009.[修練]と[失敗]
クマとの死闘から数時間後、ようやく頭上に太陽の登り切った昼時であるが、既に疲労困憊、満身創痍の大惨事である。クマと逆方向にほぼ無意識のままに彷徨った結果、運良く泉のある空き地に辿り着けた。
「――はぁ、はぁ……ガフッ」
体力の限界が訪れ、泉の畔まで辿り着いてすぐ、その場に倒れてしまった。火傷した左腕をそのまま泉に浸す。傷に冷たい水が刺すように響き、沁み渡る。
「あぐっ、ぐぅっ……」
火傷が癒やされるその痛みを感じながら、先程自分が使うことのできた力について考えを巡らせる。
――『魔法』。この世界で知った、超常の力。思えば、あの女が蛇の化物を止めたあの力も魔法だったのだろうか。火、水、そして光。様々な力があり、しかしそれは、野生の生物すら使ってくる力。さらにヤツらはただ使うのではなく、それを使いこなし……そして襲ってくる。おそらく、何の武器もなくこちらに飛ばされてきた人間は、逃げることすら満足に出来ず、その命を落としているのだろう……
「……ミズシロ……」
彼女の名前が口をついて出る。こんな、死の脅威がそこら中を闊歩している世界で、一人で、彷徨っている――
「くっ、うぉぉお……!」
今の自分の惨状を思い、悔しさに心が砕けそうになる。一匹のクマと渡り合っただけでこれほどの大怪我、満足に動けもしない有様だ。もしも襲ってきた相手が複数だったら今どうなっていたか。少なくとも、体の形が満足に残っていることは無かったはずだ。
あの時クマと戦うことになったのは、その場に留まるという選択をした自分の落ち度によるものだ。だが今後いくらでも、それこそどんな時にでも、ヤツらと遭遇し、生き残りを懸けて戦うことになるだろう。
――その時、俺の横にミズシロが居たとして、彼女を守り切れるのだろうか。
「ぶっ倒れてる場合じゃ……ないよ、な……! ……ん?」
未だに痛みと疲れの残る手足に力を入れ立ち上がる。倒れてなどいられない。少しでも前に進み、ヤツらと戦うための力を得なくては。そう思い立ち上がった時、妙なことに気が付いた。
「火傷が……治ってる」
泉に浸していた左腕の火傷が治り、まだ腕の芯は痛みが残るものの、外傷としてはもうほとんど目立たなくなっている。自分で燃やしておいて言うのもおかしいが、あれほどの火傷がこんな短時間の内に、しかも後遺症も無く自然に治るなど考えられない。
「……もしかして」
右腕を泉に浸ける。すると思った通り、右腕に付けられた爪傷がゆっくりと、だが目に見えるほどの速さで治っていった。まるで、『魔法』のように。
「やっぱり、この泉の水も普通じゃないのか……?」
渇きが癒えるまで泉の水を浴びるように飲む。体に水が沁み渡ると共に、心なしか疲れも和らいだ感じがしてきた。だが、少し残った左腕の痛みまでは、消えてはいなかった。
そこで一つ、思いつきを閃く。
「……『魔法』みたいに治ったってことは、本物の『魔法』で痛みも治せるんじゃないのか」
しかしながら、そもそも俺自身『魔法』がどのような物なのかも理解出来ているとは言い難い。使った魔法だって、火を点ける、光を照らす、の二つだけ。他に知っているのは、シカの使っていた水を操るそれと、あの天使みたいな女の使っていた、蛇の突撃を弾いた不可思議な…風、のようなものくらいだ。
火、水、光、そして風。それらを操る物、それしか、魔法のことを知らない。空想の物語に出てくるような、身体を治す魔法など、本当に使えるのだろうか――
「まあ、取り敢えずやってみるか」
取り敢えず、試すだけ試して、ダメならまたその時にどうするか考えるとしよう。
そうして、あの[閃光]を放った時の感覚を思い出しながら試行錯誤を繰り返す。
「(まずは、集中する……あの靄が見えるくらいに……)」
心を落ち着け、目を凝らす。微かに、身体を靄が取り巻いているのが見える。よくよく見れば、右腕に比べて、左腕の負傷していた部分の靄の量がかなり少ない。おそらくこれが、未だに痛みが残っている原因なのだろうと直感する。
「(この、左腕の靄が少ない部分へ、集中させる……)」
しかし、これが思うようにいかない。まるで蓮の葉が水を弾くかのように、靄が負傷した部分だけを避けて全く集まらない。これまで見てきた魔法はどれも、靄が集中した所から炎などが生まれていたように思う。――これでは、左腕で魔法が使えないのではないか。
焦る気持ちを落ち着けるため、周囲を見渡す。するとそこには、幻想的な光景を垣間見ることが出来た。
木々が風で揺られる度、鳥や獣の声が響く度、空に、風に、靄が流れてゆくのが見える。それはまるで、命の営み、自然の魂の流れ、……『生命』。それそのものであるように直覚する。
そう、『生命力』。この靄のように見えていたのは生命の持つ力だったのだろう。
しかし、だとするならば、その生命力が足りない左腕はどうやったら治るというのか。魔法を使うためにも生命力が必要であるというのなら、その生命力自体が欠けている時は、どうすればよいのか。
「――まぁ、答えは簡単なものだったりも、するんだが」
試しに右手の指先に生命力を集中させ、『光れ』と口にする。すると、豆電球ほどの光が指先に灯った。右手なら、魔法は使える。
欠けているなら、補えばいい。足りないならば、他から持ってくればいい。右手で左手を覆いながら生命力を集中させる。あの時と、同じように――
『――死を思え、命を燃やせ。朽ちたる生命よ、再び生まれよ。……"再生"』
口から自然と言葉が溢れる。すると、生命力を集中させていた右手がじんわりと温かくなり、その熱が左手へと伝わっていった。熱が芯まで浸透すると、骨が軋み、肉が蠢き、血が沸き立つような感覚が起こり、やがてそれは痛みと共に引いていった。
――成功、した。少し意識すれば、左手にも生命力を集中させられる。十分、魔法が使えそうである。試しに、何か使ってみるとしよう。
『――水よ、現れ出でよ』
水を出そうと言葉を紡ぐ。イメージするのは、あの時シカが周囲に浮かべていた水滴、それを大きくしたものだ。すると、左手に集まっていた生命力がそのまま水へと姿を変え、無重力状態の水のようにその場でプカプカと浮かんでいる。イメージ通りに、水を創り出すことが出来た。もう集中さえできるならば、魔法を成功させることは難しくなさそうだ。
しかし……
「ん……? なんか、思ったより水の量が少ない……?」
今しがた左手へと集めた生命力の靄は、体積にしてハンドボール程の量があった。クマと戦った時、炎を出すために集めたのと変わらないくらいの量である。しかしそこから生まれたのは、精々がゴルフボール程の大きさの水球であった。なんというか、割に合っているとは言い難い。
「お、でもこれ、結構自由に動かせるのか」
プカプカと浮かぶ水球に向けて靄を移動させぶつけると、まるで念動力で操っているかのように動かせることを発見した。というか、よくよく見ればこの水球自体、薄い靄状の生命力で包まれている。それ自体を動かすように操作すれば、かなり自在に動かせるようだ。
試しに、水球を包んでいる靄を取り除いてみる。と、すぐに水球は弾け、辺りに水を撒き散らした。
「うわっぷ!? ……ぷはっ、結構勢い良く弾けるもんなんだな」
弾けた水が顔や腕を濡らす。やはり、靄が風船のような役割をしていたらしい。それが取り払われた結果、まるで水風船に針を刺して破裂させたかのように弾けてしまったようだ。また、浮かべていた時はゴルフボールほどの大きさしか無かったが、割ってみるとそれより水の量が多く感じる。
「圧縮でもされてたのかな……?」
ふと濡れた腕を見ていると、妙な現象が起こっていることにも気付いた。今しがた濡れたばかりのはずの部分が、見る見るうちに乾いていくのが見て取れる。魔法で出した水は、普通の水では無いということなのだろうか。
「ちょっと試してみるか……『水よ、現れ出でよ』」
再び水を創り出し、今度は空にした一本のペットボトルへとその水を注いで様子を見る。先程のゴルフボール大の水球で、500mlのペットボトルがちょうどいっぱいになった。結構な圧縮率だったようだ。
蓋をしてしばらく様子を観察する。が、数分見ていたが、全くその量に変化は無い。そこで、十分単位で放置してみることにした。
この待ち時間の間に、泉の周りの木の実などを採集しておく。その時、泉の周りに見られる酸味トマトの他に新しく、真っ青なオレンジのような見た目の果実も見つけたので、その場で毒味してみる。
「ムグ……渋いな、熟してなかったのか。――っと、なんか甘くなってきた……?」
皮を剥き、中の黄緑色の実を一粒口に入れる。一噛みして感じたのは、口いっぱいに広がる渋味。思わず熟してないのかと吐き出そうとも思ったが、以前食べたキノコのひどい味に比べれば幾分マシである。そのままさっさと飲み込んでしまおうと思った時、少しずつ味が変わってきた。オレンジの果実の粒の一粒一粒を噛み締めるほど、中から甘みのある果汁が溢れてくる。とても美味い。
この、味の変わる……『変味オレンジ』は、柑橘類のため大分外皮が厚く、保存も長期間出来そうだ。取り敢えず、採れるだけ採っていくとしよう。
二十分程探索をした後、魔法で出した水の様子を見に戻る。しかし、その水の量は全く減っていなかった。少々動いたからか喉が乾いていたので、試しに飲んでみようと蓋を開ける。
すると、まるで炭酸飲料の栓を抜いたかのようなプシュッという音が鳴り、中から白い煙のような物が漏れ出してきた。見ると、今の炭酸が抜けるような音と共に中の水も減りだしたようだ。ジリジリとだが、肉眼でもハッキリと水の減る様子が確認できる。
中身が無くなる前に慌ててペットボトルを傾け、中の水を飲む。だがその水は、想像していた物より遥かに味が無かった。水では無く、煙か霞でも口に入れているかのような感覚だ。喉の渇きも、欠片も癒やされることは無かった。
中々、上手いことばかりはいかないらしい。「魔法で出した水を飲む意味は無い」、そう結論付けるしか無かった。幸い、あまり間を空けず泉を見つけているので、水が全く足りなくなるようなことは今のところ無い。しかし、今後足りなくなったとしても、魔法の水は頼れない。まあ、それがこの時点でわかっただけ、収穫と言えなくも無いだろう。
『水の塊を靄で包む』。その方法から、また一つ魔法の使い方を思いついた。目立たなくなったとはいえ、先程まで火傷でボロボロだった左手を見る。
……火も、同じように包み込めば、こちらの身体を傷つけないのでは無いか。
『――火よ、……現れ、出でよ』
右手の指先に、あまり多くは無い量の生命力を集中させ、水を出す魔法と同じ要領で火を出そうとする。イメージは、ライターやマッチを点けるようなそれだ。
指先に、火が灯る。その熱は、手を焦がしたりはしていない。イメージした通りの、物になっているように思える。ただ、水球のそれと異なり、自在に動かしたりは出来ない。動かそうと靄を当てると、それはそのまま火の勢いへと変わり、焚き火程のそれへと強くなっていった。指先では収まりきらず、火は掌の上で燃えている。流石にこの段階まで勢いが育つと、掌はあまり熱くないが、顔や胴体にはチリチリとした熱さが届くようになった。
しかし、この火を自力で消す手段が思い付かない。仕方なく、泉へと大きくなった火の球を投げ入れる。魔法の火ではあるが、水に触れれば消えるだろう。そう、考えていた。
「……なっ!?」
投げ入れた火は、泉の水に触れる直前、まるで泉から立ち昇った何かが燃えたかのように勢いを増し、近くの木へと延焼してしまった。
このままでは、火はこの辺りの木々を焼き尽くしてしまうだろう。俺も、無事で済むかは――
「くっ、『水よ、現れ出でよ!!!』」
かなりの生命力を費やし、手元に大きな水の球を生み出す。しかし、このまま直接ぶつけたとしても、消火出来るとは思えない。
「(考えろ……! この量の、圧縮されたこの大量の水を、無駄なく消火に使うには……!)」
考えた末、俺は水球を燃えている木の直上へと移動させた。
「――割れろ!!」
直上で破裂した水球は、そのまま真下へとその圧縮された大質量をぶち撒けた。燃え広がりかけていた、その一本の木へと。
どうにか、惨事になる前に事態を収束させることが出来たようだ。火の燃え移った木は、もう煙がまだ少し上る程度で、火そのものは消し止めることが出来た。これ以上、森の木へと延焼することは無いだろう。
「自分で蒔いた種とはいえ……なんとか収まったか……」
そして、その日はそのまま気を失うように倒れ、眠りについてしまった。
◆◆◆◆◆
次の日、俺は昨日試した「魔法で出来ること」を思い返していた。
魔法のちょっとした失敗で燃やしかけてしまった木、しかしそれは、『水の魔法』や、少々危険だが『火の魔法』も、武器として実用することが出来ることを示していた。これならば、危険な生物と出会っても、為す術も無くやられるということはないはずだ。少なくとも、二人が逃げるだけの隙を作ることは出来るだろう。
だから、大丈夫だろう。
「――あの思い付きを、試してみるか……」
最後の思い付き。それは、周囲の様子を知るための、そして、近くにいる者を……ミズシロを、探すための魔法。
「――死を思え、命を燃やせ……彼方を聞け、世界を知れ……"識"」
――聴覚の強化。生命力を耳に集中し、その機能を強化する。彼女が生きているなら、歩いているなら。その足音を聞き、追いかけることも出来るはずだ。それに、魔法で強化したのならば、その声までも、聞くことが出来るかもしれない。
――だが、その考えは思わぬ形で否定される。
魔法を使って最初に耳へと入ってきたのは、この世の全ての音と錯覚するほどの音の濁流。木々のざわめき、獣の咆哮。誰かの悲鳴、大地の割れる轟音。ありとあらゆる音、その全てが、強化された耳を通じ、脳へと情報を届ける。それを受け入れるだけの力が、人間の脳に無かったとしても。
「あっ、がぁ、うぐがああぁぁああぁぁぁあああ!!」
耐え切れずにその場へ倒れこむ。頭に入ってくる音の全てが、脳を掻き回す。その比類ない痛みの内に、いつの間にか魔法はその効力を失っていた。
強すぎる力は、自らを傷つける。自身で左手を燃やしてしまったあの時に、理解していたはずのことだ。にも関わらず、甘くみてしまった。この程度なら、そう、考えてしまった。
「けど……手掛かりは、得た」
――『悲鳴』が、聞こえた。少女の、助けを呼ぶ悲鳴が。そしてそれは、俺が今いる場所から世界樹へ向かう方向の側から、聞こえてきた。
「助けなきゃ、な……!」
痛みを押し殺し、悲鳴の聞こえた方角へとがむしゃらに走る。はぐれてしまった同行者の無事と、救出を心に誓いながら。