004.[吠群]と[森耕し]
「――急げ、ミズシロ! 追いつかれるぞ!」
「う、うん! ……きゃっ」
足場の悪い森の中を走っていたためか、張り出した木の根に足を取られたようだ。幸い、彼女の足には捻挫などの様子は見られず、逃げるに当たり問題はなさそうだ。しかし、ただでさえ俺の足に比べると遅い上に、彼女は大きなバックパックを背負っている。このままでは、アレに追いつかれるのも時間の問題だ。
「――ミズシロ、しばらくバッグを預かるぞ。いいか?」
「……うん。ごめん、ね。迷惑、かけちゃって」
「そんなこと気にすんな。……絶対、生きて帰るぞ」
「……うん!」
――この異世界に来てからわずか二日目。俺たちは、この森の世界が自分たちの想像以上に危険な場所であったと、思い知らされることとなった。
******
木々の間から朝の日差しが差し込み始める。夜明け、この世界に来て初めての朝だ。腕時計は六時を示している。
「――元の世界とそう変わんねえ、かな?」
「……んぅ……あれ、アキラ…くん…?」
「っと、おう、おはようミズシロ」
「うん、おはよ、う……あれ、あたし……火の番に起きて、ない……ご、ごめんなさ、い!」
「……ああ、謝らなきゃいけないのはこっちだ。お前を起こす前に寝落ちてたみたいだ。ま、幸運にも夜の間に襲われることは無かったみたいだな」
目を覚ましたミズシロからの問いかけに、先程まで燃えていた焚き火を掻き崩しながら答える。
「取り敢えず、泉で顔洗って、あのトマトでも齧りな。さっぱりするぞ」
「……は、はい!」
身支度を整え荷物を整理し、泉のある広場を出発する。広場からは世界樹の天辺が微かにだが視認出来たため、向かうべき方角はわかっている。しかし、半日掛けてなお近づいている気配の薄い世界樹だ。おそらく、生半可な道程では無いだろう。だが、他に手掛かりはない。前に進むしか、道は無いのだ。
「――ミズシロ。改めて聞くが、大変な旅路に、危険な冒険になるかもしれない。それでも、付いてきてくれるか?」
「……はい! 改めて、よろしくお願い、します!」
「……わかった。よろしく、頼む」
******
泉の広場を出発して一時間ほど森を進んだ頃、妙な匂いが漂っていることに気がついた。
「……なんだ、こりゃ……」
意識が朦朧とし始め、視界が靄でもかかったかのように霞みだす。それでいて、頭の中ではとある一つの問題だけがハッキリと浮かび上がっている。
――ムラムラする。正直、隣を歩くミズシロをこの場で組み伏せたい劣情と衝動が湧き上がってくるのを、必死に抑えつけている状況である。
ふと、ミズシロの方を見やる。彼女も目がとろんと虚ろになっており、非常に色っぽい。腰まで伸びた長い髪は、今は動きやすいよう肩から前に垂らし二房に結んでいる。その髪が垂れる胸元は、小柄な体躯の割にはっきりとした自己主張をしており、彼女の性格と相まって、全てを優しく受け止めてくれそうな母性すら感じる。……今なら、彼女を押し倒したとしても受け入れてくれるのではないか? もうこの衝動に身を任せてしまっても……って違う! 今はそんなことを考えている場合では無いのだ! 何か、手持ちの物でこの状況を打破しうる物は無いのか――
「! これなら――しゃぐっ……あぁ、酸っぺえ! ……ミズシロ、お前もこれを食え!早く!」
とっさに食料を入れていた袋から、数個だけ残しておいた酸っぱいトマトを取り出し齧る。すると、口の中に酸味が広がるとともに、頭の中を巣食っていたモヤモヤとした物が晴れていくのを感じた。どうやらこの正体不明のナニカに対して有効なようだ。急いで、俺と同じような症状が出ていたミズシロにも無理矢理食わせる。
「?……ぁん、むぐぅ……すっぱぁー!? あ、あれ、アキラ、くん?」
なんとか正気に戻ったようだ。しかし、この事態を引き起こしたであろう臭いは一体何処から……?
辺りの木を注意深く見ながらしばらく進む。進むほどに妙な臭いは強くなっていき、数分は歩いただろうか。辺りの木に、艶めかしい色合いの桃のような果実が成っているのが視界に入った。
「――!? この実か……?」
桃のような果実を一つ手に取る。その果実からは、先程から嗅いでいた臭いをさらに煮詰めたかのような、むせ返るほど甘ったるい香りが漂っていた。間違いなく、これが匂いの発生源だろう。
「桃みたいです、ね。……ぁん、はぁ♪……はっ!」
ミズシロも果実を手に取って観察している。が、時折匂いを嗅いではトリップし、頭を振っては正気に戻っている。まあ、完全に堕ちるようならトマトを食わせれば戻るだろうが、中々に危なっかしいことである。
「……一応、毒は無さそうだけど……今食べるのは危険かもしれない、かな」
現状においてこの果実は、食べられなくはないがこの場で食べるには危険が勝ると判断することにした。
ただし念のため、いくつか採取して保存しておくことにした。今の状況では、食料になり得る物は重要だ。そして、それがなんらかの性質を持っていたならばなおさらである。先程だって、昨日見つけた酸っぱいトマトを偶然持ってきていなければ、大切な同行者であるミズシロを望まぬ形で傷つけた上、この何処から危険が飛び出してくるかわからない森の中で無防備な姿を晒すことになっていたかもしれない。
この桃のような果実も、少々危険な香りを漂わせているが、この香りを野生生物に対する武器とすることが可能かもしれない。そう思い、果実を採取していると……
「――! これ……もしかして、誰かに採取された跡か……?」
採取した果実の横に、枝が折り取られたかのような跡があるのを見つけた。この一帯はこの桃のような果実のなる木が群生しているのだが、よく見れば、他の木にも果実をもぎ取られたであろう跡がいくつも残っている。――ならばそれは、猿のような手先の器用な動物の仕業か、それとも……
「! アケオミくん、これ……」
ミズシロが地面を指差しそこにあった何かを示す。それは……
「……靴の、足跡」
俺たちが歩いてきた方角とは別の方角から伸びる足跡。それも一人や二人ではない。もう少し大勢の足跡が、この辺りの木々の間を歩き、そして戻っていった様子が見て取れる。この辺りで食料としてこの果実を採取し、そして拠点へと戻っていったのだろうか。
「……どうする、ミズシロ。この足跡を辿っていくか?」
「う、うん。行き、たい。それに、もしかしたら……」
そう。もしかしたら、はぐれたという彼女の友人がいるかもしれない。実際、可能性は低いだろうが……
「そうか。……じゃあ、行くか」
俺たちは、残された足跡を辿っていくことにした。
そして、それが間違いであったと、思い知らされることとなった。
******
足跡を辿って数分ほど。
果実の群生地からさほど離れておらず、匂いの影響も少なからず残っている小さな泉のほとりに、足跡の主達はいた。
あまりにも、退廃的な格好で。
「……な、なんです、か……何してるんです、か、あの人たち……!」
そこに居たのは、七人の男女。彼らはそこで、こちらに気付くことも無く、夢中で交わり続けていた。周囲に脱ぎ散らかされた衣服を見る限り、全員学生、それも、俺たちと同じ敷波高校に通っていた生徒であると窺える。そのほとんどが髪を金髪などに染めていて、元々の素行もあまり良さそうには見えない面々だった。彼らは、全員が泥と汚濁に塗れながら、それでも行為を止めること無く続けていた。その姿はもはや理性のあるヒトであるとは言い難い、醜い有様であった。正直、嫌悪感を覚えずにはいられない。
「……ミズシロ、あの中に見知った顔はいるか? はぐれたっていう、友人とか……」
「……あの子は、いません。でも、あの人たちの何人か、は……私達のクラスに、居た人たち、です」
「……そうか」
彼らの周りには、山と積まれた例の桃の果実があり、食べかけの実も数多く散らばっていた。おそらく、彼らのあの醜態はその果実による所が大きいのだろう。嗅ぐだけで理性が飛びそうになる果実。食せばどうなってしまうのか、想像に難くない。
――彼らを正気に戻すことは出来ないだろう。彼らはもう、ヒトでは無くなってしまった。そう判断し、ミズシロを連れてその場を離れようとした時だった。
「……あっれぇ~、ミドリチャンじゃ~ん? こっち来てたんだぁ~?」
「――っ!」
「いまさぁ~、女の子の数足りなくてさぁ~。ミドリチャンも一緒に楽しまねぇ~?」
交わっている子に飽きたのか、彼らの内の一人がこちらに気付き話しかけてきた。ミズシロの名前を知っているのは、彼もクラスメイトらしいからだろうか。だが、彼は今も正気ではないということは推測できた。ミズシロは今、俺の陰から向こうの様子を覗き見ている。にも関わらず、彼は俺の存在を無視してミズシロに話し掛けている。やはり、果実の影響で性欲に衝き動かされ、女以外は眼中にも入っていないのだろう。
ミズシロの様子を見ると、恐怖に顔を青ざめさせながら、俺の服の裾を握りしめていた。初めてこれほどまでに壊れてしまった男からの意識を向けられたためか、酷く萎縮している。……これ以上、彼女をあいつらの視線に晒すのは酷だろう。
「――悪いな、こいつはお前らとは関わりたくないそうだ。……ミズシロ、もう行こう」
「……ぅ、うん!」
「……ぁん?誰だよテメェ、しゃしゃってんじゃねって……あれ、おまえどっかで……あ、『殺人鬼』じゃん? ハハッ、お前もこっち来てたのかウケるわ! アッヒャッヒャヒャヒャ!!」
「――っ!」
『殺人鬼』、その古いあだ名を呼ばれ、思わず脚が止まってしまった。
「……ア、アキラ、くん?」
「――ヒャハハハハ! ミドリチャーン、そんなヤツと一緒に居たら、いつか殺されちゃうよォ? なんせ『殺人鬼』なんだからさぁ! だからぁ、オレらんトコおいでって! ヒハハハハ!!」
――『殺人鬼』、そう呼ばれるようになったあの事件の記憶が甦る。突然家に現れた強盗たちによって、母が、そして姉が目の前で殺され、嬲り物にされたあの時の事が。
――ああ、そうか。彼らに対して感じていた言いようのない嫌悪心。これは、あの時の強盗に感じていたそれと同じ物だ。なんだ、だったら……
「――なぁ」
「アヒャヒャヒャヒャ! ……あん?」
「『殺人鬼』、だって言ったな……ちょうど、俺はお前らみたいな奴らが殺したいほど嫌いなんだよ」
「……ヒッ!」
殺気を向ける。あの時のことを思い出しながら、その時の自分への怒りも含んだ、その殺気を。
幸い、それだけでヤツらは腰を抜かしていた。実際に衝突が起こっていれば、ミズシロも無事のままだったかはわからない。ある意味、ビビってくれて助かった。
「まぁ、お前ら殺す気なんてさらさら無いけど。黙って一生盛ってろ。……ミズシロ、すまなかった。後で必ず話すから……もうしばらくだけ、付いてきてくれないか」
「あっ、は、はい! ……大丈夫、です。アキラくんのこと、信じてます、から」
「――そっか。 ……ありがとう」
貴重だったかもしれない、元の世界からの生存者たち。しかし、彼らはもう助からない。見切りを付け、世界樹へと再び進もうとした、その時だった。
「――アオーーーン!」
突如として、犬か、狼のような遠吠えが辺りに響き渡った。すると、森の陰から、野犬と思わしき動物の群れが、俺たちや七人の集団に襲いかかってきた。
「! っ、この!」
「ぁ、あわわ……え、えい!えい!」
とっさにミズシロと背中合わせになり、それぞれの方向から襲い来る野犬を迎え撃つ。
今、俺の手にはミズシロから借りた鉈が、ミズシロの手には、昨日作った背丈ほどの杖がある。襲い来る野犬に向かい、威嚇の意味も込めて鉈を振り下ろす。当然その刃は軽く躱されてしまったが、野犬たちはこちらを遠巻きに睨んだまま一定の距離を取っている。こちらの攻撃を危険な物だと判断したようだ。後ろのミズシロの側も、長い杖を振り回しているだけだが、野犬は低く唸るだけで近づいては来ない。
そんな膠着状態に陥った時、離れた所から大声が聞こえてきた。
「た、助け……助けてくれぇ!!」
助けを求める叫び声。七人の集団のいた泉の方からだ。そちらに目を向けると、想像通りの光景が広がっていた。
野犬に襲われる男女の集団。彼らの多くは衣服を脱ぎ散らかしており、かつ荷物も少し離れた所にバラバラに置いていた。あまりに無防備な状態。そこを野生動物に襲われればどのような末路が待っているか、想像に難くない。
七人いたはずの彼らの内、今なお生存が確認出来るのは五人しかいない。一人は、最初に襲われた際に耐え切れなかったのか、事切れ、泉の端で野犬どもに貪られている。また、七人目の姿は見当たらない。死んでないのなら、森の中にでも逃げ込んだのだろう。
「……誰か……誰かぁ! 助けてくれよぉ!!」
……俺たちに、彼らを助ける余裕は無い。ミズシロも、クラスメイトだったらしい彼らのことを気には掛けているが、助けることが出来ないということは理解しているようだ。
俺たちもこのままでは危ないことに変わりはない。なんとか隙を見つけて野犬の包囲網を突破できないかと思案していた。
――その時だった。
泉から少し離れた所で、地響きと共に森が吹き飛んだ。木々が千切れ飛び、それに混じって人影が一つ、宙に放り出されていた。と思うと、人影は森の中から飛び出してきた謎の影に、一呑みにされてしまった。その後再び地響きが起こり、そして次第にそれは強くなってきて――
「!? ダメだ、逃げるぞミズシロ! 何か来る……!」
そう言ってミズシロの手を引き、無理に野犬の包囲網の突破を試みる。そしてそれと同時に、次は泉が爆ぜた。そこに現れたのは、巨大な蛇の様な姿の化物だった。
そいつは、地面ごと泉を吹き飛ばすと同時に、そこにいた者たちも諸共に巻き上げていた。即ち、群れで襲いかかってきた野犬と、生き残っていた五人で……
「グルァァァァアアアア!!」
「――う、うわぁぁああ!」
化物は、咆哮と共にその顎を広げると、吹き飛ばした木々ごと、獲物を一口で噛み砕き、そして呑み込んだ。
その一撃から幸運にも逃れられた四人の生存者は、化物が掘り砕いた柔らかい地面に落ちたため、落下による外傷は負わなかったようだ。しかし、その幸運も長くは続かない。二人目の獲物を呑み込んだ化物は、今度は生存者の一人を土ごと呑み込みながら、再び地中へと姿を隠していった。
――俺が見ることの出来た一部始終はそこまでだ。背後から断絶的に響く轟音から、先程の集団から生き残りが出ないだろうということだけは、推測できた。
そして、それは今必死に逃げている俺たちも例外でいられるとは限らない。
離れつつあったはずの轟音が止み、地響きが少しずつ近づいてくる。……おそらく、次の獲物として、俺たちに目を付けたのだろう。
彼女のバッグを一時的に預かり、なおもヤツからの逃走を図る。しかし、それでも追いかけてくる地響きは少しずつ大きくなっているように感じる。
しかし奇妙なことに、俺たちの少し後方で、再び森が吹き飛ぶ轟音が鳴り響いた。不思議に思い周囲を注意してみると、ガサガサという足音と、野犬の唸り声が耳に入ってきた。おそらく先程の狩りは、獲物である俺たちとの進路上にいた野犬を、行き掛けの駄賃にでも齧ったのだろう。
――そしてふと、ヤツから逃げ切るための、一つの方策が頭を過ぎった。
「――ミズシロ。ヤツから逃げ切るための案が、一つだけある。……二手に分かれよう」
「……えっ、で、でもそれじゃ……」
「ヤツは、バラバラの方向にいる獲物を同時には狙わない。二手に分かれて撹乱すれば、もしかしたら進路上にいる野犬を狙うようになって、その間に逃げきれるかもしれないんだ。……俺を、信じてくれ」
「でも、だって……バラバラに、なっちゃったら……また……」
ミズシロは、俺の提案をまだ受け入れられない様子だった。……無理も無い。彼女は、この世界に来る前にも、友人とはぐれている。そんな彼女を再び一人にするような選択など、平時であれば決して選ばなかっただろう。しかし、今は助かるか、共倒れするかの瀬戸際だ。
「――ミズシロ、一つ約束しよう。」
「約、束?」
「ああ。必ず、お互い生きて、元の世界に帰り着く。絶対に。俺は、お前が絶対に生き延びてくれると信じる。だから、お前も俺が生き延びると、信じていてくれ。お前が信じてくれている限り、俺は、絶対に死なない」
「…………うん、信じ、る。どうすればいい、の?」
――荷物を再分配する。俺自身の鞄と、先程まで俺が持っていた鉈をミズシロが。彼女が持ってきていた大きなバックパックと、長い杖状の棒を俺が持つことにした。
「いいか? 合図をしたら、お前は右に、俺は左に逃げ続ける。もし逃げ延びたなら、そのまま世界樹を目指すんだ」
「……うん。わかっ、た」
「じゃあ、行くぞ。一、二の、三!」
合図と共に二手に分かれる。しばらくそのまま走り、彼女の姿が見えなくなった頃、俺はその場に立ち止まった。
そもそも、地中に潜ったあの化物は、どうやって正確に俺たちを追いかけ続けていたのか。視覚は当然使えないだろう。とするならば、次に考えられるのは聴覚、地を踏みしめる振動だろうか。つまり、動かなければ、ヤツは正確な場所を知ることは出来ないはずである。
また、泉のほとりの生存者の五人、彼らは確かにその場をほとんど動いてはいなかったが、周囲の野犬たちは彼らに向かって大いに飛び掛かっていたし、最初に襲われた時、抵抗する際にどうしても大きな振動を作ってしまっていた。そのことから、ヤツは振動が最後に起こった地点も大まかに記憶している可能性があり、その場でただ止まるというのは自殺行為に過ぎない。
では、二手に分かれた場合ならどうか? ヤツは、大きな餌である俺たちを獲物と定め、雑多な野犬たちは相手にしていなかった。しかし、獲物への進行経路上にいた場合は別だった。ヤツは、大きな獲物を優先して狙うが、狙えるなら、狙いやすい獲物から狩っていく。そこに、俺が生き残るための策がある。
二手に分かれ、十分離れた上で片方が立ち止まる。すると、居場所が朧気な獲物と、移動し続けているため居場所がはっきりとしている獲物の二つが出来る。ならば、ヤツは習性からして狙いやすい居場所がはっきりしている方を狙うことだろう。そのまま移動し続けてくれれば、立ち止まっている方の居場所はより朧気になることだろう。
――俺だけでも、助かる。
「……なんて……」
彼女から預かったバックパックを、そっとその場に降ろす。そして――
「……する訳が無いよなぁ!!」
元来た道を逆走する。地響きのする方に、ヤツがいる方に向けて奔る。
俺は、どんなに苦しい時だって、何度となく死にたくなった時だって、生きることを止めなかった。それは偏に、姉の最期の言葉が胸に残り続けているからだ。『あなただけでも生きてほしい』という、彼女の願いを守り続けるためだ。……あの時、俺は姉を守ることが出来なかった。だから、彼女の最期の願いを守ることで、その償いをしたかったんだ。
でもそれは、俺を信じてくれるたった一人の仲間を犠牲にしてまでも貫くものなどでは決して無い。あの時、姉を、家族を守れなかった後悔を――
「――二度と、繰り返してたまるか!!」
地響きが止み、地面が盛り上がり始める。それに合わせて体を丸め、衝撃に備える。次の瞬間、体を衝撃が走り、その後浮遊感が訪れる。大地を割って現れた化物によって、宙へと放り出されたようだ。
首を動かすと、ヤツがその口を大きく開けているのが見て取れた。……ここまでは想定内。そしてここからは、その全てが大博打である。
「グルルァァァアアアアア!!」
咆哮と共に、こちらを喰らおうとヤツの顎が向かってくる。
その口の端、牙に引っ掛かるように、蹴りを繰り出す。当然、空中だからほとんど踏ん張りは効かない。しかし、足がヤツの口の端に引っかかれば、力の向きの関係で、俺の上半身はヤツの上顎、顔の、目の近くまで寄せられる。
しかし、ここで少々の誤算があった。奇跡的に、牙に蹴りを引っ掛けることには成功した。だがその際、牙があまりに鋭く、右脚の脛を貫通していた。
激痛が奔る。しかし、ここでコイツを無力化しなければ、コイツは逃げ延びたミズシロを、再び必ず付け狙うことだろう。この程度で、終わる訳にはいかない。
痛む脚に無理矢理力を込め、目の近くまで辿り着く。後は、この杖で眼球を貫き、脳にまで達せさせれば――
化物はその大きく開けた顎を閉じた。必然的に、牙に刺さっていた右脚、そして口内の側にあった下半身は――
「! ぐ、ああああぁぁぁ!!」
噛み砕かれることになる。激痛などという言葉ではもはや言い表せない。只々熱を感じ、思わず意識が飛びかける。しかし、その激痛のお陰で、逆に気絶を免れた。
――勝機は、ここしか無い。
「――お返しだ、蛇野郎!!」
杖を化物の左眼へと突き入れる。眼球の潰れる嫌な触感と、骨を割るような感覚があって――
「――!?」
苦しみ暴れる化物に吹き飛ばされ……俺は、意識を失った。
******
身体中に奔る痛みによってか、俺は目を覚ました。目の前には、蛇の化物が時折痙攣しながらも、大地に横たわっている。
勝ったのだ。そう、軽口を叩こうとした時だった。
「!? グ、ゴボォッ! ガッ、ハァ……!?」
言葉の代わりに口から出たのは、真っ赤な鮮血。それだけじゃない。息もまともに出来ない。吸うことも、吐くこともまともに出来ず、苦しみながら身体を見やると――
胸を、真紅に染まった鋭い枝が貫いているのが目に入った。
――因果応報か。目の前の化物を刺し殺したから、自分も刺し貫かれて死ねということなのだろうか。だが、それも悪くないのかも知れない。今度は、彼女を、守ることが出来たのだから……
「――グル、グオォ……ゴァァアアア………!」
突如、死んだと見えた化物が再び動き始めた。あの程度の刺突では、足りなかったとでも言うのか……!?
ゆっくりと、こちらへと近づいてくる蛇の化物と目が合う。残された右眼からは、『敵』へと向けるだろう『殺意』が感じられる。
「(ああ、畜生……)」
顎を大きく開き、体に力を漲らせ……
「(こんな、ところで……)」
こちらを噛み殺さんと、飛び掛かって……
「(死んで、たまるか……!)」
『――颶風の絶盾』
不可思議な力に、弾かれていった。
「(………な…んだ……? いったい、なに…が……)」
『――やあ、そこの君』
目の前に、背中から翼を生やした、天使のような女性が舞い降りた。
その言葉は全く知らない言語だったが、不思議と、話している言葉の意味だけが、頭へと染み渡っていった。
『――このまま安らかに朽ち果てるか……』
そして、彼女が俺に示した選択肢は――
『死よりも辛い苦しみと共に生き続けるか。……どちらがいいかな?』
俺が今、最も渇望する『生』への道標だった。