32 現実
サーラの部屋の扉をヘルマンがゆっくりと開いた。やはり体調は悪く、アレシャの肩を借りながらではあるが彼は自分の足で立ち、サーラに会いにやってきた。
そしてその部屋の中、窓際に置かれたベッドに彼女はいた。十年も寝たきりで、十分に身体を動かすこともできない。しかし彼女は確かに目を開け、ぼんやりと天井を眺めていた。
ヘルマンは声を上げそうになるが何とか抑え、ゆっくりとそのベッドへ歩み寄る。その姿にサーラも気づいたようだ。首を動かし、ヘルマンの方へ視線を向けた。
「お、兄様……?」
「サーラ……。サーラ!」
ヘルマンはもう抑えることができなかった。たまらずサーラに駆けより、彼女の身体をぎゅっと抱きしめた。身体を満足に動かすことができないサーラは、ただヘルマンに抱きしめられるままだったが、状況が全く理解できずにただただ目をぱちくりさせていた。
「お兄様?どうしたのですか?」
「ああ、いや、ごめんな。驚かせたよな」
ヘルマンは慌ててサーラから離れると、彼女の身体を再びベッドに寝かせた。そしてヘルマンの横にアレシャ、ライラ、ダリラの三人が並ぶと、サーラはその姿を不思議そうに見つめる。
「お兄様、私、いつの間にか大人になっているみたいなのですが、これは夢なのですか?それに、お兄様もなんだか少しおじさまになったような……」
「その話は、後でゆっくりとするよ。でも、これは夢じゃない。お前は今、悪い夢から覚めたところなんだ」
「夢……」
サーラはそう呟き、何かを思い出そうとするようにぼんやりと天井を見上げる。そして、アレシャとライラの二人へ視線を向けた。
「そちらのお姉様方は、お初にお目にかかると思うのですが……何故か、お会いしたことがあるような気がします。それにそちらのメイドのお姉様は、ずっと一緒にいたような気がするのです。ごめんなさい、変なことを言って……」
彼らはサーラのその言葉に少しばかり驚く。サーラは精神世界で会っただけのアレシャのことを覚えているようだ。それどころか眠っていた間、ずっと世話をしていたライラのことも覚えているというのだ。普通ならありえないと思うところだが、ダレイオスはいつか読んだ研究書に書かれていたことを思い出す。生物の記憶はただ脳に記録されるだけのものではない、という学説だ。ダレイオスが読んだそれは仮説の域を出ないものであったが、きっと真実だったのだろうと彼は思った。
自分のことをサーラが覚えていてくれたと知ったライラは、静かに身を震わせていた。彼女はサーラの役に立てるだけで十分だと語っていた。しかし、その献身はサーラの記憶に確かに残っていた。彼女の思いは、主人へ確かに届いていた。彼女にとってこれ以上に嬉しいことはない。ライラは、目の前の愛しい少女を抱きしめたいという衝動にかられる。しかし仕えている立場である以上、ライラはそれを躊躇い押さえ込んだ。そこで、俯くライラの肩をヘルマンが叩く。
「使用人だとか何だとか、今更気にすることじゃないだろう。抱きしめてやればいい。寧ろ、お前はそうするべきだ」
「ヘルマン様……。ありがとうございます」
ライラはヘルマンに恭しく頭を下げると、話が分からずに首をかしげていたサーラを優しく抱きしめた。ライラは涙を流しながら、サーラの身を大切に抱きしめた。それが今にも壊れてしまうのを恐れているような、柔らかな抱擁。しかし、彼女の積年の思いが強くこめられていた。
「サーラ様、本当によかった……。私は、私は……」
「どうしたのですか?どこか痛いのですか?泣かないで下さい……」
「申し訳ありません、いきなり」
「大丈夫ですよ、何かあったら私に言って下さいね。こう見えて、私は強いんですから」
サーラは腕を何とか動かすと、ライラの頭を優しく撫でた。サーラはライラが何者かも知らない。しかし、サーラはライラを安心させようと、声をかけ続けていた。ライラはそのまましばらく泣き続け、ヘルマンは椅子に腰掛けそれを暖かく見守る。アレシャとダリラはまた時を改めようと思い、そっと部屋を後にした。
それから二人はヘルマンとライラに代わり、サーラが目覚めたことをアルノーたちに知らせた。その報はあっという間に屋敷中に広まり、アルノーとリーンハルトは勿論、使用人たちも皆サーラの部屋へ押しかけようとした。しかし、それでは折角二人が空気を読んで部屋を出て行った意味がない。アルノーとリーンハルトには悪い気がしたが、彼らには一カ所に集まって待っていて貰うことにした。
それなりの時間が経って、アレシャがそろそろ様子を見に行こうかと思ったとき、全員が集まる大広間のドアがゆっくりと開いた。そこから入ってきたのは、ヘルマンを背負い、サーラの座る車いすを押したライラだった。全員がそちらへ視線を向け、その視線の全てを浴びたライラはぎょっとする。
「み、皆様、なぜここに……」
「サーラが目を覚ましたと、アレシャさんとダリラさんが伝えてくださってな。ただ、水を差すなと言われたから皆ここでお前達がくるのを待っていたんだ」
「そ、それは申し訳ありませんでした」
代表して答えるアルノーへライラは頭を下げるが、アルノーは気にしないでくれと言う。今はそれよりも大切なことがあるのだから。全員の視線がサーラへと注がれる。サーラもまた、彼らのことをじっと見つめていた。
「そちらのお二人は、もしかしてアルノーお兄様と、リーンですか?」
「……ああ、そうだ。久しぶりだな、サーラ」
「サーラ、元気そうで何よりだよ」
二人はサーラの前にしゃがみ込み、昔よりも大きくなった彼女のその手を握る。サーラはそれに穏やかな笑みを返すと、リーンハルトは感極まって泣き始めてしまった。アルノーは「しょうがないやつだ」と笑いながら弟の頭を叩いていたが、彼の目も少し潤んでいた。使用人達はそれを見守りつつ、サーラのことを知る者は同じように涙を流し、サーラのことをよく知らない者も兄弟の再会暖かい微笑みを向けていた。
その最中にアレシャはライラに負ぶわれたヘルマンを回収して椅子に座らせた。少し息が荒い。
「大丈夫?ヘルマンさん」
「ああ、悪い。体力が戻っていないのに少し無理をしただけだ。また後でちゃんとベッドに戻る。……それより、さっきの間にサーラには簡単に話をしておいた。頭のいい子だから理解は出来たようだが、まだ実感が追いついていないみたいだ」
「まあ、そうだろうねえ」
アレシャは頷きながらそう返す。サーラにしてみれば、目が覚めるといきなり十年後へ飛ばされたようなものなのだ。本人にしてみればあまりにも現実離れしている。と考えたが、アレシャはそこで一つ気になることがあった。
「そういえば、サーラさんは自分が襲われたときのことは覚えていないのかな。見たところ混乱したりもせずに落ち着いているようだけど」
「それだが、どうやらその通りのようだ。精神世界にいたとき、十年前の事件の恐怖を上書きしたことで、そのときの記憶も消えてしまったらしい」
「そうなんだ……。でも、それでよかったんじゃないかな」
アレシャはヘルマンにそう返した。精神世界に響いていたサーラの悲鳴。それを思い出しても、そのときの記憶がサーラの心的外傷となってしまう可能性は高いとアレシャは思った。恐怖の思い出など思い出せない方がいいのだ。しかし、ダレイオスは少し残念にも思っていた。
『サーラの記憶がなくなってしまったなら、サーラを襲撃した犯人が何者なのか分からなくなってしまったな。その人物の顔を目撃しているのはサーラだけなのだろう?』
「あ、あーそうかもね。でも十年前のことでしょ?今それが分かっても、と思うんだけど……」
『まあ、そうなのかもしれんが……』
ダレイオスは同意しつつも納得できていないようで、一人考え込んでしまった。何か考えがあるのだろうと思い、アレシャは難しい考え事はダレイオスに任せることにした。
「ヘルマン様」
そこにライラがヘルマンを呼ぶ声がする。彼女は車いすを押して近づいてくるが、そこに座るサーラは目をこすりながら何やら嗚咽を漏らしていた。三人はどうしたのかと慌てはじめるが、横についていたアルノーは大丈夫だと言う。
「さっき父上のことについて伝えただけだ。突然のことで受け入れがたいかもしれないが、言わないわけにはいかないからな。早いほうが良い」
アルノーはサーラの頭を優しく撫で、隣にいるリーンハルトもサーラの肩に手をおいて慰めると、サーラも何とか泣き止もうとグッと口を結んだ。
「リーン、が、泣いてないから、私も泣かない。……もう、だい、大丈夫」
「そうか、偉いぞ」
アルノーが微笑みながら、またサーラの頭を撫でた。ライラがハンカチを取り出しサーラの涙を拭うと、サーラは礼を言ってからヘルマンへと視線を移す。
「お兄様、私、お父様に、お会いしたいです。十年とかまだよく分からないし、凄く、凄く不安だけど、ヘルマンお兄様がいっしょなら、大丈夫だと思います」
「ああ、兄様が一緒に居てやる。大丈夫だ」
ヘルマンがそう言って椅子から立ち上がる。しかしそのとき、ヘルマンの足がガクリと折れてしまう。
「お兄様!?大丈夫ですか!?」
「大丈夫だよ。ちょっと疲れているだけだからな」
また泣きだしそうな顔になってしまったサーラを心配させまいとヘルマンは立ち上がるが、やはり上手く力が入らないようだ。ダリラが咄嗟に肩をかす。
「すみません、ダリラさん」
「いいのよ。少し失礼します」
ダリラがそう言ってヘルマンの額に触れると、その手に魔法陣が展開し魔力が迸る。すると少しずつヘルマンの足に力が戻っていくのが傍目にも分かった。
「私の魔力を流し込んで魔力の流れを整理しておいたわ。多少は楽になったはず」
「ええ、ありがとうございます」
ヘルマンは礼を言うと、アルノーへと視線を送った。彼はそれに頷くと、集まっていた使用人達に礼を言い、仕事に戻って構わないと告げる。使用人達は了解して、サーラに一言ずつ言葉をかけて部屋から立ち去っていった。残されたヘルマンら兄弟とサーラ、ライラ、アレシャとダリラの七人は揃って部屋を出て目的の部屋へと向かう。
父、ダミアンの部屋。サーラの望み通り、ダミアンの望み通り、二人を対面させなければならない。移動している間、サーラは口を真一文字に結んだままで、どこか緊張した面持ちであった。それを見たヘルマンが妹へ向けて手を差し出す。サーラはその手をぎゅっと握って僅かに微笑んだ。
「失礼します、アルノーです」
到着したダミアンの部屋のドアを、アルノーがノックする。中から姿を現したのは、アルフレッドだ。サーラの姿を見た彼の目には、みるみるうちに目に涙がたまっていったが彼はそれをせき止め、アルノーたちを部屋へ招き入れる。
「アルノーか……。どうかしたかね」
「遅くなりましたが、待ち人をお連れいたしました」
「待ち人……」
ダミアンが呟くと、ライラがベッドの脇まで車いすを押していった。アルノーに支えられてダミアンが何とか身体を起こす。すると彼の目に、最愛の娘の姿が映った。
「お父様……」
「サー、ラ……。ああ、サーラ……!」
ダミアンが震える手をサーラへと伸ばし、その頬にそっと触れた。サーラもまた力を振り絞って、その手を優しく握る。
「私はあまり実感がないのですけど、お久しぶりです。……ご心配をおかけしました」
「よいのだ、そんなこと。どうでもよいのだ。お前と、こうしてまた話ができることを、私は、私は、どれだけ待ち望んだことか……!ああ、サーラ!」
ダミアンはぐっと身を乗り出し、サーラを抱きしめた。アルノーが慌てて支えようとするが、それも必要ないほどにダミアンは力強く娘を抱きしめた。
サーラにとっては、父と触れ合った記憶はそれほど前のものではない。だからこそ、彼女は実感してしまう。見る影もなくやせ細ってしまった父の身体が、震え冷え切った父の身体が、実感させてしまう。その死が、すぐそばまで迫っているということを。
「お父様、死んじゃうのですか?サーラを置いて行っちゃうのですか?どうして?」
「……すまないな。もっと早く目覚めさせてやれれば、こんな急なことにはならなかったのに」
ダミアンが謝罪するが、サーラはそうじゃないと首を振る。
「そんなのいい、お父様がいてくれればいい!また一緒に遊びに行きたいです!この前、海に連れて行ってくれるって約束してくれました!それに、今度のお誕生日におっきなぬいぐるみ買ってくれるって約束してくれました!お父様、約束やぶるんですか!」
「……すまない、サーラ。すまない」
涙を流しサーラは訴えるも、ダミアンはただ謝ることしかできなかった。サーラは嫌だと首を振る。そんなこと聞きたくないと泣き叫ぶ。しかし、ダミアンは謝りつづけるしかなかった。もうどうしようもないことなのだから。
その光景を見たアレシャはサーラに強く共感し同情する。アレシャにとっても、父の死は突然のものだった。その訃報を持ってきたランドルフにアレシャはひどい暴言を吐き、ごめんねと謝る母を何度も何度も叩いた。ずっと「なんで、どうして」と問い続けていた。そして結局アレシャはその死を受け入れられず塞ぎ込んでしまうことになり、トラウマとして心に深く刻まれることになった。
今、サーラはかつてのアレシャと同じ道を辿ろうとしている。その死をしっかりと受け入れることは絶対に必要なことだとアレシャは知っている。だから、見ているだけなんてできなかった。
「サーラちゃん」
アレシャは子どもに話しかけるような柔らかな声音で語りかける。サーラは少女というより女性という見た目にまで成長しているが、彼女の心はまだ八歳のままなのだ。サーラはアレシャの呼びかけに気づき、しゃくり上げながらアレシャを見つめた。
「サーラちゃんはお父さんのこと、好き?」
「……うん、大好き、です。お母様は、ずっと前に死んじゃったから、お父様が、ずっと、私と一緒にいてくれたんです」
「……でも、お父さん泣いてるよ?」
「え?」
サーラはそのとき初めて、ダミアンが自分と同じように涙を流していることに気づいた。慌てるサーラは「どうしたのか」と尋ねようとしたが、その原因が自分であることに気づく。
「ごめんなさい、お父様、私、ワガママ言って……ごめんなさい」
サーラは涙をぽろぽろと落としつつ父親へ謝る。サーラは自分の思いを押し殺そうとしていた。しかし、アレシャはそれでは駄目だと思う。本当の意味で父の死を納得できなければ、それを受け入れたことにはならない。
「サーラちゃん、違うよ。お父さんが泣いているのはサーラちゃんがワガママを言うからじゃない。サーラちゃんが泣いているのが悲しくて泣いてるんだよ」
「なに、どういうことですか?」
サーラが首をかしげ、アレシャに尋ねる。アレシャはサーラの頭に肩に手を置いて、その目をまっすぐに見つめた。
「……お父さんはね、確かにもうすぐ死んじゃう。凄く長い長い旅に出るの。でも、それは皆おんなじなんだよ。皆いつかは絶対に旅に出るんだよ。お父さんはそれが少し早かっただけ」
「でも、もう会えなくなっちゃうんですよね?」
「そう。だから、お父さんはサーラちゃんが全然見送ってくれようとしないことが悲しくて泣いているんだよ」
アレシャにそう言われて、サーラはもう一度父の方へ視線を向けた。アルノーに支えられてダミアンはベッドに腰掛けると、アレシャの話を聞いていたようでサーラへと静かに語りかける。
「アレシャさんの言う通り、私はもう行かなくちゃいけない。だから私はどうしてもお前に見送って欲しくて、アレシャさんにお願いしたんだ。お前が見送ってくれるだけで、私は長い旅を頑張れる」
「お父様は寂しくないのですか?」
「寂しくないさ。お前達が覚えてさえいてくれれば、私は寂しくない」
ダミアンが淀みなくそう答えた。しかし、サーラは「でも」と返す。ダミアンが寂しくなくとも、自分は父親に会えなくて寂しい。そう言いたげだ。アレシャがそこで再びサーラへ語りかける。
「サーラちゃん、いいことを教えてあげる。皆の心の中にはね、もう一つの世界があるんだよ。そこには自分の大好きなものとか、思い出とか、色々なものがあるんだよ」
サーラはアレシャの話に耳を傾けていた。そんなものが本当にあるのかと疑わしくも思う。その疑念を察したヘルマンがサーラの頭をくしゃりと撫でた。
「本当だとも。兄様はその世界に行ったこともあるんだぞ。だから、そこには父様もずっといてくれる。サーラが父様のことを忘れたりしなかったらな」
「そんなの、忘れるわけないです!」
「だったら大丈夫だ。父様はずっと一緒だ。それに、父様だけじゃない。俺も、アルノー兄様も、リーンも、皆一緒だ」
ヘルマンは腰をかがめてサーラに目線を合わせ、笑顔を浮かべた。サーラは周りを見回すと、アルノーもリーンハルトも、ライラとアルフレッドも優しい笑顔を見せた。そして最後にダミアンへ視線を移せば、ダミアンもまた穏やかな笑顔を見せ、サーラへと手を伸ばす。
サーラは笑顔を浮かべることはできなかった。しかし、涙は止まっていた。ダミアンの手をしっかりと握り、よろよろと立ち上がる。そして一歩一歩父親へと近づき、今度は自分からダミアンの身体を抱きしめた。
サーラが父の死という現実を受け止めるには、まだ時間がかかるだろう。だが、この話がそのための足がかりになれば、アレシャにとってはこの上なく喜ばしいことであった。




