八話【無力の逃走劇】
走り出した。運良く謎のゼリーの攻撃をかわしたが、それだけだ。“戦う”という選択肢はあり得ず、結果、逃げることしかできなかった。心臓の鼓動を急かし、手足を不器用に前後させる。
幸いなことに、ゼリーのスピードは遅かった。そもそもどうやって動き回っているのかわからないが、足を持たない以上は地上で素早く動けまい。ジョギング程度のスピードでも引き離すことはできそうだ。
ゼリーの視界(目があるのかもわからないが)から逃れるため、過密気味の住宅街に向かう。くねくねとアリの巣のように張り巡らされた路地はさながら迷路のようで、初めて来た者なら容易に目的地には辿り着けない。しかし近所に住む僕にとっては、子供の頃から慣れ親しんだ道だ。大丈夫だ、地の利はこちらにある……!
右へ、左へ、また右へ。まっすぐ行って、今度は左。
何度目の角を曲がっただろうか。満腹の上に、日ごろの運動不足が祟ったのか、わき腹が痛く呼吸も酷く荒い。喉をひゅーひゅーと鳴らしながら、肺いっぱいに空気を取り込んだ。
「ひゅー、はぁー。ひゅー、はあー……!」
もう走れない。全身がダルく、塀に寄り掛かってその場にへたり込んだ。背中から、塀の冷気がひんやりと伝わって心地いい。その家の持ち主が育てているのか、隣には巨大なアロエが刺々しい葉肉を掲げている。そのアロエに身を隠すように、隣で身を縮ませた。
細い路地の左右を見渡す。明かりが少なくてわかりづらいが、あのゼリーは見当たらない。おそらく、距離にして百メートルは離した。そのうえ、この迷路のような路地だ。仮に見つかるにしても、数分の時間は稼げるだろうし、運が良ければ諦めて帰ってくれるかもしれない。
心臓の鼓動が穏やかになる。呼吸もだいぶマシになった。
心も体も落ち着いてきたところで、あのゼリーのことを考え始めた。
まず、どう考えても普通の生き物ではない。出会った当初は生き物かもわからなかったが、明らかに僕を襲う意思を持っている。ふと、あのゼリーに全身を包まれ溶けていく自分を想像してしまい、寒気が走った。
そうだ、警察に電話するか? いや、「巨大なゼリーに襲われている!」と訴えたところで、いたずら電話と思われるだけだろう。
電話……電話と言えば、美津姫はどうだろう? 彼女が言っていた“巨大なナメクジみたいなもの”とは、おそらくあのゼリーのことだ。あの子は僕より謎の生物について詳しそうだが……いや、駄目だ。最悪の場合、僕だけでなく彼女まで危険にさらしてしまう。こんな状況でも他人の安全を慮ることができる自分に、つい苦笑してしまう。なんだ、僕もまだまだ捨てた人間じゃないな。
結局何もいい案は思い浮かばない。高校までずっと優秀な成績を修めてきたくせに、いざというときは頭が回らない。自分の生存能力の低さに呆れ、ふと空を見上げた。
アイツが降ってきた。
反射で、カエルのように右に跳んだ。しかし今度は避けきれず、左腕がゼリーの体に呑みこまれた。
「カッ! ア……ァ…………ッ!」
ゼリーの体の中で、左腕から泡が沸き立つ。ちょうど、ソーダの中に氷を放り込んだみたいだ。ジャケットの、シャツの袖がボロボロと溶けていく。腕には何百本という針で突かれるような痛みが襲い、意識が一瞬飛びかける。
「アァ……くあぁッ……!」
左腕に力は入らず、そのため体全体を右に傾けて左腕をゼリーから引っこ抜く。左腕に感覚はない。おそるおそるゼリーに包まれていた腕に視線を向けると、しっかり胴体にくっついている。安堵はしたが、真っ赤に爛れたその腕は、しばらくは使い物になりそうにない。
ゼリーは体内に残った服の切れ端を咀嚼するように、その場で蠢いている。目に涙を溜めながら、その場から駆け出した。どうして自分の居場所がバレたのか、そんなことはわからない。ただ恐怖で、その場から逃げ出したかった。自分の無力を呪う暇すら無かった。
気が付けば、マンションの扉の前に立っていた。無意識に安全なところを求めるうちに、僕の足は自宅へ向かっていたようだ。
全力で走ったおかげで距離は稼いだが、その代わり体力を使い切った。ドアノブを回し、倒れ込むように家の中へ潜り込んだ。鍵とチェーンロックを掛け、這うように進む。母さんは旅行、彩音は友達の家。二人とも巻き込む心配はなかった。
ボロボロになった服を自室に放り込み、キッチンの水道水で左腕を冷やす。体温が感じられないほどにまで冷やし、カラカラになった喉にジュースを流し込む。一度大きくむせるが、燃料を補給するようにがむしゃらに飲んだ。
冷蔵庫にジュースを戻したところで、不思議と眠たくなってきた。極度の疲労と緊張感が、いよいよキャパシティを越えてしまったのかもしれない。「もう、このまま眠ってしまえよ」声なき声が、僕を安寧の世界へ誘おうとする。
だから、扉の隙間からゼリーが滲み出てくるのを見ても、もう危機感を抱くことすらできなかった。もういっそ、こいつが全部溶かしてくれれば楽になれるだろうに。そんな考えさえよぎっていた。
「ああ……でも、そうだなぁ……」
ふらつく足取りで、母さんの和室に向かった。背後ではゼリーがその体を半分ほど家の中に入れていたが、僕の心は諦観により穏やかだった。もう、勝手にしてくれと思った。
母さんの部屋には小さな仏壇がある。その中には、父さんの笑顔の遺影が飾ってある。改めてみても、あの魔王とそっくりだった。小さい頃から大好きで、突然この世を去って、魔王になって帰ってきた父親。
「――ざけるな」
ぎゅっと右の拳を握りしめ、腋を締める。
「――――ふざけるなぁっ! この、クソ親父ィッ!!」
全ての元凶、この異常事態の張本人の顔面を、体重を乗せた右ストレートでぶち抜いた。遺影は砕け、中の写真は僕をあざ笑うようにふわりと宙に舞う。
勢いそのままに、僕の拳はベキベキと仏壇の上半分を粉砕した。右手を貫く痛みを忘れるほどに、この一瞬だけは快感に我を忘れた。あとはこの爽快感を胸に、ゆっくりと溶かされればいい。そう覚悟した時だった。
カタン……。
視界の隅で何かが仏壇の奥に落ちた。おそらく、遺影の影に隠れていたものが今の衝撃で落ちたのだろう。
それが何なのか気になり、身を乗り出して腕を伸ばす。指先で持ち上げようとすると、ずしりと重い。なんとか引っ張り出してそれを見るが、首をかしげるほかなかった。
「これは……銅剣?」
誰もが一度は見たことがあるだろうそれは、歴史の教科書に載っているような錆びついた銅剣だった。