000. [黒い裂け目]
「(……くっ……)」
血の色でまばらに彩られた自分の体を見、それでもなお少年は
「(……死んで、たまるか……!)」
生への執念を燃やし続けていた。
◆◆◆◆◆
その日は、普通の日だった。
いつも通りの目覚め。しいて言うなら少しだけ寝覚めが良く、目覚まし時計が鳴り出す一分前に起きる事が出来た。ちょっとしたことだが、幸先のいいスタートが切れた、そう思った。
いつも通りの朝食。買い置きしてあるシリアルを皿に開け、牛乳を掛けて頬張る。シリアルなら日持ちするので、安売りしている時にまとめ買いしている。どうせ、自分の他に食べる者もいないのだ。
他の家族はもう、いない。自分一人だ。
寂しいと感じたことが無いと言えば嘘になるが、ある意味、これはこれで気楽なものだ。
いつも通りの通学路。通っている高校へはバスと電車を三度乗り換える必要がある。
何故そんなに離れているかと言えば、この家は親戚が管理していた元空き家であり、都会の喧騒からほどほどに離れた場所にあるため、余計な噂話を立てられることも無く、俺にとっても、そして親戚にとっても都合がいいからだ。
以前、親戚の家に居候として暮らしていた際には、多少では済まない迷惑を掛けてしまった。恩を仇で返すような真似は、もう二度としたくはない。
いつも通りにバスに乗る。そういえば定期がもうすぐ切れるはずだ。今日は割と時間に余裕がある。駅に着いたら早めに更新しておくのもいいだろう。
「――すいません、通学定期の更新をお願いしたいんですが」
「はいどうぞ、承っております。じゃあ、名前を確認させてもらってもいいでしょうか」
「はい、ええと……朱臣 晃、でお願いします」
「はい、学生証も確認できました。じゃあ、■■■■円になります。……はい、じゃあお釣りが――――」
「――確かに。ありがとうございました」
定期を更新した駅から電車を乗り継ぎ、交通の要となる駅まで辿り着いた。ここから地下鉄で学校のすぐ近くの駅まで行くことが出来る。いつもは満員の通勤、通学客で碌に座れそうも無いが、今日は運良く待機の最前列に並べた。これなら学校まで座る事もできるだろう。
――そんなことを、呑気に考えていた時だった。
突如として、強烈な振動が体を襲う。直下型地震、そんな言葉が頭をよぎった。慌てて周りを見ると、ホームの乗客も皆混乱し、パニック状態に陥っていた。構内アナウンスが必死に落ち着いて行動するよう注意を呼びかけているが、その声はパニックに陥り混乱した人々の耳へは届かない。ホームへの出入り口となる階段、エスカレーターへと人々が殺到する。しかし、あまりにも多くの人々が集まりすぎた結果、避難は思うように進んでいない。
俺が電車待ちの列で並んでいた場所は最前列、ホームの端。幸か不幸か、出入り口から最も離れた位置にいたため、出入り口付近で起こっているあの大混乱には巻き込まれずに済んでいた。
だが次の瞬間、先ほどの物とは比較にならない程の激しい横揺れが再び巻き起こる。まだホームに残っていた人たちも真っ直ぐ立っていることすら出来ないほどの揺れ。その衝撃は凄まじく、床や柱にもヒビが入り始める。聞こえていたアナウンスの音声も千々に乱れ、断線したのだろうか、最後には途絶えてしまった。
階段へと殺到していた人達の多くは薙ぎ倒され、将棋倒しになっている様子が見える。あれでは、巻き添えになった人も無事では済まないはずだ。
俺とて例外じゃない。体勢を保てず、床へと薙ぎ倒されてしまった。幸い、混乱の中心から少し離れていたため将棋倒しに巻き込まれるようなことはなかった。が、床を転がり天井を見上げたことで、自分達の状況がさらに絶望の淵へ向かっていることに気付いてしまった。
ビシリ、ビシリと、天井にヒビが広がっていく。
天井の崩落。それはこの地下にいる全ての人々の死とほぼ同義だろう。万が一生き残れたとしても、五体満足でいられるとは到底考えられない。なんとかして、ここから逃げなければ。
ふと周りを見やれば、ホームから降りて線路の上を走る人達の姿があった。なるほど、地下鉄のトンネル内には地上へ出るための非常口があると聞いたことがある。彼らに付いて行けば――
――だが、そこにさらなる不運が襲い掛かる。
トンネルの奥から光が近付いて来ている。あの光は、俺たちが本来乗るはずだった地下鉄だろうか。これほどの地震が起きたのなら、正常であれば緊急停止が働き、車両は止まるはず。しかし、事実として車両は少しの減速もせず、こちらへと突っ込んで来ていた。
線路の上を逃げていた人達もその存在に気付き、慌てて踵を返している。中には線路から外れた部分を通り、トンネルの奥へと逃げ延びる人の姿も見える。
そういった逃げ延びる事ができた人達に倣い、ホームの端から降りようとする。その時、床や壁に走っていたヒビが線路を歪ませていたことに気付いてしまった。
次の瞬間、突っ込んできた車両は線路の歪みによって脱線し、轟音と共に跳ね上がった。
空中へと投げ出された車両は天井に突き刺さり、脆くなっていた天井の崩落を加速させた。瓦礫が雨のように降り注ぎ出し、人々へと牙を剥く。必死に逃げようと密集していた人々は、それを避けることが出来なかったらしい。崩れ続ける瓦礫の向こう側から、突然悲劇の主人公となってしまった彼らの阿鼻叫喚が、轟音に混じって漏れ聞こえてくる。
そしてそれは、その惨劇に一瞬気を取られた俺にも、欠片の容赦も無く襲いかかってきた。
視界が暗転する。意識が遠のく。身体が崩れ落ちていく時間が、ゆっくりと、長い時間のように感じる……
◆◆◆◆◆
押入れの中、二人で息を潜める。ここからでは、外の様子は見ることはできない。
「(――■■ラ、アキラ。ぜった■、おね■■ゃんがまもっ■げるから……いい?ぜっ■い、こ■から出ちゃ■メだからね――)」
戸の隙間から外を窺っていた姉が僕の手を握りながら話しかけてくる。気丈に振舞っているが、その手の震えを隠し切れてはいない。
……それだけで、押入れの外、家の中が今どうなっているのか、僕は幼いながらも理解してしまった。母は、もう助からない。そしてヤツらは、このままではここに隠れている僕らのことも、きっと見つけ出してしまうだろう。
姉は、怯え震える僕を宥めると、意を決し外へ飛び出そうとしていた。
僕を、助けるために。
(ああ……ダメだ、姉さん……そっちに行っちゃ……)
僕は、姉を止めなければと思った。
しかし、声は出なかった。何も、姉さんに伝えることは出来なかった。
「(…おねがいアキラ。あなただけでも、生きて――)」
◆◆◆◆◆
瞬間、思考が元に戻る。走馬灯、死に直面した時に脳裏をよぎる最も鮮烈な記憶。何度も何度も繰り返し脳裏に蘇る悪夢。あの時の、家族を喪った時の、姉との最後の会話。生きなきゃいけないと、心に刻んだ瞬間の思い出。
「……ああそうだ、こんなところで……死んでられない……!」
拳を握りしめ、絶対に生き抜いてやると、最後まで足掻き続けてやると心に決めながら、その場から立ち上がる。
気を失っていたのは一分か、それよりもっと短かっただろうか。瓦礫が頭へとぶつかった衝撃で気絶していたらしいが、運良く軽傷で済み、さらにそれ以上の瓦礫が降ってくることも無かったようだ。上を見れば、グシャグシャにひしゃげ、今にもこちらを圧し潰しかねない大破した電車の車両が、屋根のように頭上に架かっていた。瓦礫に潰されなかったのは、こいつのお陰だったらしい。
改めて周囲を見渡す。完全に崩落しきっては無いのか、地下空間自体はまだ残っている。そこを、脱出口を探しながら、未だに崩れ落ちてくる瓦礫から逃げ惑う生存者と、不幸にも逃げきれなかった犠牲者たちの姿が見える。
だが、見つけられたのはそれだけでは無かった。
『黒い裂け目』
そうとしか呼べない奇妙なモノが、この空間にいくつも浮かんでいた。
目の錯覚かと怪訝に思っていると、瓦礫を躱した生存者の一人が、意図せずにその『裂け目』に触れてしまった。すると、彼はその裂け目に吸い込まれるようにして、その場から消えていった。
一人、また一人と、『裂け目』へと生存者が吸い込まれていく。ある者は気付かぬまま、ある者は自ら飛び込んで。『裂け目』は明滅するように、現れては消え、消えては現れている。
そんな時、頭上から大きく軋むような音が聞こえ出した。――大破した車両が、崩落する天井に押される様に、こちらへと倒れて始めたのだ。
慌ててその場から転がるように飛び出す。間一髪、俺が先程まで居たその場所は、崩れた車両によって圧し潰されてしまった。
天井の崩落は未だ進行しており、天井そのものがドンドン下がっている。このままでは、じきにこの地下空間そのものが完全に圧し潰れてしまうだろう。
急ぎトンネルの方へと足を向ける。駅のホームへと続く出口は完全に崩落に巻き込まれてしまっており、昇ることは不可能だ。残された可能性として、トンネルの途中の非常口、あるいはトンネルを抜けることで地上を目指すしか無い。
周囲の『裂け目』を避けつつホームを抜け、トンネルの中を進んでいく。人が吸い込まれ、そして消える。そんな危険な物に好き好んで触れるほど、俺の頭はまだイカれてはいない。
『裂け目』はトンネルにも浮かんでおり、また、その数は時間と共に増えていく一方だった。裂け目を時に飛び越え、時に這いつくばりながらくぐり抜け、暗いトンネルの中を進み続ける。奇妙なことに、真っ暗闇の中であろうと、『黒い裂け目』の位置はハッキリと区別が出来た。
そうして進み続け、ようやく、地上の光が微かに見える所まで辿り着いた。
「そ、外か……これで、助かる……!」
助かった。もう大丈夫だ。そんな安堵を覚えた、覚えてしまった。その瞬間こそが、一番危険な時だと知っていたのに。
「!? なっ……!?」
三度、大地が揺れる。周囲の壁からも、ビシリ、とヒビが走る音が聞こえてくる。
――脚は、自然と走りだしていた。周囲が崩れ出すのも、俺を囲むように増えている裂け目すらももはや気にしている場合ではない。あと少し、あと少しなのだ。こんな所で――
「死んで、たまるかぁ!!」
外の光へとひたすらに走る。幸い、その進路上に大きな『黒い裂け目』は無い。真っ直ぐ、一直線に走り、外へと――
「――ちっ……くしょう!!」
あと一歩、あと一歩の所で、目の前に大きな『裂け目』が生まれてしまった。後ろからは、トンネルが崩れ瓦礫が降り砕ける音が聞こえ、左右を見やれば、隙間なく『裂け目』に埋められていた。
退路は、無い。幸い目の前にある『黒い裂け目』はまだ出来たばかりだからか、隙間も多い。そこを明滅の隙を縫う様に、突破するしかない。そう考え、一歩を踏み出す。
それが、最後だった。
「……え……?」
――トン、と……何者かに、背を押された。
完全に想定外のその力に、俺の身体は大きくバランスを崩し、目の前の『黒い裂け目』へと倒れこんでゆく――
――『裂け目』へと、身体が吸い込まれる。四肢が千切られるような激痛が、血液が沸騰しているかのような頭痛が、俺の身体へと奔った。意識が明滅し、自我が押し潰され、俺という存在そのものが壊れてしまいそうになりながら、それでも俺は――――。
生きること。ただそれだけを、考えていた。