ある夕立の日
「あちぃ……」
無意識に零れてしまう猛烈な暑さへの恨み言。夕方になってもまだなお続くこの暑さにはいい加減うんざりとさせられる。
名前は遠坂玄。高二。訳あって一人暮らしをしている。
季節は暑さ真っ盛りの夏。暑さのピークを超えたはずなのに、これはどういうことなのだろうか。いくら暑いと呟いた所でどうにかなるわけでもないのだが。クーラーをつけようにも一人暮らしの学生には節約せざるを得ない状況故に、それができない状態だ。
「あちぃ……」
夏休みの真っ最中でもあるのに遊びに行く予定はなく、ひたすら家に篭ってネットサーフィンを続けるのだから、悲しいものだ。きっと今日も海へ行ってきれいな女の人達を見ている奴らがいたのだろう。羨ましいことこの上ない。
「……ん?」
空いた窓越しに外を見ると、どんよりとした黒い雲が広がっていた。どうやら、本格的に降ってくるらしい。夏らしい、夕立だ。これで涼しくなるだろうと、少し気持ちが軽くなった。
***
降られる前に洗濯物を取り込み、再びネットサーフィンを始める。同時に雨が降り始めてきた。洗濯物が間に合ってよかった……。
特にやることのない時はぼーっとしながらネット小説を読むのに限る。ファンタジックなストーリーはやはり自分みたいな男をくすぐらせる何かがある。だから止められない。止まらない。
さて、次は何を読もうか。そう思い検索していると、不意にインターホンが鳴った。それも、連続で。
「はいはい、いますよ!連続で鳴らさないで!」
こんな雨の中で誰だろうか。というかまず、インターホンを連続で鳴らすのは本当に勘弁して欲しい。一回鳴らせば通じるから!
「誰だよこんな雨の中……」
「ゲン、助けてくれぇ……」
「へ?」
ドアを開けてみると、びしょ濡れの少女が佇んでいた。服装は完全に男モノで、サイズが合っておらずぶかぶかだ。しかし持つものは持っているらしく、そこそこの大きさだ。同い年くらいなんだろうか、だが少し幼さが残るような顔立ちでとても可愛らしい。
……誰、この可愛い女の子。
「えっと、どちら様?」
「オレだよぉ!凛だよぉ!」
必死になって身分証明をしてくるか、果たしてこいつは自分が知っている凛なのであろうか。……いや、ない。あいつはめちゃくちゃイラッとくるくらい容姿はいいが、男だ。断じてこんな可愛らしい女の子じゃない。
自分が今頭に浮かべている凛とは、小さい頃から一緒につるんできた親友のことだ。いつ頃からだったかは覚えていないが。
容姿が良く、頭も良いとくる完璧なやつだが、昔から何かとトラブルを抱えて自分も巻き込んでくる奴。なんで自分みたいな奴とつるんでるのか未だによくわからない。小さい頃から遊んでいるからだろうか。
それはさておき、とりあえず目の前の少女への処遇を決めなければならない。必死の形相で伝えてくる辺り、嘘を言っているようには見えない。だがどうにしても、あの憎たらしいイケメン男とは繋がらない。
「本当なんだよ……助けてくれよぉ……」
「……あー、わかった。わかったから泣かないでくれ……」
今にも泣き出しそうな凛(?)をみるとさすがに罪悪感が湧いてくる。それに、さっきケンと呼んできたのも気になる。この呼び方は彼しかしないものだし、彼女を見るといつかの凛と重なって見えた。
「本当か……? あ、ありがとう!」
満面の笑みでお礼を言ってくる美少女ちゃん。やばい、可愛い。なんというか、なぜか小動物を見ている気分になる。だからなのか、今までろくに女性と関わってきたことがなかったのにこうして普通に話せている。
「とりあえず、風呂に入ってこい。そのままじゃ風邪引くだろ」
「う、うん。ありがとう……」
さすがにあんな土砂降りの中で来たんだから、肌寒く感じているかもしれない。
「ここが風呂場ね。洗濯物はカゴがあるからそこに入れておいて。替えは置いておくから」
「わかった……!」
さて、調べ物をしなければならなくなった。
もし仮に彼女の言っていることが本当であるならば、それはかなりの異常現象であろう。というか、男が急に女の子になっちゃいましたなんて聞いたことがない。せいぜい、ネット小説の一ジャンルでしか読んだことがない世界だ。TSとか性転換とかと言ったものだ。少しだけ……いや、がっつり読んだことがあるが、あれはファンタジーというかフィクションのものであって、現実では起こり得ないはずのものだ。
しかし、彼女の言うことは正にそれに当たる。物事に偶然はないとは、誰の言葉だったか。だから自分は“絶対ありえない”と切り捨てられずにいた。もしこの異常現象の中が本物であるなら、彼女はとてつもない不安に駆られているだろう。そんな彼女を“ありえない”と切り捨ててしまえば、孤独になってしまうのではなかろうか。
「とは言っても、どうしてあんな風に……?」
検索を掛けてみてもなかなか引っかからない。当然のことではあるのだろうが、それでもイライラとしてくる。
そして調べ続けること三十分程、成果を何一つ上げることができなかった。
「はぁ……」
極力見つけられるよう努力はしたつもりだったが、何一つ成果を挙げられなかったことに凛への申し訳無さが募ってくる。
「ふ、風呂、ありがとう……」
「ん?ああ、出てきたか」
そうこうしている内に風呂から上がってきたようだ。とすれば、自分もちゃっちゃと入ってきてしまおうか。サッパリしたいし。
「それで……どうだった……?」
「うぐ……」
弱々しく尋ねてくる凛に、更に申し訳ない気持ちが湧いた。無意識のうちに溜め息が零れてしまう。
「すまん、見つけられなかった……」
「そ、そっか……」
そう呟くやいなや、黙り込んでしまった。ごめんよ。
「悪いな……風呂入ってくるよ。落ち着い……てはいられないだろうけど、くつろいでてくれ。腹減ったりしたら冷蔵庫から適当に食べていいから」
「……ありがとう」
「……ごめんな」
謝罪の言葉を落とし、凛から逃げるように風呂場へと向かった。
***
「はぁ……」
思わず溜め息が零れてしまう。
ゲンが小さく呟いた言葉を聞き逃さなかった。聞き逃せなかった。申し訳なさそうに「ごめん」と呟いた彼の顔が頭に張り付いている。むしろ悪いのは自分の方であろう。本当ならこんな怪異の中にいる自分を受け入れた彼には大いに感謝するべきなんだ。だというのに、彼に難題を押し付けてしまった。
「どうしてこうなったんだろ……」
思い当たる節がないわけではなかった。しかしそれはかなり現実味の薄いような―――いや、こんな怪異の中でなら現実味も何もないだろう。
目が覚めたら女の子になってた―――フィクションでならよくあるモノであろう。だがそれがまさか自分に起こるだなんて夢にも思っていなかった。初めに感じたのは違和感だった。そしてその違和感を認識した頃には―――気がついたらゲンの家の前にいた。雨が降っていたことだって、ゲンの家に上がらせてもらってから気がついたことだった。
ゲンと知り合ったのは、小学生の時だった。自分で言うのもアレだが、自分の容姿はかなり中性的であり、周囲からイジメを受けたりしていた。そんな中で庇ってくれたのがゲンだった。もう彼は覚えていないようだが、自分はよく覚えている。当時の自分は彼がヒーローのように見えて、一緒にいたいと思っていた。
ゲンはそんな、小さい頃から一緒に遊んできた仲であり、この歳になっても未だつるんできた仲だった。
ふと、部屋に置いてあった鏡が目に入った。彼がいないことを確認し、恐る恐る鏡を確認してみる。
肩まで伸びた黒い髪、背も低くなり一六〇あるかないかといった所。慎ましい女性の象徴も確認できて、幼さの残る顔には恐怖が浮かんでいた。借りたジャージももちろん男モノだからぶかぶかだ。
映ったのは、やはり見知らぬ女の子だった。そしてそれが自分であることも、理解させられた。
「うぅ……」
無意識に涙が出てしまう。ゲンと会ってからはもう泣かないようにしていたのに。性別が変わったせいで性格までもが変わってしまったのだろうか。だが、それをぐっとこらえて今するべきことを考えてみる。
ひとまず彼には自分のことを認識してもらえた、と思って大丈夫だろう。その次は……家族へ連絡だろうか。時間は午後七時半を回っている。そろそろ連絡を入れないとだめだろう。
「これで、よし」
今日はゲンの家に泊まらせて貰うという旨を連絡しておいた。昔からそうやっていたから怪しまれることは……恐らくないだろう。
外を見れば土砂降りであり、よくもまああんな中を走ってきたものだと他人事のように考えてしまう。もちろんこれが現実逃避だってことくらいはわかっているが、そうでもしないと自分がなくなってしまいそうで怖いのだ。
しばらく外を眺めていると、空が一瞬光り、その後空気を破るような激しい音が鳴り響いた。
「ひぅっ……!」
恐怖のあまり思わず窓から飛び退いてしまった。
「怖い……早く出てきてよぉ……」
その後も何度か雷がなり、そのたびに泣きべそをかきながら、ひたすらゲンが戻ってくるのを待ち続けた。
***
風呂の中でぼんやりと、どうしたら良いのかと考えていたら大きな雷の音によって現実に引き戻された。それと同時にリビングで待機させた凛が心配になり、慌てて風呂から上がったのがさっきまでのこと。
「さっきでかい雷鳴ってたけど大丈夫かって、お前大丈夫か!?」
リビングに戻ってみると、蹲って泣いている凛を見つけすぐに駆けつける。あっちも自分に気がついたのか、ばっと顔を上げた。顔が涙でぐしゃぐしゃになっていた辺り、かなり泣いてしまっていたのだろう。
「ゲン!?良かったぁ……怖かったよぉ……!」
抱きついてくる凛によしよしと背中を擦ってやると、
「……!も、もう大丈夫だから!」
と突っぱねられた。顔が真っ赤になっていた辺り、どうやら気に食わなかったらしい。泣いている人にはあれが一番安堵感を抱かせられると思ってやったんだけど……。
「そうか、ならよかった。……ところで、なんでそんなに泣いてたんだ?」
「……ら」
「ん?」
「雷が怖かったから!!!」
「あ、ああ、そうだったか……悪かった」
どうやらもう少し早く出てくるべきだったようだ。とは言え、特に凛自身に別状が有るわけではなさそうだったので良かった。
「さて、これからについてなんだ……が」
「……!」
話を切り出そうとした手前に凛のお腹が主張した。どうやらお腹が空いたらしい。
「……の前に、飯食うか」
「……うん」
この顔を真っ赤にした彼女は、さすがにわかりやすかった。
***
「……ごちそうさま」
「お粗末さま」
特に夕食の間に何かあるわけでもなく、異常に静かな時が過ぎた。最低限の炊事スキルしか持ってない自分はろくなモノを作れる自信がなかったが、凛がバクバク食べておかわりを要求してきた辺りはまあ、口に合ったのだろう。こういう所は変わらないのな。
「さて、これからについてだが」
「うん」
「正直どうしようもない。お前をここに住まわせるのは構わないが、それだとお前の母さんと父さんが間違いなく暴れる」
「うん……そうだね。でも今日は泊まるって伝えておいたよ」
「そうか。それで―――お前は心当たりがないのか? こうなっちまった原因のさ」
「―――ない」
少し間が空いてからの返答、これは本当でも嘘でもないといった所か。恐らく凛の中でも見当はついているが、絶対だと言いきれないという所なのだろう。こうなると、彼女が言い出してくれるのを待つしかない。
「……そうか。じゃあ、仕方ないな。今日は泊まってけ。明日お前の母さんと父さんの所に行く」
「えっ……」
不安そうな表情をしたが、こうでもしなければ進展しない。何日も凛から連絡がなければ彼らだって心配するに違いない。……まあ、女の子になった凛が今日家に泊まっていってから明日向かうのも間違えなくやばいのだが、こんな時間に外にほっぽり出すわけにもいかない。
「当たり前だろうが。親に心配かけたいのか? 先延ばしにすると更に会いづらくなるぞ?」
「それは……そうだけど……信じてくれるかな……?」
「……ああ。親を信頼出来るなら、子供は黙って親の言うことを信じるべきだよ」
「そっか……」
調べ物をしてみても結果実らず。凛自身も恐らくまだ話せない。となればまずは凛の周りの環境を出来るだけ整えてあげるべきだろう。
「さて、じゃあ寝るか。凛、お前は俺の部屋使え。場所はわかるだろ?」
「ゲンはどうするの?」
「俺はここで寝る。まあ、布団敷けば寝れるだろ」
長い付き合いとは言え凛はお客さんだ。ならば良い寝床を提供してあげなければ。
「……だめ」
「は?」
「……だめ。一緒に寝る」
「はぁ……?」
なんでまたまあ、急にわがままになったのだろうか。……だけどまあ、今日くらいはいいか。雷がなるたびに震える彼女を見ると、間違えなく一人では寝られないだろうしな。
***
(なんであんな事言ったんだよオレのバカぁぁぁぁ!!!)
別々の部屋で寝ようと提案された瞬間に否定の言葉が出たのは、自分でも想定外のものだった。ただ口が勝手に動いた結果だったのだ。
結局、彼は自分の意見を呑んでくれたらしく、同じベッドの上で横になっている。心臓が破裂しそうなほどドキドキする。ゲンの匂いのせいだろうか。
「ねえ、ゲン、訊いてもいい?」
「ああ、なんだ?」
彼の背中越しに声が聞こえる。この怪異と、雷の恐怖心を彼の声が掻き消してくれる。
「なんでオレが凛だって信じてくれたの?」
いや、もしかしたら本当は信じてもらえていないのかもしれない。そう思うと掻き消されたはずの恐怖心がまた這ってくるのを感じた。
「そうだな。お前が家に来た時のお前と、いつだか泣きべそかいてた時のお前が重なったからか……ごほぉっ!!」
「……むかつく」
ちょっとイラッときたので思いっきり背中を殴った。これくらい許して欲しい。というか大した力も入っていないのだからそんなに痛くないだろう。
「でも、ありがとう」
「……ああ」
それからどれくらい経ったか。外の雨はまだ鳴り止まず、雷も同じく。だけど彼と一緒にいると怖くない。また、ゲンが自分のヒーローになってくれたんだと思うと嬉しくも、気恥ずかしくも感じた。
「ねえ、ゲン……ゲン?」
規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやら眠ってしまったらしい。小さい頃から見てきた、だけど今は少し大きく感じる背中に抱きついてみる。……心地よいものが感じられた。
「ありがとう、ゲン」
囁いた声は彼に届いただろうか。届いていないかな。
明日はきっと、忙しくなる。とても不安だ。母さんに、父さんにお前は自分の子じゃないと言われてしまったら……?考えたくもない未来だ。だけど彼は親を信じろって言ってくれた。
そうは思っても不安なものは不安だけど……ゲンと一緒なら乗り越えられるような気がした。