106 彼女が語る十年前の困惑
アレシャがこれまで入り込んだ精神世界は二つ。一つはサーラのもの。『深淵術式』という禁術に蝕まれたそこは、少女の心の内とは思えぬ禍々しさに満ちた場所だった。二つ目はリリのもの。全体的に桃色だったそこには洗脳の魔術が打ち込まれていた。どちらもあまり良い景色の場所では無かったが、精神世界の持ち主の心の場景を多少なりは映し出していた。
しかし、アレシャが我が身を省みずに飛び込んだルフィナの精神世界。そこにはこれまでに踏み入ったどの精神世界とも違う光景が広がっていた。
ふわりと空中に出現したアレシャの魂は、そのまま地面へと降り立つ。しかし、そこが地面であるのかどうかすらアレシャは分からなかった。
「何、これ……。真っ黒?」
アレシャが周囲を見渡してみても、そこはどこまでも黒に染まっていた。上も右も左も黒。自分が立っている場所すら定かではない。何か失敗したのかとも思ったが、こんな異質な場所は精神世界以外にありはしないだろう。アレシャは恐る恐るであるが、一歩を踏みだす。
「ダレイオスさんにミネーを見つけたら殴ってくれなんて言われたけど、これじゃあミネーどころかお姉ちゃんすら見つけられないよ……。でも何でこんなことになってるんだろう……」
自分が進んでいるのかも分からぬまま黒い闇の中を歩くアレシャは、その理由を考えてみる。やはり思いつくのは、ダリラが言っていた『精神世界が不安定になっている』という話だ。この異常な光景も不安定さ故、というのなら納得は出来る。
ただアレシャの脳裏によぎったもう一つの可能性は、“ルフィナの精神世界がそもそもこのような世界である”ということだ。余計な考察は無しの非常にシンプルな考え。だが、そんな精神世界が生まれる真理状態なんて碌なものでは無い。アレシャは頭から振り払うと、ずんずんと先へ進んでいく。
しかし、ルフィナの姿はおろか、自分以外の何の存在も見つからない。心に焦りが沸き始める。
「いや、こういう時こそ冷静に、冷静に。今はわたし一人なんだから、しっかりしないと……。えっと……こっちが動いても全然何も見つけられないなら、いっそ向こうから出てきて貰う、とか?」
そう考えたアレシャは、とりあえず呼んでみることにした。
「ルフィナお姉ちゃん!ミネー!えっと、イシュタル!『イナンナ』!何でも良いから来おぉぉい!」
と叫んでみたはいいものの、どうせ来やしないだろう。アレシャは深くため息をつく。しかし、確かに誰も現れはしなかったが、その声に呼応するようにして、頭上から声が落ちてきた。
『アレシャ……そこにいるの……?』
「お、お姉ちゃん!?」
その声は他でもない、探していた姉ルフィナのものだった。アレシャはその声に届けと声を張り上げる。
「お姉ちゃん!わたしはここにいるよ!ちゃんと生きてここにいるよ!」
『アレシャ、ああ、よかった。生きていたんだね』
「うん!お姉ちゃんはミネーとかいう奴に操られているんでしょ?待ってて、すぐに助けてあげるから!」
とは言ったものの、どうすればいいかは分からない。とりあえず自分にあるのは溶かす力だ。これがあれば洗脳だって解けるに違いない。そう考えたアレシャは掌に魔力を集め始める。
『待ってくれ、アレシャ。助けることはできない。ミネーの呪縛はわたしの心の奥底まで届いている。この世界の様子は、それが原因だ。わたしの心の場景が映り込む隙すらないほどに、ミネーに支配されている』
「そんな……。で、でも、やってみるだけでも!」
『言葉を換えようか。できないじゃなくて、必要ない』
必要ない。ルフィナが口にしたその言葉はアレシャを混乱の渦に突き落とす。それではまるで、ルフィナがこの状況を望んでいるかのようではないか。この深い闇を進んで受け入れようとしているなど、信じられない。
しかし、そのアレシャの戸惑いは覆ることはなかった。
『おそらく、アレシャの思っている通りだ。わたしは望んでミネーの存在を受け入れている』
「そんな……なんで、どうして!」
『いいよ、話そうか。今話さなければ機会を逃してしまいそうだからね』
天から聞こえていた声は、いつの間にかアレシャの目の前から聞こえていた。そこにはルフィナが立っていた。アウザー渓谷で戦っていたときの、殺意に満ちた視線も憎悪に燃える表情もなく、凜とした姿でそこにいた。
アレシャの記憶の姉の姿とは十ほど年が違うが、間違いなくこれがアレシャの知る姉の姿であった。
「どこから話せばいいか……。いや、それは分かりきっているな」
「十年前、お父さんが死んじゃったとき。お姉ちゃんはどうして、わたしたちの前からいなくなったの?……聞かせて」
「ああ、そうしよう」
アレシャの言うように、ルフィナは彼女らの父親の死と時を同じくして家を飛び出した。姉妹がこうしてまともに話すのはそれ以来のことだ。話の始まりはそこ以外にはない。
ルフィナは静かに、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「わたしが家を出たのは、父さんの死がきっかけだ。アレシャが父さんを慕っていたのは知っている。けれど、わたしは父さんや母さんやランドルフさんと一緒に旅をしたこともあった。父さんの雄志を間近で見ていたんだ。わたしもアレシャに負けないくらい父さんのことを慕っていたんだよ」
「……じゃあ、そのショックでってこと?」
「確かに、胸に穴が空いてしまったような喪失感はあった。でも、わたしが家を出たのはそうじゃない。……アレシャは、父さんの死因を知っているか?」
突然の問いに、アレシャは当時の記憶を呼び起こす。自分にとって思い出したくない時期であることもあり、はっきりした記憶を引き出すことはできなかったが、父——アレクセイの死因は母——フェオドラから伝えられていたはずだ。
「凶悪な魔物との戦いで、他人を庇って傷を負った……っていう話だった」
「そう。母さんは確かにそう教えてくれた。誰かを守るための、名誉ある死だったって。けれど、違う。真実は違ったんだ。わたしは母さんとランドルフさんが隠れて話しているところを、偶然聞いてしまったんだ」
そう前置きして、ルフィナは十年前の記憶を語り始める。
アレクセイの死が知らされたその日の夜。彼女らの住む家は酷く暗い空気に覆われていた。アレシャは一人、自室に引きこもっている。今も部屋の中からは慟哭が聞こえていた。訃報を伝えた母をワケも分からず罵って部屋に飛び込んでからずっとこの様子だった。
ルフィナはそんなアレシャの部屋の前で、膝を抱えていた。未だ幼い妹の側についていてあげたいが、自分にかけられる言葉は無い。だからこうして、部屋の前でじっとしているしかなかった。
しかし、そんなルフィナ自身も悲しくて悲しくて仕方が無い。アレシャに聞こえないよう、声を殺して涙を流していた。
そして日がとっぷりと暮れたころ、アレシャの部屋から泣き声が聞こえなくなった。ルフィナはそっとドアを開けて中の様子を確かめる。
「アレシャ、大丈夫か?」
返事は無かった。部屋の中へ入ってみる。すると、妹は自分のベッドで横になり、静かに寝息をたてていた。両目は赤く腫れ上がっているが、眠る顔はやすらかだ。どうやら、泣き疲れてしまったらしい。
妹のその様子を見て少し安心したルフィナは小さく笑みを浮かべると、アレシャに毛布をかけて部屋を後にしようとする。
その時、部屋の前から声が聞こえてきた。それはルフィナもよく知る二つの声。母親であるフェオドラと、父の親友であるランドルフのものだった。
「アレシャは泣き止んだのね。寝ちゃったのかしら。ルフィナもいないけど、部屋に戻ったのかしら」
「もういい時間だしな。子どもは寝かせておけ。それより、伝えにゃならん事があるんだ」
「そうだったわね。なら、私の部屋へ行きましょう」
二人の大人はそうして歩き去って行った。何てことの無い会話であったのだが、ルフィナは少し気になった。このタイミングでの、伝えなければならない事。アレクセイに関係ある事なのは間違いない。二人の足音が聞こえなくなってから、ルフィナは部屋を出て母の自室へと向かった。
部屋の戸は閉じられていたが、中から話声は聞こえてくる。ルフィナは行儀が悪いと思いながらも、扉に耳を当てて盗み聞きをすることにした。
フェオドラとランドルフの会話は、思いの外明瞭に聞こえてくる。
「それで?いい話かしら、悪い話かしら」
「生憎と、全部悪い話だ。まず一つ目だが、事件の証拠を得るのは無理そうだ。金と権力だけはあるような輩が揃って隠し立てしようとしてやがる。名は売れてても、単なる冒険者でしか無い俺たちには手の出しようが無い」
「そうね……。でも、どうしてこんな事に……。私たちはただ、立場の弱い人の役に立ちたかっただけなのに……!」
フェオドラが震える声で絞り出すように、思いを口にする。ランドルフは何も言わない。ただ話を聞いていたルフィナは、どこか違和感を覚える。母からは「お父さんは魔物にやられた」と聞いた。しかし二人の話は、父の死に人の意志が介在しているように聞こえてしまう。ルフィナの心臓の鼓動が速まる。
そんな彼女に気づくこと無く、フェオドラとランドルフの話は続く。
「ごめんなさい、取り乱したわ。……で、証拠はなくても目星はついていたりはしないの?」
「一応ついてる。前に俺たちが魔物の群れを討伐した集落、覚えてるか?あそこ一帯の領主が怪しい。そいつは領民に重税を課していたらしいんだが、俺たちの戦いが領民を勇気づけることになった。結果、領民の暴動が起こり、領主の権力が削がれることになった」
「その恨みを晴らすため、ってこと?」
「今のところ、その可能性が一番高い。が、絶対に復讐なんて考えるな。お前には守ってやらなきゃならねえ娘が二人もいるんだ。お前まで失ったら……」
「分かってるわよ、言われなくても」
そうは言いつつも、フェオドラは胸中のやり切れない思いの捌け口を探しているようだった。だが、どうにも宛てが無く、椅子に乱暴にもたれかかる。
「他の権力者が隠しているのは、その領主から何かしらの恩恵を受けていたからかしら」
「多分な。もしかしたら、アレクセイの暗殺そのものにも関与してるかもしれねえ」
「そうに決まってるわ。あの人なら、たかが一領主が差し向けた暗殺者如き返り討ちにできたはずよ。権力者がよってたかって、何かで縛り付けたのよ」
「……何か、か。フェオドラ、一つ話してもいいか?」
これまで遠慮無く話していたランドルフが躊躇うような素振りを見せた。きっと、これから話すことが悪い話の二つ目なのだろう。フェオドラは大きく息を吐くと、ランドルフに話してくれと頼んだ。
「じゃあ言うが、山に捨てられたアレクセイの死体が発見される少し前のことだ。俺はアイツとサシで酒を飲んでたんだが、アイツはいつになく真面目な顔で俺にこう言ったんだよ。『後の事は頼んだ』ってな」
「……なに、それ。今始めて聞いたわよ、そんなこと」
「悪かった。あいつに『家族には絶対に言うな』と約束させられたんだ」
「それじゃあ、あの人は、まさか、死ぬ事を覚悟してたってこと?」
「そういう事だろうな。……この際だ、もう全部話しちまうぞ。悪い話三つ目だ」
フェオドラは何も言えなかった。だが、その沈黙を了承と受け取ったランドルフは、その最後の悪い話を語り出す。
「アレクセイが死んだ、いや、殺されたのは恐らく、抵抗できない状況を作られたからだ。そうでもなきゃ、アイツほどの男が殺されるとは思えねえ」
「それが、悪い話なの?それじゃあ、抵抗できない状況ってもしかしなくても……」
「……幸か不幸か、いや、紛れもなく幸な事なんだが、アイツには愛する娘が二人もいた。人質にするには、この上なく適してるだろうな」
アレクセイの敵は権力だけは持っている連中だった。腕っ節があろうとただの一般人でしかない男の娘の将来を奪うことなど、造作もないだろう。アレクセイに最早、選択肢など与えられてはいなかったのだ。自分の想像でしか無い、とランドルフは言うが、フェオドラにはそれが真実であるのだろうと半ば確信していた。アレクセイという男の正確を最もよく知る彼女だからこそ、そう思えた。
愛する夫の死の原因を作ったのは愛する我が娘。その悲しい事実を真っ直ぐに受け止めることができず、フェオドラはただ涙を流すことしかできなかった。
ここまでの話を、悲しい真実の話を、ルフィナは扉の前で一人じっと聞いていた。思考がまるで追いつかない。頭の中の糸がほつれもつれ、ぐちゃぐちゃになっていた。ルフィナはドアから耳を離すと、フラフラと廊下を歩き始める。
名誉ある死だと思っていた父は、醜い権力者の恨みを買って殺されていた。そしてその死の原因は、他ならぬ自分たちのせいだった。それをすぐに理解して受け入れろと言う方が無理な話だった。
自室に戻ると、ベッドに倒れる。心臓は未だルフィナの胸を叩き続けていた。息を吸ったり吐いたりしてみても、呼吸が整わない。それが溜まらなくもどかしくて、ルフィナは頭をかきむしる。
「なんで?お父さんの何が悪かったの?わたしの何が悪かったの?それじゃあ、わたしはどうしたらよかったの?分からない、分からないよ……!」
自分に問い、自分で答えを出しては納得できずに破り捨てる。思考が暴れ回り、苦悶に呻きながらルフィナは答えを求めて考えに考えた。
そして彼女が一つの結論を得たのは、日の光が部屋を照らし始めた頃だった。




