1899年10月 清国 北京 1/2
1899年10月 清国 北京
はたしてその日が来た。今、ボリスを含む駐清ロシア外交団は華やかな宴会の席にいる。さすがはアジア最大の帝国とあって豪華絢爛だ。いかにも東洋風な建築様式で外の庭園と繋がる会場に料理がならび、部屋の中央に人工池が作られたりしていて中華文明の集大成を魅せつけている。しかも床は一面がレッドカーペットになっており、その赤はアジアの夜と絶妙な調和をはたしている。
ロシア大使のスチェパン・スヴォロフという男は正にロシア人と言った感じの大男で何事も豪快にこなす性格で行動も機敏だった。この日も自慢のカイゼルひげを触りつつ、いろいろな外交官のもとへ行き、酒を交わし合いつつ談笑していた。彼は列強の外交官として無駄な行いを一切しない人で、清国人とは一切話していない。彼の目にはロシアの敵に足る国、つまり欧米列強の外交官しか見えていなかった。
「支那人の酒は面白い味だ!ボリス君!君も飲みたまえ!」
スヴォロフは気さくにボリスに話しかける。骨の髄からロシア愛にあふれるこの男は部下であるロシア人達に対しても良い親父の様な存在であろうとしている。だからボリスも彼のことをよく思っているし、それは駐清ロシア外交官の総意と言えるだろう。
「ボリス君、見たまえ」
新しい酒を入れたグラスを手に取りながら、スヴォロフがボリスにある外交団の一団を見るよう言った。彼らの視線の先にあるのは日本人達だ。
「かつて我々が敵と呼ぶべき唯一の有色人種はトルコ人だった」
「はい」
「だがトルコ人を下した今、我々の敵はあの薄汚いサル達なのだ」
「サルに取って代わられるとは、有色人種の威信も落ちましたね」
「ハッハッハ、相変わらずおもしろいことを言うなあ」
「挨拶をしに行かれないのですか?」
「まさか、するわけなかろう」
「しかし向こうの考えを確かめるにはいい機会なのでは?」
「うむ、それはボリス君、君が戦争というものが何かと言うことを結局知らぬからそう言えるのだよ」
「はあ、しかし彼らと我々は戦争をしているわけでは・・」
「それだよ、戦争の始まりは宣戦布告か、あるいは武力衝突の時点で起きるものだという考え、それが間違っているのだよ」
「うーむ、おっしゃることがわからないわけでは無いですが」
グラスを口に一口つけてからボリスは続けて
「・・彼らはロシアと戦争する気があるとは到底思えませんな。やれば確実に負ける勝負を進んでしようだなんて、いくらなんでも無茶ですよ」
「ハッハッハ、そうだな、その通りだ」
スヴォロフは飲み干したグラスをテーブルに置き、続けて
「しかし、世界のいざこざは、その無茶をいつの間にか実現可能にしてしまうほど大きな起爆剤になるものだ」
この当時、普通のロシア人は日本人が自分たちに牙をむくなど考えられなかった。戦争が起こるとすればそれはロシアが日本に対して宣戦布告するシチュエーションしか想定されておらず、ロシア皇帝ニコライ2世をして「戦争は起こらない。なぜなら朕がそれを望まないからだ」と言わしめていたほどだった。
ボリスは駐在武官としてスヴォロフ大使の身辺警護をするべきだったかもしれないが、程なくして大使の足の早さに彼がどこにいるかわからなくなってしまい、仕方なく一人で今日の晩餐会を見て回ることにした。
途中フランス語ではなしをする一団に混ざって談笑したりした。こういった限定的な時でないと自分の特技を活かせないのは歯がゆいもので、それを経験したものだけが知るところである。ただ心配だった自分の社交スキルはどうも衰えていなかったらしい。余談だが彼が会話に混ざった一団の話題は今年からまた始まったボーア戦争での、イギリスの連戦連敗の体たらくへの陰口だった。
ボリスは一人でワインを飲みながら、一見珍妙な劇を見ていた。聞くところによればこれは京劇という中華の伝統的なオペラらしい。劇の題目や役者の言動は分からないが、そのエキゾチックな風景がなんとなく気に入り、しばらく見ていた。
途中、イギリスとオランダの外交官が京劇を見て「見ろ、あれがアジアのオペラだとさ、おもむきも何もあったもんじゃないなハッハッハッハッハッハッハ!」と、なんとなくだがそういったニュアンスの英語を聞き取った。どうやらイギリス人とオランダ人は目につく舞踏劇はすべてオペラに見えてしまうほど目が悪いらしい。お気の毒に。
環境の悪い北京でもここは過ごしやすい。
庭園とつながっている会場は外気の涼しい空気に覆われていて、周りの会話がすこし騒がしいが、それも悪く無いと思えた。
少し風が吹いた
なにか始まりでも告げるかのように
そんな時
「いいかんじね、ねぇ?」
一人の女性がフランス語でそうボリスに言った。
いつの間にか女性は彼の隣に来ていた。
はじめボリスは人違いでもしたんじゃないかと思ったが、目を合わすと女性は自分をはっきり見据えていて、どうも人違いではなく、さっきの言葉は自分に対してのものだと知った。
「やあ、どうも、その通りで」
とりあえずそう答えた。答えるあいだにボリスは女性の容姿を見た。端的に言えば、若く、美しく、どこか理知的な女性だった。長く、綺麗な銀髪の髪をおろし、彼女を見た誰もがいい心地になりそうな微笑を浮かべ、ボリスを直視している。
「あなた、こういう劇は好き?」
女性がこう続ける。
「いやあ、特別好きとは言えませんが、こう異国の文化に触れるのは何でも好きかもしれません」
「そう、ならよかった」
「どうしてです?」
女性は一瞬間を置いて、
「フランスの女のくせに"オペラ"がわからないなんて知られたら恥ですもの」
そうわざと声を大にして英語で言った。イギリス人とオランダ人は萎縮した。なかなか度胸のある人だとボリスは思った。
「そうそう、自己紹介が遅れたわね、私はシルヴィー・マルゲリット、あなたは?」
「ええと、ゴホンッ、ロシア帝国海軍中尉、清国駐在武官のボリス・アレクセーエヴィチ・バルトと申します」
「ボリス・バルト・・フランス系?」
「はい」
「そう、なら、より仲良くなれそうね」
「はは、どうもそのようで・・」
なにやら不思議な女性だ。
そもそもなぜ自分がフランス語を話せることを知っていたのか。
まだ若い外見をしているがどこかの外交官の夫人ではないのか、だとすればこんな所で自分なんかと話していてもいいのだろうか。
様々な憶測がボリスの中で飛び交っていたが、目の前の女性の美しさに思考が働かず、うまく質問できないまま相手の話に受け答えるだけになっている。
この時、正直に告白すると、たったこれだけの会話を交わすだけでボリスはガチガチに緊張していた。彼の半生において女性の存在は多くない。人生の青春、その大半は士官学校と海軍の厳しい環境で使い潰してしまっていた。ましてや見ず知らずの女性に声をかけられ、社交的な会話をするなど今まで夢にも思わなかった。だから自己紹介の時もこの場においては必要ないくらいかしこまった物言いになってしまった。
華やかな世界が広がっている。ヨーロッパ諸国の絶頂期がここに結集されていた。世界は彼らのものだった。彼らに怖いものはなかった。そんな雰囲気が北京の一角に花咲いていた。そのさらに一角、2人の男女が周りの喧騒から離れ、静かに、しかし確実に互いの意思をしっかり通じ会いながら会話の花を咲かせている。