007.[幻泡]と[灼腕]
「(……どうして、どうしてこうなった……!)」
冷気と共に数え切れない程の泡が舞い踊り、松明の様に燃え盛る炎から火の粉が弾け飛ぶ。幻想的で、魔法のような、現実離れした光景。そして、それを生み出している、目の前でぶつかり合う二頭の獣たち。俺は、突然巻き込まれたこの野生の激突に、呆然とするしか無かった――
◆◆◆◆◆
「――今日も、見つからなかったか……」
動けるようになってから約二日、『世界樹』に向けて、そしてミズシロを追いかけ探しながら結構な距離を進んできたが、未だに彼女と合流できていない。流石に三日間のロスによって生まれた差はそう簡単には埋められないのか、それとも進んでいるルートがズレているのか。……最悪の可能性は、考えない。あの時死にかけた俺がこうして生きているのだ。彼女だって……無事に決まっている。
ミズシロと合流した時のためにも、所々で食べられそうな物を移動しながらも採取してきた。その結果、蠢き木苺、酸味トマト、『惑乱桃』、そして三色のキノコを結構な量収穫することが出来た。
『惑乱桃』、これはあの時食べた甘い桃のような果実のことだ。どうやら、この桃には食べた者の持つ欲求を増大、解放させるような効能がある、かもしれないことがわかった。
最初はあの集団の様子と、俺とミズシロに起こった異常から「性欲を増大させ、理性を狂わせる効能」があるものと考えていたのだが、それだと二日前に俺が食べた時の状態と合致しない。そして、あれから何度か試しに食してみたが、その度に食欲が増したり、眠くなったりといった効果はあれども、あの時の様に劣情に駆られることは無かった。俺の身体がおかしくなったのでなければ、性欲のみに限った効能ではなく、欲求全般に反応する物だったのかもしれない。気をつけて食べれば平気なはずだ。
野営しながらその惑乱桃を齧る。欲求の増大も、もうほとんど僅かにしか感じられない。ここまで来るとほとんど誤差程度の物だ。糖度が高く、栄養も十分に含まれていそうな食べ物の一つだ。選り好みしている場合では無い。――この二日間、日中の時間のほとんどを食料の確保とミズシロの捜索に充てて進んで来た。しかし彼女は見つからず、代わりに、この世界を生きることの厳しさ、難しさ、それらを改めて突き付けられた。
見つけられたのは、おそらく同郷と思われる者たち……その「成れの果て」である。この、自然の支配する森において極めて不自然な、上質なスーツだったであろう布の切れ端、血の付いたアクセサリー、そして彼らだった物そのもの。そのどれもが長期間晒されていたのか風化し始めており、少なくとも数日中に命運が尽きた訳ではないことが窺えた。
彼女が死んだ訳では無い。そのことにだけは安心しつつ、同時に不安が襲ってくる。こうしている間にも、彼女に危険が迫っているかも知れない。病気や毒に罹り、苦しんでいるのかもしれない。しかし、今の俺には何も、何も出来ない。無力感に苛まれながら、彼女の無事を祈る他に手は無い。
こうしてまた一日、夜は更けていった。もはや日課のように、呪いのように、彼女の無事をひたすらに祈りながら。
◆◆◆◆◆
次の日、早朝から移動を開始し二時間ほど経っただろうか、木々の間がそこそこに広がっており、地面が踏み締められている場所を見つけた。どうやら獣道らしく、奥まで続いている。地面をよく見ると、ウサギの物らしき足跡も残されていた。ヤツらも使っている道のようだ。
「方向的には、ある程度までは世界樹の方へ向かう道みたいだな……使わせてもらうか」
危険も承知で道に添って移動することにする。ある程度見晴らしが利くため、警戒しなければならない範囲を減らせるためだ。普段なら道無き道を移動するため、藪を抜けた先でイノシシやヘビ、角ウサギに出くわす事も少なくなかった。それからと言うもの、こういった開けた道を見つけては、積極的に利用している。特に獣道の場合、食料となる木の実や、水場へと続いていることも多い。リスクと天秤に掛けても充分にメリットの側に傾く。
だが、今回は裏目に出たようだ。獣道を少し進んだ先で、角ウサギが群れているのを見つけた。周囲の木の植生からして、落ちた木苺を食べているのだろうか。幸い、ヤツらはこちらに気付いた様子はない。
「――いや、これはチャンスなんじゃないか……?」
この森で初めて出会った危険な生物。連日追いかけられ、その角をもってこちらを串刺しにしようと狙ってくる相手。だが、俺が対抗し得るレベルの異形の生物、『モンスター』。その角ウサギを、今なら『狩る』ことが出来るのではないか。そんな考えが鎌首をもたげる。
思えば、この世界に来てからというもの、基本的に、木の実や茸といった食事ばかりで、肉を食べていない。ヘビなどを捕まえようとしたこともあるが、その時は警戒されていて失敗してしまった。――しかし、ヤツらはまだ警戒していない。離れてはいるが、後ろも取っている。
「(……いけるか?)」
荷物から先の尖った小型スコップを取り出し、木の陰に隠れながら少しずつ近付く。そうして、角ウサギの群れまで数メートルの距離まで近付くことが出来た。……スコップを握る手に力が入る。緊張感が張り詰め、呼吸が乱れかける。
「(……落ち着け、落ち着け…………)」
深呼吸を繰り返し、呼吸を整える。心なしか、緊張感も和らいだ。集中しなくては、狩るどころか、逆に狩られるだけになってしまう。群れは四匹。その全てを狩ることは不可能だ。僅かな隙を縫い、一匹が孤立したタイミングを狙わなければならない。
――群れの内二匹が食事を終え、その場から移動し始めた。体の小さめの二匹は、まだ木苺を貪っている。……行くべきか? しかし、片方を仕留めても、もう片方に襲われれば本末転倒だ。仮にこの機会を逃したとしても、一匹になるのを待つべきなのではないか?
「(……!)」
その時、まだ食事を続けていた角ウサギの片方が、藪の方へと駆けて行った。もう一匹は、まだ残っている。
「――らぁっ!」
反射的に飛び出し、角ウサギの首へとスコップを突き立てる。ゴキャ、という嫌な感触が手に伝わる。手には、血が飛び散ったスコップと、先程まで生きていた、角ウサギだった物が残された。
「……や、やった……! 狩れた……のか」
集中を切らさず、一心に狩った結果、こうして一つの成果を得ることが出来た。その勝利の嬉しさを、静かに噛み締める。
だから、気付けていなかった。何故残っていた二匹の内、一匹がその場から逃げ出したのか――
ガサリ、背後の藪から突如として、巨大な角を持った獣が姿を現した。
「――クァン」
……シカだ。しかし、自分の持っているイメージのシカよりも非常に大型で、ヘラジカと言っただろうか、下手な自動車を上回るほどの大きさを持っていた。何より奇妙なのはその角の形状だ。複雑に枝分かれしている上、更に二本の先がぶつかり合い、まるで輪の様になっていた。
そいつはのそりと獣道へと姿を現すと、こちらを意にも介さず、木に成っていた木苺を枝ごと食べ始めた。俺はその存在に、ただただ気圧されていた。
――はっと、正気を取り戻す。どうやらこいつは、危険な存在では無いらしい。気が変わってこちらを攻撃したりしない内に、さっさとこの場を離れるべきだろう。
そんなことを考えた瞬間、目の前の藪がバキバキという音を立てて圧し折られ、切り拓かれた。――少しの判断の遅れが、事態を悪い方向へと導いてしまった。
「――ゴォォアアア!」
シカに引き続きその場へ現れたのは、先のシカに匹敵する大きさを誇るクマであった。しかもシカと違い、血に飢えた眼をしており、こちらを威圧してくる。……穏便な決着は、望めそうにない。
思わず、クマと目が合ってしまった。と同時に、冷や汗が吹き出し、その場にへたり込む。
『恐怖』。あの蛇の化物と対面した時以上の、本能的な恐怖に、体の動きが鈍くなってしまった。――死ぬのか? 俺は、こんな所で終わってしまうのか? 恐怖に支配された頭では、悲観的な考えしか浮かんでこない。動けない。このままでは、あの巨大な爪に引き裂かれ、本当に終わってしまう――
しかし、ヤツの興味は、俺から逸れたらしい。今は巨大なシカに向かい、腕を振り上げ威嚇している。
「グルォアアア!!」
「――クァァアア!」
その咆哮にシカも応える。大角を構え、クマを挑発しているかのようだ。
――瞬間、二匹は激突した。大角と大爪がぶつかり合い、鈍い音が響き渡る。弾かれたのはクマの方。片腕での攻撃だからか、シカの全体重を乗せた一撃が勝ったようだ。今度は両腕で大角と組み合う。どちらも一歩も引かず、押し合っている。と、両者共に弾かれ、若干の距離が開く。
凄まじい野生同士の戦い。思わず目を奪われ、惹き込まれてしまう。すると、奇妙な事が起こりだした。
『――惑え、惑え……!』
シカが、鳴いているだけのはずだ。しかし、その『声』は、意味のある『言葉』として、脳の中へ直接響いてきた。それと同時に、シカの周りから、冷気が漂い出した。
「これは……水滴?」
いつの間にか、シカの周囲に、水滴が漂っている。その水滴は、徐々にシカの大角へと集まっていった。そして、なおもシカの『声』は響き続けている。
『惑え、惑え……泡に、惑え……!』
シカの輪のような角へと集まった水滴は、その輪に水の膜を張っていた。そして、シカがその角を大きく振ると、周囲に巨大なシャボン玉のような泡が振り撒かれた。シカの姿が泡に紛れ、捉え難くなる。
しかし、対するクマも何もせず見ているわけではなかった。クマからも、同じように『声』が響いてきた。
『燃えろ、燃えろ……燃えろ!』
周囲に響くクマの咆哮。その咆哮から脳へと響き伝わる『声』。そして――
『――燃えろぉ!』
クマの毛深い両腕に小さな火が灯る。と思うと、瞬く間に火は燃え広がり、その両腕は炎に包まれた。不思議な事に、前腕部より先には燃え広がる様子は無い。
「グルァァ!」
クマが腕を振るう。すると、その炎に包まれた腕から火の粉が飛び散り、泡を割っていった。
周囲の一角から泡が取り除かれ、シカの姿がハッキリと見えるようになった。と、それをクマは見逃さず突進し、炎の腕をシカへと叩きつける。
「――クォウ!」
不意を突かれたからか、シカは角で受けられず、胴体にその一撃を受けてしまった。攻撃を受けた部分の毛皮に火が燃え移りかけるが、シカの生み出した泡がその部分へ集まり、消火していった。
目の前で繰り広げられる幻想的でありながら荒々しい戦い、そこから目が離せない。『言葉』を話す獣に、その獣が操る不可思議な力。
『魔法』。そんな言葉が頭をよぎる。自然の力を意のままに操り、我が物としている、その在り方。圧倒的な、力。――自分は、この力を欲している。ヤツらのような怪物が息づくこの世界を、あの巨大な蛇の化物と再び見える時を、生き延びるためには、生き残るためには、同じだけの力が……必要だ。
『――惑え……惑え……霧に、惑え……!』
再び『声』が響く。シカの周りの泡が次々に弾け、代わりに辺りに霧が立ち込める。先程の一撃を受け、シカは戦法を変更したのだろうか。だとすれば、それだけの判断が出来る知能もあるというのか……。
『惑え惑え惑え……惑え!』
『声』が、より強く響き渡る。すると、霧の中に、シカと同じ影が複数現れだした。仲間を呼んだのだろうか。
「いや、あれは……」
クマが、霧に映る影の一つに攻撃を仕掛けていった。しかし、その攻撃は空振りに終わる。どうやら、シカの使った新たな『魔法』は、霧に幻を映し出す物だったようだ。
「……! グォォ……!」
今度は、シカの方から攻撃を仕掛けた。霧中から幻影も織り交ぜながら突撃し、一当てしては霧に紛れるというヒット&アウェイの戦法でクマを追い立てる。
防戦一方のクマ。しかしその目からは、強い意志が未だに燃えている様に感じた。
「――ゴォォアアア!!!」
霧からの角の一撃に、クマのカウンターが刺さる。その場に、巨大な質量が倒れこむような音が響くと、周囲から霧が晴れていった。
――決着だ。クマの前には、力尽きたシカの姿が見える。
「ゴォォォアアア! ゴォォォアアアア!!」
勝利の雄叫びか、クマの咆哮が響き渡る。そのままシカの亡骸に近付くと、その体に牙を突き立てようとした。その時だった。
「…………?!」
なんと、シカの体から色が薄れたかと思うと、その体は水のように透明になり、その場で弾けてしまった。
どうやら、これがシカの使った最後の『魔法』だったようだ。水を固めて実体のある自身の幻を創り、戦いの最中に自分は先に逃れたのだろう。
――こうなれば、面白く無いのはクマだ。仕留めたはずの大物が目の前で文字通り泡と消えた今、その怒りは誰に向けられるか。その結果は火を見るより明らかだった。
「――ゴォォァァアアア!!!」
……さぁ、覚悟を決めよう。あの戦いを見、『魔法』という存在を知った代償。それを、払う時が来た。何をしてでも、どんな手段を使ってでも、この脅威から、生き延びなければならない……!