますので苦手な方はお気をつけください。
霜月透子さまナツコイ企画参加作品です。
彼が俯くと垂れた前髪でその表情は見えなかった。不機嫌に尖らせた唇だけがやけに色っぽく、俺の理性を打ち砕く。俺は耐えきれずに彼の細い腕を取り、逃げられないように壁へと追いこんだ。
『男同士なんだぞ、冷静になれよ』
彼は男にしては高く鼻にかかった声でそう言うが俺に掴まれた手を振りほどこうとはしない。
『好きなんだから仕方がないだろう。この気持ちは止められないんだ』
顔を近づけると観念したのか彼も顔をこちらへと傾ける。俺の視線は彼の顎、Tシャツの喉元から平らな胸へと下りていく。俺はよほどひどい顔をしていたのだろう。彼は俺が掴んでいないもう片方の手を振り上げた。
『どこ見てんだよ! 変態!!』
バッチーン!!
「ギャ! 痛いッ!!!!」
俺は左の頬をおさえて飛び起きた。だが叩かれたはずの頬に痛みはない。
「ゆ、夢か……夢でよかった」
じっとりとした真夏の熱気がこもる部屋で流れる汗をTシャツの裾をめくって拭く。突き刺すような強い視線を感じてベッド脇を見ると、ぼさぼさの長い髪の間からのぞくギラギラした瞳と目があった。
「ギャッ! 姉ちゃん何やってんだよ!」
「愚問ね。観察に決まってるでしょ。男の目線であんたのこと見てんの。あんたってどこからどうみても普通よね。普通過ぎて何の魅力もないわ」
「悪かったな! 普通で! 弟を観察するとか姉ちゃんが奇人すぎるんだよ!」
姉の瑠璃子はBL漫画家だ。BL=ボーイズラブ、すなわち男同士の恋愛を題材にして漫画を描いている。俺には全く理解できないが姉のような趣向を好む女性は多いらしく瑠璃子の本は飛ぶように売れている。
「私の身の回りの男はあんたとお父さんくらいなんだから黙ってモデルになりなさいよ」
「俺でBL書こうとしても無駄だぞ! 俺は女が好きなんだ! おっぱいが大好きなんだよ!」
瑠璃子はちっと小さく舌打ちをした。
「おっぱいおっぱいって、どいつもこいつも――」
瑠璃子は昨年の秋別れた男を引きずっている。瑠璃子のGカップを狙って近づいた男はひと夏の恋を楽しむと彼女をボロ雑巾のように捨てたらしい。そして男と過ごした夏は再び巡り、嫌でも思い出される男から気を紛らわすため、余計にBLにのめり込んでいる始末だ。
「変な夢は姉ちゃんのせいか」
「何? どんな夢みたの?」
「姉ちゃんには関係ない」
男にキスしようとする夢なんて死んでも言えるか。興味津々の瑠璃子を無視してカーテンを開けると日はもう高く上がっていた。生暖かい風が肌に触れ、じわっと汗が身体ににじみ出る。窓から見える青い海はキラキラと輝き、波は穏やかで絶好の海水浴日和だ。
「気晴らしに海に行って水着の女の子でも拝んでくるかな」
瑠璃子は鋭い日差しを手でよけながら「うう……」とうめき声を上げていた。その肌は海の近くに住んでいるとは思えないほどに透き通る白さだった。
「溶ける……溶けてしまう」
「妖怪じゃあるまいし溶けるわけないだろ。家に引きこもってる方が溶けそうだよ。姉ちゃんも外に出たら? 小学校の同級生が海の家で働いているんだ。だから自由に来ていいって言われてんだよ。ほら、3丁目の弘和ってさ、分かる?」
「青葉酒店の息子の?」
「そうそう、夜はバーにして弘和が仕切るらしくてさ。おしゃれなカクテルとかあるらしいよ。まぁあいつのことだから女目当てでやるんだろうけどさ」
すると瑠璃子は露骨に嫌な顔をした。
「絶対いかない。女たらしの酒飲むくらいなら家で好きなカップリング考えながら安い酒飲む方がよっぽど美味い」
「腐ってんなぁ」
「余計なお世話」
怒って立ち上がるとヨレヨレのTシャツにGカップが揺れた。
「姉ちゃんみたいのをGカップの持ち腐れって言うんだぜ」
「痛ッ」
瑠璃子は俺に向かって本を思い切り投げつけた。それは見事に鼻に命中し涙が出そうな痛みに鼻を押さえる。
「純愛の前ではおっぱいなんてただの脂肪の塊よ。バカ亮太」
瑠璃子はそう言うと俺の部屋を後にした。落ちた本を拾うとそれは彼女が去年書いた漫画だった。表紙ではいかにも好青年な男と中世的でかわいらしい美少年が見つめ合っている。
「ないない」
俺は笑いながら本をベッドの片隅へと置く。しかし横目でもう一度表紙を確認してから何となく左頬をさすった。