七話【夜道の遭遇】
「じゃあ明日、大学でな!」
「うん、またな」
駅の前でアキトと別れた。お腹を重そうにさすりながら、アキトは改札の向こうへと消えて行った。アキトほどでもないが、僕ももうお腹がいっぱいだ。帰りは電車でいいか……と思いもしたが、少しでもカロリーを消費せねばと歩きを選択した。
ほんの数分歩くだけでも、街の灯りは目に見えて数を減らしていく。人の熱気もすぐに落ち着き、脱いでいたジャケットを再び羽織り直す。体から発散される熱をジャケットが包み込み、ふっくら温かい空気が僕を包んだ。
十分ほど歩いた。大体、自宅と北名古駅の中間ぐらいだ。駅周辺の喧騒は既に遠く、荒れた畑や田んぼがぼっかりと四角い穴を開けている。雑草が伸び、明かりに照らされて羽虫たちがふわふわとその場を漂っていた。おんなじ所を、くるくると、ただクルクルと。
「僕みたいだなぁ……」
…………って、馬鹿か! 羽虫と一緒だなんて、過小評価もいいところじゃないか! つい口を突いて出たひと言に、僕は急いで反論した。
でもなんで、そう思ってしまったんだろう。
あの羽虫は、僕なのか? 興味もないコンパに参加して飯を貪る僕は、本能で光に群がる、あの羽虫と同程度なのでハないか? お前ハ人間らしく、何かひたムキニなれる目標とかはナイのか?
オマエ、イキテテタノシイカ?
「やめろ……やめろ……考えたくない……!」
黒い水が染み出すように、頭の中に自分を蔑む声が侵食する。ブンブンと頭を振り、それでも足りず、喉の奥に指を突っ込む。込み上がる嘔吐感をそのまま受け入れ、雑草の影に吐瀉物をまき散らす。
「カッ……ハァッハァッ……!」
口の中に残る吐瀉物を唾と一緒に吐き出す。口の中はひどく生臭く不快になったが、思考を埋める言葉の泥は消え去っていた。
「父さん……パパ…………」
こぼれ落ちそうになる涙は、嘔吐のせいか、自己嫌悪のせいか、父さんのせいか。激しく揺れる僕の頭では、答えは出なかった。
「ねえ、父さん。僕の人生、どこからつまんなくなっちゃったのかな?」
魔王ではなく、思い出の中の父親の笑顔に問いかけていた。父さんは何も言わず、ただ、笑っていた。
涙を袖でぬぐったところで、田んぼの一角に水が溜まっていることに気が付いた。
「あれ? 変だな」
その田んぼに水は引かれておらず、ひび割れた地面がこの暗がりでもはっきりわかる。多少の水なんかは、あっという間に吸い込まれて、田んぼに染みを作るだけのはずだ。
近寄って見て、驚いた。ただの水溜りかと思いきや、そこにあったのは“水の塊”だった。直径にして、およそ一メートルほどだろうか。ちょうど、巨大な水滴が落ちているような見た目だ。
「なんだよ、これ。ただの水じゃない……よな?」
おそるおそる、道端の小石を投げ入れてみる。ポチャンという音を期待していたが、小石は水の表面に弾かれて落ちる。水の塊の方は、小さくプルンと表面を揺らしただけだった。
「水じゃないな。ゼリーみたいなものか?」
ますますわからない。誰かが悪ふざけで、でっかいゼリーみたいなものを作って、ここに放置したのか? 最近流行の、素人相手のドッキリ番組か何かか?
訳も分からず怪訝に思っていると、ゼリーはプルプルと震えだした。先ほどとは違い、今度は表面だけでなく、体全体を震わせているようだった。「なんだなんだ!」咄嗟にその場から跳び退いた。
田んぼの隅に収まっていたそのゼリーは、体を震わせながら這い上がってきた。水滴が流れるのを逆再生するかのように、じわじわと体を道路に持ち上げていく。距離にして五メートルほど。僕の立つ道路に、そのゼリーは鎮座した。
「こいつは、一体……?」
ただの物質なのか、生き物なのか。それすらも判断が付かない。すっかり尻込みする僕に、そのゼリーはじりじりと近づいてくる。
ビョン!
「えっ、うわぁ!」
ひときわ大きく震えたかと思うと、その反動で僕に覆いかぶさるように跳んだ。驚きに尻餅をついたのが功を奏し、ゼリーは頭上をかすめるように通り過ぎた。すぐ後ろで、バチャッという音が響く。
シュウ……シュウ……。
「おい、ウソだろ……」ゼリーが乗っかっている道路のアスファルトが、ビールのようにシュワシュワと泡を立てている。溶けている……のか?
ぺちゃり、ぺちゃりと音が近づいてくる。ヤバい! 何も考えず横に転がると、僕の体温の残る道路が、後ろから飛びついたゼリーに覆われた。やはり、ゼリーが乗っかった部分は泡を発しながら溶けていく!
「なんだよ、コイツはっ?」
バネのように跳ね上がり、僕は地面を思い切り蹴った。
走れ。走れ! 走れ……! あれは、ヤバいっ!
不器用に腕をばたつかせながら、恐怖の渦の中駆けだした。前へ、遠くへ、安全な所へ!