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1899年10月 清国 北京 2/2

 2人でしばらく話し込んだ。

彼女、シルヴィーは外交官の父とともに半年前、清国に来ていた。ボリスは今年の4月にこの地に赴任しているため滞在期間はシルヴィーのほうが長い事になる。ちょっとした旅行気分で清国に来て、観光だけして帰ろうとしたものの、安全のために一人で先に本国へ返すわけには行かないと家族に言われしぶしぶ北京のフランス人居留区に住んでいるらしい。

 話しているとボリスは以外にも彼女の趣味が自分と合っていることを感じた。ボリスはフランス文学をロシア文学のように愛していたし、シルヴィーはロシア文学をフランス文学のように愛していた。ボリスは初めて、トルストイの作品において同じ価値観を持つ人と巡りあうことができたし、シルヴィーは初めて何の気兼ねもなく自分のヴィクトル・ユゴーの評価を話すことができた。

会話は弾んだ。


 実はこの時、ボリスのしらない所でロシア外交団と日本外交団の間で一悶着あったらしく、世界に両者の対立を印象立たせる物となった。

途中、アメリカとイギリスの外交団が仲介に入って両者が事なきを得たあたり、歴史の宿命的なモノがかいま見える。



 銅鑼が会場に鳴り響いた。そして清国の役人が仰々しくこう言う。

「李鴻章閣下のお目見えである」

すると壇上に中華式の正装を着たかっぷくのいい老人が現れ、会場のひとびとに挨拶を行った。清朝最後の忠臣であり功臣、東洋のビスマルクこと李鴻章が、国家の命運をかけて今、この壇上に立っている。

 少し前、対日戦で清は簡単に敗れた。眠れる獅子と目されていた清はその獅子の称号すら張り子であることが知られたのである。そうなれば列強諸国が清への要求を増やすことは目に見えているし、実際に圧力は高まっていた。その状況を打破するためには、いま一度清のもつ国力や技術、人材を列強に見せびらかし、まだ清国が終わってないことを見せつけなければならない。


 今回の晩餐会はそのためのものだった。少なくとも清国にとっては。

しかし列強としては清国に底力は無いことなどとっくにわかっている。問題は今後の中華大陸の切り取りをどう決めていくか、と言うことを諸外国と協議することにある。その外交戦の前哨としてこの場は存在していた。

 ただ列強も李鴻章の能力には一目置いていた。彼が刺し違えてでも清を白人と日本人から守る立場を取るのであれば面倒なことになる。ただでさえいま清国の国内情勢は不安定で、いつ清国人が爆発的に反抗し、列強が中華大陸に持つ利権を脅かさないか心配されている。できればなるべく穏便に植民地化を進めたい、というのが列強各国の思惑だ。


 いや、その表向きな思惑すら嘘なのだ。表向きはそうあしらっているが、列強は清国で一種の動乱が起こることを期待している。いま彼らが欲しているものは清国を攻撃するための大義名分だった。

清国の民衆が蜂起して清朝ないし外国人を攻撃する事態が起これば列強は清国に居住している自国民の保護を理由に大軍を清国に進駐できる。反乱を征討したあとは成果報酬として清国政府に巨額の賠償や領土割譲を申し立てることができる。それまでに多少の犠牲は出るだろうが、得られる対価は十分に確保され、儲けが出る算段だ。

 そのために各国の清国への要求は際限のないものになるだろうが、清朝にそれをとめる力は残されていない。もはや自分の力ではどうしようもないのだ。260年続いた帝国の統治秩序は崩壊しきっており、反乱の鎮圧を行うことすら満足にできなくなっていた。

 これが列強諸国(コンサート・オブ・)外交(パワーズ)である。

この当時、例えるなら列強は非情で、したたかで、しかし身を覆う毛皮だけはとても美しい獣といえる。

帝国主義時代、列強の外交官と軍人が最も輝いた時代だ。




 晩餐会は終わった。

メインステージで繰り広げられた外交戦などつゆ知らずにボリスとシルヴィーは語り合っていた。話題は文学にとどまらず、北京での生活のことやそれぞれの故郷のこと、ボリスの士官学校時代にあった珍騒動のこと等、様々なことを話した。長く話した2人は別れ際、冗談交じりに連絡をとりあうよう約束したりもした。 

 この時、ボリスはこの約束を大した物とは思っていない。連絡と言ってもいつ本国に帰るだとか、その時の所在を伝える程度だろうと考えた。しかしひょっとすると彼女の紹介でフランス人が主催する会に招待されるかもしれない。まあフランス人だらけのところにロシア軍人が一人ぽつんと立っていてもしょうがないから、その時は適当な理由をつけて丁重に断らせていただこうと思った。

彼のこういった考えがあるため、彼が駐在武官として適役ではないことがわかる。


 「あなたのことをボリスと呼んでいいかしら?」

シルヴィーがそう言った。ボリスは少し考えてから冗談っぽく

「それは、私があなたのことをマルゲリットさんとではなく、シルヴィーと呼んでいいのでしたらね」

「あら、いいわよ?」

「・・・・ええっ?」

明らかにボリスは困惑した。彼は全くの冗談のつもりだったし、彼女が最初に提案したことも彼女なりの別れ際の冗談だと思っていた。だが彼女の様子を見る限りそうではないらしい。

「じゃあ、約束だから、またいつか会いましょ」

「あ、はあ、またいつか」


そう言って2人はわかれた。

ボリスの脳内に、とてつもない衝撃を残して。

その衝撃を発生させたのはシルヴィーが最後に放った一声




   「あ、そうそう、後でちゃんと手紙、書いてね?」



 ボリスは女性に対してあまりに無知である。かと言って彼は独身主義ではないし、本心は女性のぬくもりに飢えていた。しかしその本心を彼は静かに自分の心の中に封じ込めていた。封じ込めていることに自分が気づかないほどに。

 彼に言わせてみれば現状、彼が女性から魅力的に見られることは理論的にありえないという。なぜなら、生まれ持った体格や顔、性格などはさておき、自分が女性に振り向いてもらうための努力を怠っているからだとしている。何も行動せずとも女性が振り向いてくれるほどの外見でないことは彼自身理解している。

といより、たいていの男はそうなのだ。女性に振り向いて貰う方法はただ一つ、振り向いてくれるための努力に努力を重ねることだ。それ以外にはない。だから恋愛をできる男とできない男は、そういった努力をなんとも思わない男かどうかで決まると言っても過言でない。

 ボリスは後者だった。しかし仮に前者であったとしても軍人という拘束された人生の中で恋愛に至る努力を行うことができるか、という疑問が残るし、ひょっとすると曲がりなりにも貴族の出自である彼にはそういった努力は必要ないのかもしれない。


 とにかく、彼はこれまで恋愛に至るまでの努力を怠ってきた。そのことは自分が一番理解していたからこそ、今日知り合った、かのフランス生まれのマドモアゼルは、純粋に自分との話を楽しまれたのだと考えた。そこには恋愛感情はもちろん、それに至るまでの起爆剤的な感情も存在し得ないと踏んでいた。なぜなら自分は彼女に恋愛対象として認識されるための努力を何ひとつしていないからだ。

だから彼もそうあるべき態度で彼女に接した。女々しいと思うかもしれないが、変に期待などしてしまって自分だけがその気になったまま、相手から明確な拒絶が発せられるのが怖かったのだ。


 しかし彼女との会話はボリスの想像するようにはならなかった。別れ際、彼女は「またいつか」と言った。文章の意としては"また機会の巡り合わせがあれば、そのときまた会いましょう"という意味があるが、はたしてその意味を遂行することを前提とした用法はあまりない。少々理屈っぽくなるが、この言葉には普通相手に対して別れ際に、"もう会うことはないでしょうが、もし今一度会うことができた時にはどうぞ宜しくお願いします"と言った意味を込めて使われることが多いのではないだろうか。

 しかし彼女が放った「またいつか」、とはそんな悲しい使い方ではなく、文章そのままの意味よりずっと早い時期にかつ、何回でも会おうという意味がこもっていた。なぜそう言えるのか、「またいつか」と言うより前の会話を見ていくと、ボリスのことをファーストネームで読んでいいかと聞いていること、これから文通をしようといった2つの発言からそう言える。端的に言うとシルヴィーはボリスとの交友関係を維持したいと考えていることがわかる。いや、交友関係というような生易しいものではなく、これは明らかな恋愛感情を含んだものだ。ファーストネームで呼び合うのはまだしも、冗談で終わるつもりだった文通までするとなるとこれはタダ事ではない。


 大使館に帰って以降、ボリスも薄々感じてはいたが、どうしても信じられなかった。なぜ自分があのような綺麗な人に好意を持ってくれるのか、理由がわからずかえって気味の悪さすら感じた。ひょっと何か裏で自分の知らない大いなる闇が動いているのかもしれないと被害妄想じみた考えまで浮かんだ。それほど今回の出会いは彼の人生において衝撃だった。


 ともかく彼はシルヴィーと出会ってしまった。この出会いは彼の生涯を大きく転換させる決定的なものになるが、同時に彼の人生最大の危機的状況を作る主要因になる。彼にとってはこの事実のほうがより重要な意味を帯びるかもしれない。


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