98 終幕の影
漆黒の大剣が無機質な石畳に突き刺さる。突き刺さったのだが、それと同時に石畳は元々その場に存在していなかったかのように、跡形も無く消え去った。
クリームヒルデは一撃足りも貰うまいと、広々とした地下牢を駆け回る。真っ黒な影——レイヴンが、腕を変容させた大剣を振り回して、それを追い立てる。
「ほおら、避けられるか?」
挑発するような言葉とともに、レイヴンが腕の大剣を大きく薙いだ。壁際に追い詰められていたクリームヒルデは地面から影を呼び出して足場にし、跳躍した。次いで、レイヴンの剣が壁面をえぐり取る。またしても、壁そのものが消失したかのような大きな跡が残された。
いや、レイヴンはその印象の通り、床や壁を消失させているのだ。物質としての実体を失ったレイヴンは、触れた箇所の実体を丸ごと消し去るという能力を持っている。その能力によって、レイヴンはこんな常識外れの破壊を繰り返しているのだ。もし捕らえられようものなら、腕でも脚でも頭でも、あっという間にもぎ取られてしまうだろう。
クリームヒルデはそうはなるまいと、必死に脚を動かしていた。暗闇の中で迫る影から逃げようと藻掻き続ける。それは不可能なことのようにしか思えないが、クリームヒルデは諦めることなく攻撃を退け続ける。彼女は脚の回転以上に、頭を猛烈に回転させていた。この厳しい状況を打破する道を見つけるために。作戦の遂行のために自分の命を懸ける思いでレイヴンの誘いに乗った彼女だったが、そう易々と命をくれてやる気などない。寧ろ、この男に首をくれてやるくらいなら、溝川の中で哀れな溺死体となる方が幾分マシなくらいだと考えているほどだった。諦める気など毛頭無い。
しかし、そうは思っていても、既に実体を失ったレイヴンに対してクリームヒルデの術が一切通用しないというのは、以前の戦いの中で実証済みだ。クリームヒルデに攻め手と呼べるものは皆無であった。
「ならば、どうするか……。まずは、相手の術の分析ですわね。考える為の材料は山ほどありますわ」
クリームヒルデはクールな思考を保ちつつ考察を始めるが、その表情に焦りと恐怖が浮かんでいた。けれど、これも作戦の内である。言ってしまえば演技である。レイヴンの目的はクリームヒルデへの恨みを晴らすこと。それも、存分にいたぶってから殺すつもりのようだ。ならばこうして、憎き相手を追い詰めているという満足感を味わわせてやっておけば、この状況をもっと楽しみたい、クリームヒルデの苦しげな表情を眺めていたい、とレイヴンは思うはずだと考えたのだ。そうであれば、レイヴンも攻撃の勢いを強めたりせずに、もっと時間をかけようとするに違いない。レイヴンという人間の正確をある程度理解しているクリームヒルデにはそうなるという確信があったが、事実その通りに事が運んでいた。余裕の無い表情で余裕を持って攻撃を躱しつつ、クリームヒルデは思考に沈み込む。
「私に攻め手がないのならば、有効な攻撃を見出すよりも、相手の術を打ち消す方法を見つける方がいいですわね。以前の戦いの時もそうでしたから」
レイヴンの耳に届かないほどの小声で呟きながら、クリームヒルデは考えを組み立てる。前の戦いでレイヴンのこの術を無力化した方法としては、ダレイオスの操る術、『デートラヘレ』の力だ。彼の臣下であるヘリオスが編み出した術を、ガントレットに封じられた魂を介してダレイオスが発動させたもので、触れた対象の魔力を吸収するという単純にして強力な魔術だ。本来触れることのできないレイヴンの身体だが、ダレイオスの術が発動した時だけは、その身に触れる事ができるようになっていた。ダレイオスの手が触れようとした一時のみ、レイヴンの術が無力化され、干渉が可能になったのだ。
ここからクリームヒルデが考えたこと。それは、レイヴン自身ではなく、彼の術を対象に発動した術ならば干渉できるのではないかということだ。基本的にあらゆる魔術の干渉を受けないレイヴンであっても、それは結局、魔術の力によるもの。その魔術を発動させている魔力そのものを吸収してしまう『デートラヘレ』は、言うなればレイヴンではなく術そのものを狙ったものだった。この仮説が正しければ、一つの突破口になり得る。クリームヒルデはそう考えた。
頭上から二振りの黒い大剣が迫る。地面から出現させた二匹の黒蛇を盾にし、クリームヒルデは後ろへ大きく下がる。大剣はあっという間に黒蛇を消し飛ばし、その一寸の光も発すことのない切っ先が彼女に向いた。
「さあさあ、いつまで持つかな?お前のその苦渋に満ちた表情が、俺の糧になる!よし、もっと楽しませてやろう……」
レイヴンは高笑いしながら、その身を変容させていく。そして現れたのは、常闇の身体を持つ巨大な烏。これもまた、以前対峙したときにも見た姿であった。空を自在に飛び回りながらの高速接近には苦戦を強いられた。
しかし、ここは地下。烏の姿をとることで速度は上がるだろうが、その持ち味を存分に活かすことはできない。なら、まだ思考していられる余裕はあるはずだ。クリームヒルデは再び影から黒蛇を生み出しつつ分析する。寧ろ、余裕がありすぎるとまで感じていた。
レイヴンは絶対的に有利なこの状況に酔いしれ、クリームヒルデの思惑にまるで気づく様子はない。眼前の小娘をいたぶりたいという欲のままに攻撃を繰り返し、それを心から楽しんでいた。しかしそれは、レイヴンが冷静な思考を欠いているということでもあった。
しゃがれた声で高く叫ぶと、レイヴンは突進してくる。それも単なる体当たりだ。愚直なまでに真っ直ぐ。相手の能力の性質上、当たれば終わりであるのだが、クリームヒルデには、その攻撃が当たる未来がまるで見えなかった。姿勢を下げ、跳躍し、黒蛇を盾にし、迫る大烏をいなし続ける。
「前に戦った時の方がよっぽど手強く感じますわ。やっぱり、この程度の男相手に殺られるワケにはいきませんわね」
以前の戦いでは、レイヴンは与えられた任務の遂行を第一にしていた。故に、一撃一撃の精度、殺意は限界まで研ぎ澄まされていた。しかし、レイヴンにとって確たる目的の無い今の戦いでは、レイヴンの攻撃にまるで鋭さが無い。
レイヴンは誰かの駒として戦わねば、真の強さが発揮できない性質の人間だった。自分の好きなように戦って逆に弱くなるとは、何と情けないことか。クリームヒルデはヒラリと攻撃を躱し、小さくため息をつく。
そして、一歩踏みだした。死を覚悟してこの戦いに臨んだ、先ほどの自分の覚悟が馬鹿らしく思えてくる。
「もう、いいですわ。さっさと終わらせましょう」
「何を馬鹿なことを。遊んでやってるのはこっちだぞ?お望みなら今すぐ消してやる。お前では俺に手出しなどできやしないのだからな!」
クリームヒルデの言葉が心底可笑しいようで、レイヴンが腹を抱えて笑う。しかし、それに返ってくるクリームヒルデの反応は冷めた嘲笑だった。
「もう喋らない方がよろしくてよ。ご自分が敗れゆく様がより惨めになるだけですから」
そう言われて、レイヴンももう喋るのを止めた。大きく翼を広げて突進し、クリームヒルデの腹に風穴を開けてやろうと、その鋭い嘴を真っ直ぐに突きだした。クリームヒルデは影の中へと沈み込み、難なく回避する。
「隠れたところで、俺ならお前の居場所くらい察知できるんだぞ?逃げようたって無駄だ」
空中で羽ばたきながらレイヴンは嘲けるが、そこに幾匹もの黒い大蛇が飛びかかってきた。大抵の人間なら一飲みにしてしまうような大きさだが、それも全てレイヴンに触れる瞬間に消滅していく。しかし、その蛇が消え去った背後から一際巨大な蛇が現れた。
「『ヒドラ』」
クリームヒルデが呼びかけると、その大蛇は口から濛々と霧を吐き出した。くすんだ灰色の霧がその場を覆い尽くす。レイヴンの視界が完全に奪われた。
「以前よりも更に改良した毒霧ですわ。お口に会いますでしょうか?」
「霧?何を言い出すかと思えば、俺にそのような物が通用するわけがないだろう。小賢しい!」
レイヴンが翼を大きく払う。それによって彼の正面の霧が消失するが、際限なく生み出される霧が再び覆い尽くす。レイヴンに更なる苛立ちが募り、業を煮やした彼は全てを消し去ろうとするかのように大きく羽ばたいた。巻き起こった風が彼の正面に存在する全ての物を消し飛ばした。天上も床も壁も、牢獄の鉄格子すらえぐり取られるように消え去った。それによって、毒霧を吐き出していた『ヒドラ』と呼ばれた大蛇も頭を失って霧散し消滅した。
ようやく鬱陶しい毒霧が消え、レイヴンはすぐさまクリームヒルデの姿を探す。ご自慢の毒霧が通用しなかった今の気持ちを存分に教えて貰おう。そんな考えの下に、周囲の闇へ意識を巡らす。
しかし、そんな必要はなかった。クリームヒルデは隠れてなど居なかったからだ。空中に居座るレイヴンのすぐ後ろ。高く持ち上がった別の大蛇の頭の上であぐらをかいて、何かをレイヴンに向けて掲げていた。
そして次の瞬間、クリームヒルデの持っていたそれが強い光を放つ。
そこからはまさに一瞬の出来事であった。
光を浴びたレイヴンは自分の身に異変が起きていることにすぐに気がついた。彼の自慢の術、実体を消す術の効果が失われたのだ。黒い大烏はその姿を失い、ただの一人の人間の姿に戻ると、地面へ落下していった。
そこにクリームヒルデが飛びかかる。その手には抜き身のレイピアが握られている。空中で体勢を持ち直すこともできず、レイヴンは一度影の中へ逃げ込もうとする。しかし、あろうことか、レイヴンはその術すら扱うことはできなかった。これまで自分の手足のように扱ってきた、アンブラのリーダーとしての彼の全てとも言える、影を操る術がまるで機能しなかった。
その困惑が彼の脳を支配するよりも早く、クリームヒルデがレイヴンの真上に位置した。そして鋭く細い輝きが、レイヴンの胸を静かに貫いた。二人はそのまま落下し、レイピアを突き刺したままクリームヒルデはレイヴンを地面に押さえつけた。
「うぁがあああああぁああ!」
「うるさいですわね。余計な口は塞いでおきましょうかね」
その言葉と共に地面から現れた黒い蛇がレイヴンの口内へ侵入した。口が開いた状態で固定される。辛うじて気道は確保しているが、やはり呼吸はし辛いようで、レイヴンは口から蛇を引きずり出そうともがくが、そうすればするほど胸に刺さった剣が傷口をえぐる。結果、進退窮まったレイヴンは地面に静かに倒れるしか無かった。
「あぐぁ、なにがおぎだ。なにをじた!」
「まるで言葉になっていませんね。それでは答えたくとも答えられませんわ」
クリームヒルデが困ったように首を傾げる。レイヴンは殺意を持って睨みつけるが、胸の剣を軽く捻られ、苦悶の叫びを上げた。
クリームヒルデはレイヴンに温情をかける気はさらさらなかった。この男がどれだけ苦しもうとも、彼女にはそれに対しての何の同情心も湧いてはこなかった。
そして、レイヴンを打ち破った自分の一手に関して、レイヴンに教えてやる気もなかった。それを語ったところで、得られるのは相手を出し抜いた優越感だけだ。クリームヒルデは、この男相手にそんな物が欲しいとはまるで思わなかった。
ただ静かに、自分が覆い被さるレイヴンの苦しむ姿を見下ろしていた。何もしなくても、レイヴンは直に終わりを迎える。それが分かっていたというのも理由の一つである。
そしてその終わりは、ものの数秒後に訪れた。レイヴンが突如として絶叫し始めたのだ。胸の剣が身をえぐるのも構わず喉をかきむしる。目は血走り、あらゆる苦しみをその身に受けたかのように大きくのたうち回った。
クリームヒルデは彼の上から腰を上げてレイピアを引き抜くと、血を払って鞘へ収める。レイヴンの口を塞いでいた蛇もいつの間にか消えていた。レイヴンは身を起こしてクリームヒルデへ向けて怒りの言葉を投げつける。
「お前!何を!何をしたあ!あぁあああ!」
「何もしていませんわ。ただ、元あるところへ返すだけです」
「クソが!クソが!クソが!地獄に落ちようと、お前への憎悪を絶やしはせんぞ!はは、はっはは!それに、俺がどうなろうと、お前らの策はもう潰れてるんだよ!お前のもう一人のお仲間が城内で何やらやってるんだろう?だが、城内には他のアンブラの構成員が入り込んでいる!そのお仲間も今頃無残に死に、ロマノフ王の前に引きず——」
ドサッという音と共に、レイヴンの言葉が途切れた。クリームヒルデが後ろを振り返ると、レイヴンの頭が地面に転がっていた。そして彼の身は次々と地面に落ち、人の形を保てなくなる。ザラザラと溶けて行くように、あっという間にレイヴンは消え失せた。彼が居たはずの場所には、砂のような粒子の山だけが残っていた。
クリームヒルデがレイヴンの力を如何にして奪ったか。それはたった一つ、洗脳解除の魔法陣を利用しただけだ。当初の予定通り、簡易通信で信号を送り、アレシャとダリラが魔術を発動し、カードの魔法陣を通してレイヴンにそれを浴びせた。それだけである。
しかし、それがレイヴンにとって何よりも効果的なものであった。
クリームヒルデが思い出したのは、以前の戦いの時、レイヴンが漏らした一言である。
お前のご自慢の術は俺の使う力のたった一部分に過ぎない。まあ、俺の力もあのお方の……
この言葉から推測出来ること。それは、レイヴンの力も何者かの力の一部分を借りることで発動できているものだということだ。そして、レイヴンのバックにいるものがデカン帝国であると明らかになった今では、“あのお方”がルーグのことを指しているのだと分かる。なら、レイヴンに力を与えているのはルーグである可能性が高い。
そこで更にクリームヒルデは思い出した。ルーグの葬儀において、ルーグが掲げた神々しき槍について書かれた新聞記事だ。聖槍『ブリューナク』。まさに太陽の如き光を放っていたという。
そして推測を立てた。自分も用いている“影”を操る力は、その“光”によってもたらされているのではないか。強い“光”の裏に生まれる“影”を力の一端としてレイヴンを初めとするアンブラ構成員に分け与えているのではないか。
その裏付けとして、レイヴンは以前の戦いの際に、太陽のように輝き燃える怪鳥へと変貌して見せたことが挙げられる。影を操る者でありながらそのような事ができるのは、『影を操る術』の本質が光にあったからに他ならない。
これらの情報からクリームヒルデは、レイヴンの能力はルーグから分け与えられたものだと考えたのだ。
力の譲渡。それは言わば、ルーグがレイヴンへ向けて魔術を発動させているのと同じだ。そしてクリームヒルデたちは幸運にも、『対象へ掛けられた魔術を解く魔術』を持っていた。それが他ならぬ洗脳解除の魔術だ。
クリームヒルデの推測に誤りなく、隙をついて発動した魔法陣によって見事にレイヴンは力を失い、同時に彼にかかったもう一つの魔術も無力化されることとなった。
それは、死人”を生み出す魔術である。
“死人”は禁術『冥界術式』によって死んだ人間を蘇生させる魔術。しかし、術者は蘇らせた対象に常に術をかけ続けなければならない。もしその術が途切れたとき、“死人”は現世に留まることはできなくなり、砂のように崩れ墜ちて死亡する。以前の“死人”事件の際に判明していたことだ。
レイヴンは『冥界術式』によって一度自らの命を絶ち、ルフィナによって“死人”として蘇ったという経緯がある。が、彼にかけられたその魔術はルーグから与えられた力を失うと同時に解除されてしまった。そして彼は定められた終わりに従い、砂塵となって息絶えた。
現在の状況を冷静に分析し、持てる手を活かしたクリームヒルデの、納得の勝利であった。
ただ当の彼女は、この勝利にこれといった感情も抱いていない様子だったが。かつては恐怖の対象であったレイヴンは既に、彼女にとって過去の存在。好きの反対は無関心。レイヴンに抱く感情はいつの間にか消え去ってしまっていた。
その奇妙な感情の変遷を自覚しているクリームヒルデだったが、あの男にはそれが相応しいと思った。
「自分から『俺は実体が無い!この世のどこにもいない!』なんて威張り散らせる人間なのだから、綺麗さっぱり忘れてやったほうがあの男も喜ぶでしょうね」
クリームヒルデの手に小さな魔法陣が生まれ、風が巻き起こる。その風はちっぽけな砂山をいとも簡単に吹き飛ばし、舞い上げる。
クリームヒルデは次いで地面に手をついた。土魔術が発動し、えぐり取られた壁や床を修復していく。程なくして、その全てが元の綺麗な姿に戻った。
つい先ほどまでこの場にいたレイヴンという男。それは間違いないことのはずだ。しかし、その事実を示す証拠は何一つとして存在していなかった。ならばきっと、そんな男はこの世界に存在していなかったのだろう。その男の終わりを知るただ一人の人間がそう認識しているのだから、それが他ならぬ真実である。




