16 腹を割って話そう
その日、ダレイオスはいつもより二時間も早く目が覚めた。特に変わった事があった覚えはないのだが、覚めてしまったものは仕方が無い。簡単に身支度を調えると彼は自室を出て王宮をぶらつき始める。
窓から差し込む朝日はまだ弱々しく、日の出から然程時間は経っていないようだ。しかしそんな早朝からでも、窓の外から兵士たちが剣を振るう気合いのこもった声が聞こえていた。窓からその様子を眺めつつ、ダレイオスは穏やかな朝を歩く。
「おや、ダレイオス様ではございませんか」
後ろから呼びかける声にダレイオスが振り返ると、そこには瑠璃色の長い髪が揺れていた。宮廷魔術師の装いに身を包み、彼に向けて静かに微笑んでいた。
「ミネーか。早いな」
「ダレイオス様こそ。何かご用時ですか?」
「いや、何となく目が覚めてしまっただけだ。お前はいつもこんな時間に起きているのか?」
「いえ、わたしもダレイオス様と同じでございます。今日は何故か早く目が覚めてしまって」
「そうだったか」
そこで一度会話が途切れる。二人は一時互いの瞳を見つめ合うこととなるが、ダレイオスがすぐに口を開いた。
「今、時間はあるか」
「はい」
「では、私と少し話をしないか。私の部屋で」
「だ、ダレイオス様のお部屋でですか!?わたしなどが、よろしいので?」
「ああ。少し余所に聞かれたくないのでな」
「……ダレイオス様がお望みならば、喜んでご一緒させていただきます」
「そうか。では、付いてきてくれ」
振り返って引き返していくダレイオスにミネーは付き従い、ダレイオスは自室の豪奢なドアを開け放った。いつもアレクサンドロスと二人で語らうテーブルにつくよう促し、ミネーは恐る恐ると席に着く。
「何か飲むか?」
「い、いえ、お構いなく。それで、お話というのは?」
「……もう一年が過ぎようとしている。そろそろ、私も聞いておかねばならないだろうと思ってな」
ミネーに問われ、ダレイオスが早速そう切り出した。
“一年”という言葉から、この時のミネーが想像した事は一つ。それは即ち彼女がダレイオスに特別な思いを抱くようになってからの年月である、と。
この早朝の柔らかな雰囲気。所謂ムードはばっちりな時間帯である。ダレイオスが自分の思いに対して何かしらの回答を出してくれる。ミネーはそう考え、それはある種当然の思考であった。
だが当然という言葉で割り切れない男が、この『魔王』だ彼がミネーへ投げかけた言葉は明らかにそんなムードを無視したものであった。
「ミネー。最初のお前の素行はハッキリ言って酷いものだった。だが、それが人が変わったように——いや、人が変わってしまった。一体何があったんだ?あれこれと予想して納得させていたが、やはりお前の口からちゃんと説明を聞いておきたい」
「え……」
それを言わせるのか。言わせるというのか。ミネーはそう思った。躊躇いとともに口を閉ざしてしまう。それでもダレイオスは許してくれそうにない。じっとミネーを見つめ、彼女の言葉を黙って待っていた。「喜んで」と言った手前、このままというワケにもいかない。ミネーは観念して口を開く。
「ダレイオス様、かつてのわたしは褒められた人間ではありませんでした。自分の目的のため、他者をおろそかにする。この一つの共同体の中で生きていく中で、それはあってはならぬことだと気づいたのです」
「改心したと?」
「改心、と貴方様がおっしゃるならその通りでございます」
ミネーの言葉を聞き、ダレイオスは自分の顎を撫でる。そこで少しの沈黙が生まれるが、長くは続かずダレイオスがゆっくりと口を開く。
「嘘だな」
「……え?」
「私はこれでも観察眼には自信がある。今のお前の言葉、全てが本心というわけではあるまい。私は互いに腹を割って話そうと思い、この場を用意した。どうかお前も、心の内を語ってはくれないだろうか」
何の根拠も無い指摘だった。だが、ダレイオスはそれが正しいという確信とともにミネーを見据える。腹の内まで見透かされてしまったかのような感覚すら覚えてしまったミネーは、一つ息をついて話し始めた。
「その、お話しするのは少し、というよりかなり恥ずかしいのですが……これも良い機会なのかもしれません。お話させていただきます」
「ああ」
「……一年前の街道工事の現場で夜盗と変異したスライムに襲われた時、わたしはダレイオス様に命を救っていただきました。それからずっと、わたしは貴方様の事をお慕いしておりました。これからもずっと臣下としてお仕えしていく所存でございますが、わたしとしては、その、ダレイオス様の一番近い場所でお仕えしたいと思っております」
ミネーは頬を赤らめつつ、途切れ途切れにだが思いの丈を言葉にした。やや遠回しな言い方で。残念ながら、それでは恋愛に対して愚鈍なダレイオスには通じない。
だが、今日の彼はひと味違った。ミネーが一体何を伝えたかったのか、彼は正確に感じ取り、瞑目する。再びの沈黙。それを破ったのもダレイオスだった。
「……なるほどな。それが、お前が変わった理由であったというワケか」
「……はい。以前のわたしではダレイオス様に見合う女では無い事は明白でした。少しでも相応しい女性になろうと、わたしなりに己を見直し、努力してきました」
「そうだったか。……ミネー」
「はい」
名を呼ばれ、ミネーの背筋が伸びる。
自分の思いは伝えた。ならば、それに対する返答が当然待っているはずだ。ダレイオスの答えを静かに待つ。
だが忘れてはならないのは、ダレイオスはそんな当然では当てはめられない男であった。待ち続けるミネーへ向けて、彼はまたしても想定外の言葉を発する。
「では、私のどこに惚れたのか教えてくれないか」
「えっ」
それを言わせるのか。言わせるというのか。ミネーはそう思った。だが、ここまで来れば素直に答える以外の選択肢は無い。観念したのか、彼女は一つずつ語り始める。
「やはり、わたしがダレイオス様に思いを抱くようになったきっかけは、貴方様の素晴らしい強さでございます。ただ単純な力の強さではなく、知識、技術、経験、判断力、あらゆる面で最高の才をお持ちです。それは正に完璧という他ない、素晴らしい強さです。わたしはそこに、あるべき王の姿を見ました」
手放しの賞賛を浴びせられ、少しばかりむず痒い思いをするダレイオスだったが、その表情に喜びの色を見出す事はできなかった。彼は変わらず難しい顔でミネーの瞳を見つめ続けていた。
「よし、大体分かった。色々と話してくれて感謝する。こうやって再び面と向かって話してみて、私の考えが固まったよ」
「そ、それは……」
ミネーは思わず自身の口に手を当てる。間違いない。自分の告白に対する返答が聞けるはずだ。これまで上手く躱されてきたが、ようやくだ。
ようやく——自分の物になる。
ミネーの頬が手の下で大きく歪んだ。
彼女は確信していた。目の前の王は自分に恋い焦がれていると。それが、彼女にとっての“男”という生き物であったからだ。目の前の人間が例えどれだけ優れていようとも、それが男性である限り同じであるとミネーは考えていた。
幼き頃から自身の類い希な容姿を自覚していた彼女は、その使い方を知っていた。彼女が自身を最も魅力的に見せる振る舞いを意識して行動すれば、全ての男が彼女に花束を贈った。その経験が、彼女が己の容姿を“完璧”と評する所以であり、ダレイオスの心を奪ったと考える根拠である。
更に今回は一年の歳月をかけてアピールを繰り返してきた。失敗など有り得ない。ようやく自分は新たな“完璧”を手に入れられるのだ。完璧な伴侶。自分の人生における輝ける勲章となるに違いなかった。
こみ上げてくる笑みを必死に隠し、ミネーはダレイオスの言葉を待つ。そして、ついにダレイオスが先の句を繋いだ。
「私はお前の思いに応える事はできない」
「な…………!」
想定外。あまりにも想定外。目を見開いて絶句するミネーを見定めるように見つめながら、ダレイオスは更に続ける。
「お前の言う“思い”は恋や愛と呼べるモノではない。私は自分で言うのも何だが、優秀だった。幼い頃から魔術の突出した才能があった。そのせいで、良からぬ輩に目をつけられる事も多かった。私がお前から感じていた視線、それはそいつらと同じモノだ」
「…………」
「欲だ。お前の“思い”は。欲しているのも愛情などではなく、私の力だ。さすがにその理由までは私には分かりかねるが、間違いない。確信を持って言える」
一瞬たりとも視線を逸らさず、ダレイオスは黙ったままのミネーへ次々と言葉を投げ続けた。ダレイオスは確かに色恋に分類されるものについては、とんでもなく疎い。しかしそれが他者からの黒い念であれば全くの逆になる。日々を生きる中で彼ほど研ぎ澄まされた感覚の持ち主は——とある国の武王を除けば——いやしない。
「何か申し訳あるはあるだろうか。もし私の言ったことが偽りであれば、心からの謝罪を述べさせてもらいたい」
「…………」
ダレイオスがそう言うが、ミネーは目を見開いたまま微動だにしなかった。
彼女の頭の中は大きな衝撃に飲み込まれていた。そしてその衝撃は、彼女の根底を大きく揺るがす。
ミネーは自分の容姿、女性としての魅力は完璧であると、絶対的な自信を持っていた。しかし自分が持てる力を掛けた相手はそれを——否定した。自分を形作っていた自尊心が崩壊していく音が、彼女の耳には確かに聞こえた。
そして次の瞬間、彼女の内を埋め尽くしたのは“何故”というひたすらの疑問だった。それをせき止める事はできず、一気に口から溢れ出す。
「何故ですか!何故!何故!わたしは完璧だったはずだ!何が不満だというのですか!容姿も才能も性格も、何も不満があったところは全く存在していなかった!」
「お前は勘違いをしているな。私は色恋の話をしていない。お前は、それ以前の問題だった。私との心の間の障壁は取り払われはしなかった。私たちが打ち解ける事は有り得なかったのだ」
「そんなはずはない!私には足りぬことはなかった。ただ一つ、若さ故の経験の不足以外には、存在しない!……何故だ!」
頭を抱え、絶叫するミネー。もう彼女の耳には何も入らない。ダレイオスが呼びかけても無駄だった。彼がどうしたものかとため息をつくと、そこにノックの音が聞こえ、続いてドアが開いた。
「ダレイオス様。そろそろお目覚めの時間で……一体これは何ですか」
「ああ、ヘリオス。良いところに来てくれた」
眉間に皺を寄せたヘリオスを手招きして呼び寄せ、ダレイオスは立ち上がる。新たな人物の登場の気配を感じて、ミネーもそこで思わずヘリオスへ視線を向けた。座った状態のミネーをダレイオスとヘリオスが見下ろし、両者の視線がぶつかる。
その時、ミネーは自分の中で一つの回答が生まれた事を感じた。
「そうか、そうだったのですね。やはりわたしが完璧で無かったわけではなかった。ただ、わたしが持っていないものがあっただけ。ダレイオス様がおっしゃった障壁というのはその事だったのですか。そう、そうだったのですね……ふふふ」
ミネーは突如として落ち着きを取り戻し、笑みを浮かべながらユラリと立がある。そして、王とその忠臣へ向けて深々と頭を下げた。
「先ほどのご無礼をお許しください。わたしも、ダレイオス様の仰ることの意味をようやく理解いたしました。近い将来、その全てを叶えて差し上げることを、ここにお約束いたします」
「……?何を言っているんだ、お前は」
「ええ、分かっておりますとも。それでは、失礼いたします」
先ほどまでの錯乱ぶりが嘘のように平静を保ったミネーは、柔らに微笑んでみせる。それは変貌する前のミネーが見せていた、腹の内を隠してしまう幻惑の笑みであった。
ダレイオスが呆気にとられている間に、ヘリオスが状況を理解しきるよりも先に、ミネーは再び一礼して優雅な足取りでダレイオスの自室を出て行った。海よりも深い沈黙だけを残して。




