九話【叶銘の新しい朝②】
アキトとも別れ、構内の外れの方に歩いていく。月曜日の一限目、“勇者冒険学”が開かれる校舎へ。
そこには、一月前となんら変わらない姿で「六号館」が鎮座していた。猿の魔物に敗れ、魔物たちとの戦いを諦めたあの日から姿を消した六号館。試しに触れてみれば、ひんやりとした感触が伝わる。幻ではない。
「俺が吹っ切れたから、戻ってきたのか?」
コツコツとノックするように、その無機質な壁面を叩く。全く、お前は主人の帰りを待ってた犬か何かか? フッと口から息が漏れた。
「……中に入らないのかね?」
急に背後から声を掛けられ、驚きでちょっと飛び上がった。しかし急いで振り返っても、そこには誰もいない。
「下だよ、下」
下? その声に促されて視線を落とせば、そこには小太りの老人。藤間先生だ。
以前もこんなことがあったなと思いながら先生の顔を見ると、なんだか前より朗らかに見える。基本的に教室の中以外では会わないから、こうして陽の光を浴びる先生の表情が明るく感じるのかもしれない。
「あの、しばらく欠席しててすみませんでした……」
謝罪し、深々と頭を下げる。そこまでしてやっと、藤間先生と頭の高さが等しくなった。
義務教育でもあるまいし、大学生が講義を休むなんて講師からしたらどうでもいいことだろう。それでも、俺は謝らずにはいられなかった。だって、まず間違いなく、この“勇者冒険学”は“俺一人のため”だけに作られた講義なのだから。
最初からおかしなことばかりで、そのことについて考えることも多かった。あの「同じことばかり言う学生たち」や「六号館」は、きっと人形のようなものだろう。だから体温が無く、突如消えたり現れたりしたのだ。そしてそれを操っているのは、目の前にいる藤間先生の可能性が高い。
藤間先生は、先生のやりかたで俺を一人前の勇者にしたがっているようだ。マスターのように父さんを嫌っているのか、はたまた別の理由か、その行動の真意はわからない。ただ、味方であることは間違いないようだし、こんな俺に期待してくれていることは、素直に嬉しい。だからこそ、先生の期待には応えてあげたいのだ。
ゴツンと、後頭部に強い衝撃を受けた。「イテッ」思わず視線を上げると、そこには手にしていたボストンバッグを抱える先生の姿。ぎっちり教材を詰めた鞄の角っこで殴ったらしい。
「フンッ! 儂の教え子ともあろうものが、情けない!」
真っ赤な顔で怒りながら、ズンズンと六号館の中に進む先生。しかしドアを開けたところで、ピタリとその動きを止めた。
後頭部をさすりながらその様子を眺めていると、先生は振り返らないまま、こちらに手招きした。
「さっさと来んかい。もうすぐ講義を始めるぞ!」
「――ハイッ! すみません!」
自分の鞄を背負い直し、先生と並んで校舎の中に入った。
「フンッ! オレの部下ともあろうものが、情けない!」
本日二度目のお叱りを、居酒屋“戯流堵”の店長室で受けた。一つ違うのは、マスターからのゲンコツは藤間先生の一発とは比べ物にならないほど重かったことか。痛さを数値化できたら、かなりの桁数をたたき出していたことだろう。
マスターは、しかしそれ以降は無言だった。いたたまれない俺の口からは何も発することができず、ただただ怯えながらマスターの次の一言を待っていた。だが結局、そのまま五分ほど経過したところで「明日から、しっかり働け。今日は帰ってろ」と言われただけだ。俺は平謝りしながら、店長室を、店を出るしかなかった。
帰り道、マスターの表情を何度も思い出しながら歩いた。
あの人は自分勝手だ。世界のためじゃなく、自分の店のために俺を雇い、実の父親と戦わせている。
そのことに、罪悪感が募っていたのではないか? 俺の中では父さんと戦う決心はついているのだが、マスターはそんなことは知らないだろう。俺が一か月も仕事を勝手に休んだことで、“あの“マスターも動揺したのかもしれない。マスターの真意は想像することしかできないが、そう考えれば案外悪い人でもないな。
よし! 明日からまた、きっちり働くぞ!
ちょうど目についた自販機で、大容量の炭酸飲料を買って飲み込んだ。軽くむせたが、気分は悪くなかった。
魔界の森の中には、一つの小さなログハウスがある。鏡治の魔界における住処だ。他人の目も無く、元々オープンな性格の鏡治は、鍵もカーテンも閉めることはほとんどない。せいぜい、夜眠るときくらいだ。
その小さな家のカーテンが全て隙間なく閉められていた。
しかし、鏡治は眠っているわけではなかった。目の前で崩れ落ちる、一人の女を抱きしめていた。
それはシャミアだった。背中に名枕を受けた彼女は、現世で炭となって朽ち果てるはずだった。しかし最後の力を振り絞り、その場に魔界へ通じる穴を開けて逃げ込んだのだ。おかげで炭化は止まったが、既に体力は底をついていた。あと数度呼吸をすれば命が尽きることは、鏡治も彼女自身もよく理解していた。
「ありがとう。シャミア」
ぎゅっと、鏡治は両腕に力を込める。彼女の黒くひび割れた腕が、パキパキと音を立ててその場に崩れていく。
「鏡治……様……。ワタシ……」
言葉を紡ごうと力を込める度、体のどこかが崩れていく。それも意に介さず、彼女はただ鏡治の目を見つめて口を動かした。既に顔の三割は黒く変色している。
鏡治は彼女の意思を尊重し、ただそれを見守っている。
「嬉し……かったです。あなたに……選ばれて、共に現世に降り立てたこと。そして……叶銘様に会えたこと。彼には……随分酷いことを、してしまいましたが……」
「いや、いいんだ。全部私が頼んだことなのだから」
「ふふ……鏡治様はお優しいのですね。彼の目には、そう映っていないのが、とても悲しいのですが……」
「それも、いいんだ。君が気にすることではない」
シャミアの目に涙が溜まる。
炭化し、指を何本か失った右手が鏡治の頬を撫でる。彼の顔に黒い筋ができる。
極寒の世界にいるかのように、その手は小刻みに震えていた。鏡治はその手に、自分の左手を重ねた。彼女と触れ合えるのは、これが最後に違いないから。
「きょう……じ、さま……」
ふっと、柔らかな笑顔が浮かんだ。
「好……です……」
シャミアの右手が鏡治から離れ、力なくその場に落ちる。床に叩きつけられ、さっきまで腕の形をしていたそれは、ただの炭の塊になった。風も無い室内で、それは空気に溶け込むように消えていった。
鏡治は彼女の瞼を閉じ、その亡骸と、煤だらけの自分の服を一緒に庭に埋めた。そこらの魔物が寄り付かないように呪いをかけ、墓標を立てた。その墓標に手を合わせ、目を閉じ、彼女の冥福を祈った。
「……でも、ごめんな。私には、妻と子供がいるんだ。浮気なんてしたら珠恵が怖いんだよ……」
それだけは忘れずに伝え、鏡治は戻って床に就いた。現世に降り立ち、衰弱しきった自分の体を抱きながら――。




