104 ミネー
ロマノフ兵、エルフ兵、そして冒険者たち。最初は少数もいいところだった『魔王』陣営に、今ではそれだけの増援が加わっていた。数では未だ不利だが、十分に軍勢同士の多戦と言える規模にまでなっている。
しかし、これだけの兵がいる中であっても、ある一カ所にはまるで人が寄りついていなかった。人間に残された動物的本能がそこに立ち入る事を拒んでいた。
その場所で睨み合っているのは二人の女。黒と白。対照的な髪色であるが、その顔立ちはどこか似通っているように思えた。それもそのはず、二人は血の繋がった姉妹である。
しかし、この対峙には特異な点が一つある。それは、互いに表に現れている人格が肉体の持ち主とは別人であるということだ。
白髪の少女アレシャの肉体に宿る『魔王』ダレイオスは、黒髪の女性に向けて語りかける。
「ずっとお前の事を思い出せなかった。まあ、当然だな。なんせ千九百年もの時間が経っているのだから」
「わらわは一時も忘れることは有りませんでしたよ、ダレイオス様。僅かな欠片となって血と共に受け継がれる中でも、貴方様への愛は失われませんでした」
「わらわ……。私の知るお前とは少々口調が変わっているようだが、私の妃にでもなったつもりなのか?」
「ふふ、いずれそれも全てお話してさしあげましょう。貴方様がわらわのものとなったときに、存分に」
ルフィナに宿る者——ダレイオスが“ミネー”と呼ぶその女は恍惚とした笑みで微笑む。世の男を虜にする妖艶な笑みであるが、それ以上に刺すような冷たさが印象的な笑みだった。
『だ、ダレイオスさん。これって一体どういう……?』
「どういうわけか、ルフィナの人格が表に出ていないようだな。つまり今、もう一つの魂——イシュタルが出てきている」
『え、それがその……ダレイオスさんの事をあ、愛していた女の人ってこと?』
「そうだ」
『いたんだね、ダレイオスさんの事を好いている人』
アレシャの不遜な物言いに色々ともの申したい事はあるが、今はそれどころではないと自重する。
ダレイオスがこれまで感じていた、覚えのある魔力。その正体がようやく判明した。その名はミネー。彼女は千九百年前のダレイオスがよく知る人物であった。そしてそれは即ち、彼女がイシュタルの正体であったということである。
イシュタル——ダレイオスの親友であるアレクサンドロスを殺害し、ダレイオスの国を滅ぼした張本人。ダレイオスが追い求めていた仇敵だ。
そんな相手も前にしても、未だダレイオスは冷静に言葉を紡ぐ。
「だが、お前がイシュタルだったというのは納得だな。寧ろ、私に恨みを持っている人間として一番にお前の名が浮かぶくらいだ」
「やや混同しているようですね。わらわとイシュタルは、本来は別の存在です。わらわがイシュタルであるという表現は誤りでは無くとも、正確ではない」
ミネーはそう語る。ダレイオスはその言葉を聞いて、なるほどと納得する。ダレイオスはルフィナの内にある魔力を知っていた。しかしそれとは別に、知らない魔力の存在を同時に感じていた。今の話を踏まえて考えるなら、知っている魔力はミネーのもの。知らない魔力はイシュタルのものであったということなのだろう。
そしてそこで、ダレイオスは以前に立てた推論を思い出す。
ルフィナの内に眠る魂は、デカン帝国の研究によって生み出された精神生命体なのではないかというものだ。その後にブケファロスからイシュタルの存在を聞いたために、その線の真偽については保留したままとなっていたのだが、こうして過去の記憶を持ったミネーの魂が存在している以上、作られたものであるという線は完全に消える。
しかし、ミネーとイシュタルが別個の存在であるならば、もしかすると“イシュタル”というのは精神生命体に与えられた呼称なのではないかという推測がダレイオスの中に立つ。
千九百年前にダレイオスから全てを奪い、アレクサンドロスを殺めたのはイシュタルであるとブケファロスの口から聞かされた。イシュタルが事の真相を握っているのは間違いない。だが、それらの事件を起こす動機を持っているのはミネーである。つまり千九百年前、ミネーがイシュタルと呼ばれる精神生命体を生みだし、その存在の力を用いて大事件を引き起こした。そう考えられるのではないか。
咄嗟の思いつき。しかし、ダレイオスには筋が通っているように感じられた。
それが確かなものであるかを確かめるため、ダレイオスはミネーに問いかける。
「一つ聞きたい。お前は、『精神生命体』というものを知っているか」
「やはり貴方様の頭脳は素晴らしいですね。真相を何も知らなくとも、確信を口にする。……『精神生命体』、当然存じています」
ミネーが薄く微笑む。推論はダレイオスの中で確信に変わった。細かな事は何も分からない。だが、この女はイシュタルと呼ばれる精神生命体を用いて国を滅ぼした。それは間違いない。
そして今も、何か良からぬ事をしでかそうとしている。ブケファロスは『イシュタルが蘇った』と言った。今ダレイオスが話しているのはミネーという女であるが、その内、目には見えぬところにイシュタルは確かに存在しているのだ。
ダレイオスの瞳に、静かに炎が揺れ始める。
「だいたい分かった。要は、お前とイシュタルを纏めて潰せばいいのだろう?」
「ふふ、素晴らしい闘気。さすがはわらわの愛しき男だ。あの男の闘志も悪くは無かったが、どうにも泥臭くてわらわには合わなかった」
「……何の話だ?」
「無論、アレクサンドロスを手に掛けた時のことにございます」
その言葉が飛び出した時、ダレイオスの呼吸が一瞬止まる。そして、一層燃えたぎる瞳をミネーへと向けた。身が縮み上がるような激しい怒気を孕む視線。しかしミネーはそれに動じることもなく、口を開く。
「あの男は確かに強かった。間違いなく、わらわがこれまで相手をした中で一番の腕でした。それでも、わらわの力に及びはしなかった。あの男はずっと気に食わなかった。ずっとダレイオス様と親しくしていたのが目障りだった。ですから、あの男の腹を貫いたときのあの快感は筆舌にし難いものがありましたとも」
ミネーは当時の記憶を思い出し、自分の右手をべろりと舐める。ダレイオスはその手に滴る鮮血を見た。
「まあ、あの男の最も憎らしいところは、わらわに刃向かう為の力を後世に残したところだが。あの男の最後の一撃でわらわの力は一時的に大きく削られ、それを止めることはできなかった。全くもって忌々しい」
「後世に、か。その意志が私をこの場に立たせている。アレクサンドロスには感謝せねばな。……いい機会だ、一つ聞いておこうか。アレクサンドロスの最後の言葉は何だった?」
なおも激しい怒りを燃やしつつ、ダレイオスは驚くほど冷静な声で問う。対するミネーは、その質問に顔をしかめる。
「あの男は、今際に貴方様の名を口にしたのですよ。それが一層腹立たしい。自分がダレイオス様に近い人間だと、わらわに誇示したかったのでしょうか。何にせよ目障りでしたわ」
「…………そうか、あいつは、私の名を呼んだのか。……そうか」
『ダレイオスさん……』
口から出た瞬間、空に溶けてしまうほどの小さな呟き。アレシャにしか聞こえなかったその言葉の持つ寂しさにアレシャは心配する言葉をかけるが、ダレイオスは「大丈夫だ」と返す。先の呟きとは打って変わった、力強い言葉だった。
「ミネー、お前に聞きたいことは山のようにある。だが、生憎とここは戦場。長話をするには向かない環境だ。ここは一つ、きっぱりとケリをつけてから思う存分話すことにしないか」
「なるほど。わらわも貴方様とお話するのは大歓迎ですわ。……ですが、申し訳ありませんがお断りさせていただきます。まだ、わらわが相手をするには準備が足りません。貴方様のお相手をするのに、それでは失礼です」
「では、どうするというのだ?」
「まずは、この女の相手をしていただきましょう」
そう言うと同時に、ミネーの気配が薄らいでいくのをダレイオスは感じ取った。そして次第に強くなっていく別の気配。それが確かなものになったとき、ミネーの身体がガクリと膝をついた。
「あぁ、うぅあぁ、はぁ、はぁ……」
腹を押さえながらミネーは苦悶の声を上げるが、次第に落ち着いていく。
「傷……あれ、ない……。そうか、お前が治療したのか。一応、礼を言っておく」
誰に話しかけるでもなく会話する。先ほどとは様子がまるで違っている。そして察した。目の前にいるのは既にミネーではない。意識が身体の持ち主へと明け渡されたのだ。つまり、この女性は——
『お姉ちゃん!』
「ルフィナか。ようやく出てきたというわけだな。……なら、ここは私の出番ではないな?」
『うん、お願い』
変化はダレイオスにも訪れる。鋭い眼光は優しい瞳に変わる。長い白髪が踊るようになびく。少女もまた、意識が肉体の持ち主へと戻った。アレシャの意識が表へ現れた。
ルフィナが顔を上げる。その視界がアレシャを捉える。アレシャもまた、真っ直ぐにルフィナのことを見つめる。
十年近く離ればなれになっていた姉妹の再会が、ここに成された。しかし残念なことに、その再会は感動的なものにはならない。アレシャを見た瞬間、ルフィナの顔に明らかな憤怒が浮かんだからだ。その怒りの表情に、アレシャはびくりと身を震わせる。
「貴様……。ようやく姿を現したか。オル・オウルクスの森で会ったときは見逃したが、今度はそうはいかない。わたしがその四肢をへし折ってやる」
「え、ちょちょちょっと待ってよ!」
躊躇いなく吐かれた殺意にアレシャは困惑する。アレシャとしてはようやく再会できた姉に聞きたいこと、話したいことが沢山あったのだが、それどころじゃない様子に戸惑うばかりだ。
しかし、アレシャがあわあわとすればするほど、ルフィナの表情の険しさが増していく。
「舐めた真似を……いつまで続けるつもりだ?お前の行為は火に油を注ぐだけだ!」
「うわわわ!」
ルフィナが魔法陣から巨大な火炎を放った。業火が一瞬にしてアレシャのいた場所をまるごと焼き尽くす。が、アレシャの周りの炎は生き物のように揺らめいて消滅する。その中から現れたアレシャは全くの無傷であった。
「戸惑うのは分かるけど、しっかりしてちょうだいね」
「ヴェロニカさん……ごめん、助かった」
アレシャの目の前には赤髪を揺らしたヴェロニカが魔法陣を展開した状態で立っていた。炎がアレシャを包む直前、間に割って入り攻撃を無力化したのだ。ルフィナはヴェロニカの邪魔に苛立ち舌打ちする。
「……何かしらの事情はあるものだとは思っていたけれど、あの態度は何かそれ以前の問題がありそうね」
「うん。話をしたくても会話になりもしない。お姉ちゃんだけどお姉ちゃんじゃない感じ……」
『ミネーによって洗脳状態に置かれている可能性があるな』
ダレイオスの言葉にアレシャは頷く。今のルフィナは何か一つの考えに縛られ、他の思考を一切拒絶しているように見える。アレシャの知るルフィナがそのような人間ではなかっただけに、洗脳されている可能性が一番高いように思われた。
アレシャは息を吐き、乱れた思考を整列させた。
「まずは正気に戻さないと」
「正気、ということは礼の術を使うのかしら?」
「そうだね。それがいいと思う」
礼の術とは勿論、ロマノフ王国で活躍した洗脳を解く魔術の事だ。しかし、あれを使うにはアレシャの魔力を発動に用いる必要がある。あのデカい魔法陣をこの場に広げ、戦いながら発動させる何てことは不可能だ。
「あの魔法陣なら問題ありませんわ」
その時、アレシャの足元から声がした。驚き飛び退くと、地面の影から人影が浮かび上がり少女の形になった。
「ヒルデ、姿が見えないと思ったら予想外に近くに隠れてたんだね」
「はい。いつでも出てこれるように待機していましたわ。それより、件の魔法陣ですが、研究用にアレシャから採取した魔力サンプルがまだ残っていたはずです。それを用いれば、魔法陣の機動は可能かと」
「ああ、そうね。そういえばそうだったわ。荷物は全て壁の中に運び入れているから、その中にあるはずよ」
「その場所なら私が存じております」
そこに、鎖をひゅんひゅんと振り回すメイド、ライラが声をかけてきた。メイドとして全員の荷物整理を請け負っていたライラは、その在処を知っているとのことだった。
「なら、私とライラさんの二人で一度壁まで向かうことにいたします。あそこにはアルカディー陛下とともにダリラさんもいるはずですから、魔術の発動の準備を整えておきますわ」
「準備完了したら、通信を送って頂戴。私はアレシャちゃんのサポートに回るわ」
「ごめん、よろしく頼むね!」
アレシャが手を合わせて頭を下げると、クリームヒルデとライラの二人は力強く頷き、戦場を駆けていった。
丁度その時、再び多数の火球がアレシャめがけて飛んできた。不意打ちではあったものの、アレシャは今度は素早く反応する。後ろに大きく飛び退くと、氷の鳥を産みだして火球と相殺させた。
「ちょこまかと面倒な……。そっちの『魔劇』にも借りを返さないとな。二人まとめてたたき伏せてくれる」
「面倒はこっちの台詞だっての!やっとお話できると思ったのに、お姉ちゃんの馬鹿!」
アレシャは両手の平、そして両足の裏に魔法陣を展開した。炎が溢れ出しアレシャの身体がフワリと宙に浮かぶ。その炎の色は今までになく明るく輝き、アレシャの強い意志を感じさせるかのようだった。
アウザー渓谷の戦い最後の一戦、その火蓋がついに切って落とされる。




