29 サルビアの花畑
赤い雨が降り続く。拭いても拭いてもすぐに水滴がついてしまうので、眼鏡が使い物にならなくなってしまっていた。ヘルマンは鬱陶しそうに眼鏡を外して懐へしまい込むと、びしょ濡れの顔を拭って後ろを付いてきていたライラへ向き直る。
「よし、ここらでいいだろう。始めよう」
「かしこまりました。……ですが、具体的に何を?」
「苦しいときは楽しいときを思い浮かべればいい、ということだ」
それは具体的な話なのだろうか。サーラはそう思うが顔に出ていたようで、ヘルマンは改めて具体的な方策を説明する。
「ここはサーラの精神世界。言わば心の世界だ。だが周りを見ての通り、サーラの心には何も残っていない。恐怖に蝕まれ、他に何も考えられなくなっているんだ。だから、そこに安らぎを与えてやる」
ヘルマンはそう言って手に魔法陣を展開した。丁寧に魔力を練り上げていき、解き放つ。魔法陣から溢れ出した冷気は空気を凍てつかせ、巨大な氷塊を作り上げていった。ライラは生み出されたそれを見て目をしばたたかせる。
「これは、ダミアン様のお屋敷ではないですか!」
ヘルマンが作り出したのは、氷でできたヘルマンの実家、ダミアンの屋敷の建物であった。大きさや細工には微妙な差異があるが、紛れもなく屋敷そのものである。ヘルマンはその出来に満足して頷くと次の魔法陣を開く。そこから放った冷気によって屋敷の庭園までも再現された。その庭園には先ほど見たサルビアの花も咲かせてある。休むこともなくヘルマンは両手に次の魔法陣を展開。またしても巨大な建造物が出現する。それはつい先ほど見たはずの建物、サーラが通い詰めていたという図書館だ。
そこでライラも、ヘルマンが何をしようとしているのかに気づいた。この世界に踏み込んだときに見た、数々の建物。それは間違いなくサーラの思い出を表していた。しかしそれは皆、荒廃しきっていた。それはサーラの恐怖心が楽しい思い出を、心の安らぎをかき消してしまっているということを表していたのだろう。だからヘルマンは、自分とサーラとの思い出を、再びこの精神世界に再現しようとしているのだ。苦しいときこそ、楽しいことを思い浮かべる。そうすれば、人の心は安らぎを得られるはずだ。それが慕っている兄との思い出であるなら、尚更だ。
『お屋敷……、お庭……、図書館……』
二人の元へサーラの声が届いた。ヘルマンの作った氷像はしかと、彼女の心に届いていたのだ。手答えを感じたヘルマンは小さくガッツポーズをすると、口を開く。
「サーラ!覚えているか!庭でよく一緒に本を読んだよな!絵本も、図鑑も、魔術書だって一緒によんだ!新しい本を探して図書館に行くのが、大好きだったよな!」
『ご本……うん、読みました。ヘルマンお兄様と一緒に、一緒に……』
サーラが落ち着いた声でそう呟く。しかしそのとき、周囲にドクンと何かが脈動する音がした。それにヘルマンはねばりとした嫌悪感を覚えると、彼らの頭の中に絶叫が響いた。
『あああああああああああああ!いやあああああああああ!』
「!?サーラ!サーラ!」
「サーラ様!」
心臓を掴まれるような叫び声へ向けてヘルマンとライラが必死に呼びかける。しかし、その声は届かず、サーラは苦しみ叫び続けていた。何かがサーラの心への干渉を妨害している。そう察したヘルマンは、極めて邪魔なその存在に舌打ちする。
「これも『深淵術式』の影響か……。これでは俺の声も……」
「ヘルマン様!前方左にご注意願います!」
ライラが警戒を呼びかけた先からずるりと何かが伸びる。それは植物の根のように見えた。事前にそれを察知していたライラが鎖を投げ、ヘルマンへと伸びるそれを断ち切る。しかし、そこからは根に続いて茎、刃のように鋭いハート型の葉、そして美しい花弁が姿を現した。その火のような赤い花弁には二人とも見覚えがある。サルビアの花だ。しかし、目の前にあるそれはあまりにも巨大。魔物という他なかった。
「どうやら、さっきのウサギと同じだな。サーラの拒絶の意志が具現化したものだろう。相手をしている余裕などないというのに……!」
ヘルマンは歯がみしサルビアの魔物へ向けて魔法陣を展開するが、彼の目の前にライラが立ちふさがった。
「ヘルマン様はサーラ様をお救いになることに集中してください。これの相手は私が」
「いや、お前だけでは無理だ。まずはこいつを……!」
「確かに倒すのは無理かもしれませんが、ヘルマン様がサーラの心をお救いすることができれば、この魔物も襲ってく来なくなるのでしょう?ならば優先事項は決まっております」
そう言ってライラは鎖を構える。そこへ魔物の根が鞭のようにしなり襲ってきた。しかしライラはその軌道を完全に読み切り、見事にかわした。しかし、次の攻撃が立て続けに襲い来る。だがそれもライラは難なく退けた。そして鎖を投げ魔物の根の一本に巻き付けると、ねじ切るようにして引き千切る。
素晴らしい動きを見せるライラだが、その目は、右は水晶に、左は真っ黒に変容していた。水晶の目については先ほどアレシャから聞いたが、黒い目についてはヘルマンは知らされていない。だが、ヘルマンはそれについての項を本で見たことがあった。
『ワクト』。視界に移るものの未来、あるいは過去を見ることが出来るという目を持つ亜人である。先ほどからのライラの予見したような動きから考えてもそれに間違いないだろう。ということは、ライラには『ナザル』と『ワクト』という二種の亜人の血が流れているということになる。ヘルマンはさすがに驚きを隠せないが、ライラなら時間稼ぎならば十分にこなしてくれるはずだとヘルマンは思った。なんせ、彼女には少し先の未来が見えているのだ。相手の攻撃を読むことなど造作も無い。だからヘルマンはライラへ呼びかける。
「ライラ!必ずサーラの心を助ける!それまでこいつの気を引いていてくれ!よろしく頼む!」
「かしこまりました」
地面に下りたったライラはヘルマンへ深々と頭を下げる。その彼女の下げた頭のすぐ上を魔物の根が勢いよく通り過ぎていった。「さすがだな」とヘルマンは苦笑しつつ、再び氷魔術の魔法陣を展開する。精巧な術の操作で次に作り上げたのはヴォルムスにある別宅だ。その隣には小さな建物も建てられていた。ヘルマンは再びサーラへ向けて呼びかける。
「ヴォルムスの別宅、父上がお仕事でヴォルムスを訪れるとき、いつもついて行っていたな!お前は近くの店で飲む紅茶が大好きだったよな!」
『ヴォルムス、お父様……う、あああああ!』
サーラはまたしても苦しみ叫ぶ。『深淵術式』の妨害だ。これでは何か手を打たねば、いつまでもサーラへ声が届かない。
そこへ不意に植物の根が飛んできた。ヘルマンは慌ててそれを避けるが、これまで作ってきた氷の建造物が全て粉々に砕け散ってしまった。
「申し訳ありません、お怪我はありませんか!」
「大丈夫だ。すまないがもう少し引きつけを頼む」
「かしこまりました」
花の魔物は根をうねらせ、ライラに狙いを定める。ライラは魔物の懐へ駆け込み、持ち前の目を活用してするするとそれを避けていき、根の一本に鎖を突き刺すと、鎖をめいっぱい伸ばした。
「数が多いものは一つにまとめるのが掃除の片付けの鉄則、です!」
再びライラを狙って根が伸びるが、ライラはそこを狙って鎖を力一杯引く。すると鎖が幾本もの根を一つに縛り、締め上げた。魔物は根をゆすり鎖を振り払おうとするが、ライラは力を振り絞って鎖を引きそれを許さない。しかしその表情はかなり切羽詰まっているようにヘルマンには見えた。金属の鎖を軽々と振り回して打ち込んでいるあたりパワーには自信があるようだが、これだけ大きな魔物を長時間拘束し続けるのはさすがに難しいだろう。ならば、ライラが作ってくれたこの機会を殺すわけにはいかない。ヘルマンは頭を働かせる。
「サーラに俺の声は確かに届いている。なら、この方針は間違ってはいないはずだ。問題は『深淵術式』による妨害だ。これさえ何とかできれば……。いや、考えるよりも行動に移すべきか!」
ヘルマンは自分の右手を握りしめ、地面についた。魔術によって形作られたその手は、自らの力を振り絞るような強い光を放った。白い光は周囲に散らばり、粒子をまき散らし、一点に収束していく。やがて粒子は大きな光の塊となり、建造物を作り上げていった。そしてそこに再び築き上げられたのは、純粋無垢な輝きを放つ、アレシャとヘルマンの思い出の図書館だ。心へ染み入るような光が、暗い精神世界を照らす。
「まだだ、まだ足りない!」
ヘルマンは更なる魔力をこめ、右腕の光を強くする。光の粒子は次々と収束していき、サーラとの数々の思い出が蘇っていく。ヴォルムスの別宅、紅茶の美味い喫茶店、ヴォルムスで見て回った美術館、ベータ王国観光で見学した博物館。それ以外にも思い付く限りの光り輝く思い出を、ヘルマンは対禁術魔術を用いて作り上げていく。この魔術は、ヘルマンがそれを用いて自らの腕を形成しているように自在に形を変えることができる。故に、氷の彫像よりも更に正確に自身の記憶にある場所を生み出していった。効果があるかは定かでは無いが、これならば、禁術である『深淵術式』の妨害を受けない可能性にヘルマンは賭けたのだ。
しかし突然、ヘルマンは強い目眩を覚えた。ガツンと殴られたかように脳が揺れ、立っていられなくなる。その場に膝をつき嘔吐した。突然のことに戸惑うも、その原因はすぐに分かった。魔力切れだ。魔術を用いて巨大な建造物をこれだけ作り続ければ当然のことであるのだが、ヘルマンにはそれに気づけるだけの余裕が無かった。自分の見通しの甘さに苛立ちを覚える。
ヘルマンは顔を上げ、ライラへ視線をやる。まだ彼女と魔物との力比べは続いていた。しかし、魔物が根をゆするとライラの鎖は少しずつ引っ張られる。いよいよ限界が近いように見えた。ならば、ヘルマンも泣き言を言ってはいられない。使命感につき動かされた彼はヨロヨロと立ち上がり、雨に濡れた顔を袖で拭う。そのとき、ヘルマンの頭に僅かな可能性が思い浮かんだ。考えるよりも早くそれを試さんと、彼は足元の赤い液体にバシャリと手をついた。残る意識をかき集め、右手に集約させる。
「ダレイオスの勘が正しいかどうか、頼むぞ!」
ヘルマンが祈るように魔術を発動する。発動に用いようとしているエネルギーは自らの内にある魔力ではない。用いんとするのは、精神世界に来てからずっと纏わり付いている大量の赤い液体だ。先ほどウサギと戦っていたとき、ダレイオスが何気なく口にした推測。この赤い液体が精神世界における膨大なサーラの魔力を表している、という推測。それをヘルマンは思い出したのだ。それが彼に残された最後の可能性だった。
「サーラ、思い出せ!お前は一人じゃない!兄上もリーンも、父上も!俺もついている!お前は強い子だ、そんな禁術に負けはしない!」
ヘルマンが力一杯叫ぶ。それに呼応するかの如く、光の波動がヘルマンから赤い液体を伝い広がっていった。血の赤は透明な白へと変わり、精神世界中の赤い海を美しく染め上げる。そして地面から次々と何かが生み出されていった。それは、全てが白く輝くサルビアの花だ。視界に映る全て、余すことなく一面に白いサルビアの花畑が咲き誇ったのだ。その美しさにライラは思わず目を奪われ、鎖を握る手が緩んでしまう。
「しまっ——」
ライラは自分の失態に慌てて気づき鎖を握り直す。が、その必要もなかった。花の魔物は抵抗の意志をみせず、その場でただ止まったままだったのだ。ライラは戸惑いながらヘルマンへ視線を向けると、彼は再び右手から魔術を発動させ、光の粒子を生み出す。一点に集まりそれが形作るもの、それはダミアンの屋敷、彼らの生家だった。
「サーラ、もう大丈夫だ。兄様がずっと一緒にいてやる。それなら怖くないだろう?だから、帰ろう」
またしてもドクンという音が聞こえる。『深淵術式』がサーラの心に干渉しようとしていた。しかしそのとき、それに対抗するかのように一面のサルビアの花畑が一際強い光を放つ。それはまるで精神世界中に、ヘルマンたちの心の中にまで浸透するような心地よい鈴の音。それに浄化されるが如く、不快なその音はだんだんと薄れ行き、そして完全に聞こえなくなった。
その光がじんわりと空へ解けていくと、ヘルマンは花畑へ手を伸ばす。すると、その中から伸びた小さな手がそれをしっかりと握った。ヘルマンがその手を引くと、少女は横たえていた身を起こし立ち上がった。彼はそのまま少女の身を優しく抱きよせ、少女もまた兄の身を抱きしめ返す。そしてサーラは、全ての憂いから解き放たれた柔らかな笑顔を浮かべた。




