1 目覚め
「たぁっ!」
少女の小さな拳、しかししっかりと重心の乗った拳が掛け声と共に振り抜かれる。その狙いは彼女に正対する一人の男だ。腰を落として拳闘の構えを取り、少女の拳を正確に見極める。
「よっと」
「うぉっ!」
少女の拳は男の手によって横へ流されてしまった。しかし少女はそれで止まらない。出した足を踏みしめると、上段を狙った回し蹴りを繰り出す。男はそれも捌いてしまうが、少女の流れるような拳と蹴りの応酬が絶え間なく続く。
そして少女の蹴りの一つが男の腕を跳ね上げた。それが大きな隙であると少女は見た。力一杯踏み込み拳を振り抜いた。
「ここだ!」
「と、思うだろ?」
少女の思惑とは違い、男はニヤリと笑った。確かに腕での防御は間に合わないが、少女のパンチの軌道を読み切っていた男には足さえ自由に動けば十分だった。迫る右の拳を、僅かな右へのステップだけで躱してしまった。
そして男はそのまま相手の腕を取り、勢いを利用して投げ飛ばす。そのままべしゃりと地面へ落ち——なかった。
空中で身体を捻ると、少女は男の脳天へ向けて踵落としをキメにかかったのだ。男は少しの驚きと幾らかの感心を孕んだ視線でそれを見つめ、踵が額にめり込んだ。男は地面にぶっ倒れてしまい、少女が慌てて駆けよる。
「だ、大丈夫!?ランドルフおじさん!」
「問題ねえよ。ちゃんと硬化済みだ」
ランドルフが自分の額を指さすと、その部分がピンポイントで金属に覆われていた。どうやら怪我はないらしい。しかし衝撃はバッチリ伝わってしまったようで、中々立ち上がることができない。なので二人はそのまま話をすることにする。
「今の動きは中々よかったぞ。下手をすりゃ俺でも一発くらってた」
「いや、当たってたけど」
「馬鹿野郎。アレはわざと当たってやったんだよ。昔と比べれば、見違えるほどだったからな。ご褒美だ。喜べ」
「別に、人を蹴ってもそんなに嬉しくは無いんだけど」
「そうか」
鈍痛のする頭をさすりながらランドルフはゆっくりと身を起こし、アレシャが手を取って引っ張り起こす。
『もう日も暮れてきた。今日はこのくらいにしたらどうだ?』
「そうだね。ダレイオスさんがそろそろ終わりにしたら?って」
「おう、そうするか」
ランドルフは頷いて同意を返し、今日の稽古はこれで終わりとなった。
二人が汗を流していたのは、北の大国ロマノフの都、モロク。その中央にそびえる権威の象徴たる巨大な王城の広大な中庭だった。普段は兵士達の訓練場として使われているその場所で、こうして格闘術の稽古を行うのが、ここ最近の二人の日課となっている。
およそ一月前に起こった、デカン帝国を発端とする大騒動。ひとまずの解決を見たものの、『魔王』に対して悪感情をもっている者たちも未だ数多くいる。なのでアレシャたちは、未だ王城に匿われている引きこもり生活を続けていた。
とは言っても、王城は広大で息の詰まる思いをすることもない。食事も十分過ぎるほどに保証されている。生活環境としては至れり尽くせりだ。なので、アレシャも仲間達も、持てる時間を己の鍛錬に思う存分注ぐ事ができているというわけだ。
いずれ必ず訪れる、来たるべき時に備えて。
「アレシャお姉様—!」
そこに朗らかな声が届く。二人がその方向へ視線を向けると、杖を突きながらヨタヨタと歩いてくるサーラと、それに付きそうペトラの姿があった。足が不自由なサーラが外に出てくるのは珍しい。アレシャとランドルフは二人の元へと駆けよる。
「どうしたの、サーラちゃん」
「ここ数日は足の調子が良いものですから、りはびり?を兼ねてお城の中をお散歩していたのです」
「なるほどな。だが、ライラが一緒にいないのは珍しいな」
ランドルフがきょろきょろと辺りを見渡しつつ、そう言う。ライラはサーラに忠誠を誓う専属メイドで、過保護すぎるくらいサーラにべったりである。放っておけば墓穴まで共にしかねないくらいだ。そんな彼女の姿が見えないのは少しばかり妙に思えたのだが、サーラが腰に手を当ててランドルフの問いに答える。
「ライラには助かっていますが、少しくっつきすぎです!この間はお手洗いにまで一緒に入ってこようとしていましたし、今朝『放っておいて下さい』とハッキリと言っておいたのです!」
ぷりぷりとしながら説明するサーラは、本気ではないながらも少しばかり怒っているようだ。ライラの寄り添いぷっりにはプライバシーも何も無かったので、それも当然のことだとアレシャは思う。
「あ、そういえば……。今朝一度ライラさんを見かけたとき『反抗期が……』って譫言を言ってたのはそういうことだったんだね」
『反抗期……。そういえば、ヘルマンも昨夜、同じ事をぶつぶつと呟いていたな』
「サーラちゃん、ヘルマンさんにも何か言ったの?」
ダレイオスがふと思い出しアレシャがそれに沿って問いかけると、サーラは腕を組んで、また頬を膨らませる。
「ヘルマンお兄様ったら、『一緒にお風呂に入ろう』って言ってくるんですよ!さすがに恥ずかしいので『絶対イヤです』とお断りしました」
「ああ、そう……」
聞かなきゃ良かったとアレシャは思った。ヘルマンは妹を大切に思っているし、そこに下心など無いのは分かっているのだが、中身はともかく見た目は成人女性であるサーラにソレはないだろう。ペトラも淀んだため息をもらしていた。ランドルフだけは「分かる」と言いたげに頷いていたが。彼に娘同然に育てられたクリームヒルデも、同じような苦労をしたのだと思われる。
「まあ、そういうわけでライラが一緒にいれないわけだけど、さすがに広い城内を一人で散歩させるわけにもいかないから、あたしが付いてきたってわけ」
「はい。ペトラ……お姉様がいてくれてよかったです」
「そこで一旦詰まるの止めて欲しいんだけど」
じとっとした視線を向けるペトラには気づかず、サーラはニコニコと笑顔を見せていた。純朴なお嬢様には遠回りな抗議を察することには疎いようだ。ペトラも諦めてここへやって来た本題を話すことにする。
「少し早いけれど、もう食事の用意が出来るらしいわよ。そのために呼びに来たの」
「そっか、ありがとう。えっと、じゃあいつものところで……」
「分かってるわよ。ルフィナさんのところでご飯食べるんでしょ?」
「うん。そこに運んでもらうよう頼める?」
「勿論。じゃあ、先に行ってるわね」
「それでは私も、失礼いたしますね」
ペトラは手をひらひらと振って了解を示すと、サーラを引き連れて中庭を後にした。アレシャとランドルフも、疲れた身体を軽くほぐしてから城の中へと戻っていった。
「アレシャだけど、入るよ?」
「ええ、どうぞ」
ドアをノックして返事を聞いてから、アレシャは部屋の中にへと入る。そこは広く間が取られた一室で、大きなベッドが鎮座している。静かに寝息をたてているのは黒髪の女性、ルフィナだ。その隣のテーブルにはいくつかの料理が置かれ、銀髪の女性が席についている。
「さっきペトラちゃんがご飯を持ってきてくれたわ。一緒に食べましょう?」
「うん、お母さん」
言われたままにアレシャは対面へ座り、すぐさまフォークを手に料理を突き刺した。少しばかり行儀が悪いとフェオドラは思ったが、運動してお腹が空いているのだろうし、とやかく言わないことにした。「いただきます」と手を合わせて、彼女も食べ始めることにする。
ルフィナはデカン帝国の一件からずっと眠り続け、未だ目を覚まさない。アレシャとフェオドラは愛する家族の覚醒の時を待って、こうして食事の時間を共にするようにしている。これもまた、彼女らの日課であった。
「でも、もう一月か……。さすがに長い気がするけど」
「大丈夫よ。ダリラが『魂が疲労による軽い昏睡状態』って言ってたから。時間がかかっても必ず目を覚ますそうよ。お母さんは、ダリラの言うことを信じるわ」
「ダリラおばさんは魂のエキスパートだし、わたしもソレを信じてるよ。だから別に不安とかじゃないんだけど……ただ、話したい事も一杯あるし、まだかなぁって」
アレシャは肉を頬張りつつ、ふて腐れたようにため息をつく。どうしようもならないこと。ワガママと言えばワガママなのだが、それにはフェオドラも大いに同意するところだ。早く目覚めて欲しい。当然の望みだった。
その思いを抱えつつ、二人は今日も食事をしながら会話に花を咲かせる。今日はこんな事があっただとか、昔はこんな事をしただとか、他愛も無いことばかりだ。
「あー、やっぱりお姉ちゃんとも話したいー!」
「そうねぇ。いっそ水でもかけてみたらどうかしら」
「飛び起きたりするかもね。それでその後たっぷり叱られそう」
冗談を言い合う二人。そこにドアをノックする音が響いた。誰だろうと首を捻っていると、来訪者は自ら名乗った。
「ペトラよ。追加の料理を持ってきたわ」
「え!態々ごめんね。入って良いよ」
アレシャが答えると、ペトラは肩で押し開けるようにして中へ入ってきた。その手には小さめの鍋が。
「ライラが出すのをウッカリ忘れていたらしいわ」
『なるほど、あの様子では忘れるのも無理ないな』
ダレイオスの呟きにアレシャも大いに同意する。少しばかり反抗されただけで、ライラは魂が抜けたようになっていた。基本的にやることはしっかりこなすメイドだが、あれでは多少のミスも仕方ないだろう。
「それで、鍋の中身は何なのかしら?」
「あたしも開けてないから知らないけれど、確かシチューって言ってたわね」
「お、いいね!」
アレシャが立ち上がり、鍋を持って来ているペトラへ歩み寄る。フェオドラが「食事中に席を立たない」と注意するが、早くシチューとご対面したくて鍋の蓋に手をかける。
そして、パカッと開いた。魔界の扉を。
最初に襲ってきたのは、強烈な臭気。明らかに食べられないものをこれでもかと煮込んだに違いない、臭みの向こう側に潜む何かだ。蓋で綺麗に密閉されていたため、蓋を開けた瞬間に充満した臭いが一斉にまき散らされる。
後から事情を聞くと、このシチュー(と言い張られていたモノ)は、反抗期ショックによって茫然自失としていたライラが無意識的に作ったものらしく、食材も工程も何もかも無茶苦茶であった。結果、かような劇物が生み出されたのだとか。
そしてそんな刺激臭を至近距離で吸い込んでしまったアレシャとペトラはとてもマトモでいられない。とにかくこの臭いから離れようと、絶叫しながら鍋を高く放り投げた。
そしてその劇物は反液状である。自由な空中へ放り出されれば、じっとしていられないタチなのである。鍋から元気よく飛び出し、弧を描いて宙を舞い——ベッドへ落下した。正確に言えば、ベッドの中ですぅすぅと眠る女性の顔面へ不時着した。
一説によると、寝ている人間が最も敏感に反応するのは嗅覚であるらしい。猛烈な臭いが女性の脳を串刺しにする。そして、出来たてのとろとろシチューの熱さも忘れてはならない。
結果、軌跡が起きた。
「ああああああああああああああああ!!!!!!!!!うわあああああああああああああ!!!!!!!!!」
「ああ、お姉ちゃんが、お姉ちゃんが、目を覚ました!飛び起きた!」
「る、ルフィナ!」
「あああああああ!あああああああああ!」
「お姉ちゃん、アレシャだよ!分かる!?」
「よかった、ルフィナ……。お母さん、ずっと心配で……」
「あああああ!うあぁぁあああああああ!」
「お姉ちゃん!」
「ルフィナ!」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
顔面を押さえてベッドを転げ回るルフィナを見つめ、嬉し涙を目に溜める親娘の姿。様々な衝撃的な展開が重なった結果、まともな思考が出来なくなっている模様。収拾の付かない混沌とした状況だった。一人マトモなペトラが居てくれて本当に助かったと、後のルフィナは語る。




