七話【決着の一投】
高速道路のアスファルトを踏み砕きながら、じりじりとサソリ女ににじり寄って行く。約一キロメートル開いていた差も、ようやく百メートルほどにまで詰めた。
もう少し――もう少しだ――!
残り時間は三分。一度でも距離を大きく離されたり、戦いに時間を取られたりしたらアウトだ。一撃必殺。それを実現するためには、ネイサの回答を待ち、名枕で仕留める他ない。この異常に発達した身体能力でも、あのサソリ女を即座に倒すというのは不可能だろうから。
「――カナメ、マタセタな!」
ネイサの声が耳に届く。急いでスマートフォンの画面を見ると、ふうっとネイサが一息ついていたところだった。
「それで、あのサソリ女の名前は?」
「あのマモノのナマエは『シャミア』だ。コレマデは『スライム』や『ゴブリン』といったシュゾクのナマエだったが、コレはコユウメイシ。アイツヒトリのナマエだから、ジカンがカカッタ……」
「オーケー。ありがとう」
つまり、サソリ女の魔物は目の前の一体だけで、それ以外には存在しないということか。
名枕の効果は、相手の名前を正確に刻むほど高くなる。以前「ホブゴブリン」に対して「ゴブリン」と刻んだ名枕を突き刺した時、絶命するまでに時間が掛かり、思わぬ窮地に陥った。
その点では、今回は最高の条件だ。何せ、あのサソリ女一体だけの名前。これ以上対象を絞れないのだから、名枕は限界まで力を発揮するはずだ。かすり傷でも、致命傷を与えられることだろう。
あとは、シャミアに追いつくことさえできれば――
ガシャン!
大きな音と共に、ハッと意識を前方に戻した。
シャミアの巨大な尾が、隣の車線を走る車のフロントガラスに突き刺さっていた。ズルリとその尻尾を引き抜くと、先端の針から赤いものが滴っていた。
「そう来たか……」
まっすぐ走っていた車はグネグネと蛇行し始め、一度大きく左に進路を移した。その横っ腹に、左車線を走っていた車が衝突する。その拍子に外れたガラスが飛んできたが、大きく屈んで避けた。
幸いにも車の数は少なく、事故に遭ったのは二台だけで済んだ。道を塞がれたわけでもないので、このまま全速力で走れば十秒ほどでシャミアに追いつける……!
「アテが外れたな、シャミア。これじゃ足止めにならないぞ!」
そう言って事故車を通り過ぎた時、シャミアはこちらに振り向いて、ニヤリと口元を吊り上げた。その視線は俺……ではなく、車内に向いている。
促されて振り向くと、そこには胸に小さな穴を開けた男がぐったりしていた。さきほどシャミアの針に刺された男か。毒は注入されていないようだが、針と衝突の二つの大きなダメージを受けてか、顔に生気は無い。死体と言われれば納得しそうな土気色だ。
しかし彼はうわ言を呟くように、口をパクパクと動かしていた。その口の動きから、悲痛なメッセージを読み取ってしまった。
「タ……ス……ケ……テ……」
「――クソッ!」アスファルトを踏み砕きながら急停止し、急いで駆け戻る。ひしゃげたドアを引きはがし、運転手の胸の傷に顔を寄せる。服をまくり、ポケットに忍ばせておいた傷薬を塗る。見る見るうちに傷は塞がり、出血も止まった。心臓の鼓動はまだ弱いが、じきに回復するだろう。
ホッとしたのもつかの間、再び前方を見やる。あと五十メートルも無かったシャミアとの距離は広がり、その後ろ姿はまた豆粒のように小さくなっていた。
思い出されるのは、シャミアのあの余裕の笑み。それを振り払うように、小さくなる背中を追いかけた。
そうか、初めからそっちが狙いか! くそっ! クソッ!
シャミアの狙いは、車で俺の進路を塞ぐことではなく“怪我人を助けさせて時間を稼ぐ”ことだった。
よく、人間は助け合う生き物だと言われる。その言葉は正しいと思うし、美しいと思う。だからこそ、それを利用されたことが腹立たしい。怒りに顔を歪めながら、ただ脚だけを動かした。
一層強くなった殺意を脚に込めたラストラン。
気づかないふりをしていたが、脚の感覚はもうほとんど残っていない。突如目覚めた莫大な力に、体が付いてきていないのだろう。それでも、せめて毒の制限時間までには……あと数分だけでももってくれれば。
「そうだ、残り時間は!?」
時計を見て愕然とした。もう、残り一分も無い!
シャミアの後ろ姿は依然として遠い。このまま走り続けたとして、名枕が届く距離まで届くかは怪しいところだ。
無理?
浮かんだその一言を、かぶりを振って打ち消す。
ぺろりと口元の雨粒を舐めると、血の味がした。これは――そうだ、アキトが付けた勇気の印だ。そうだよな、アキト。ここで諦めたら、なんだか本当に、どうしようもなくカッコ悪くなっちゃうよな。
この追いかけっこで、初めて笑みがこぼれた。美津姫の命が懸かった状況で不謹慎だが、今ほど成長を感じる時間は無かった。小学生の頃酷い喧嘩をして、それ以降は波風を立てないようにと、灰色の時間を過ごしていた。体ばかりが大きくなって、中身は小さな子供のままだった。
その小さな子供が、夏の日差しを受けて伸びるヒマワリのように、ムクムクと急成長していくのを実感している。
ここで勝たなくて、いつ勝つんだよ。
つと前方を見渡すと、シャミアは大きな右カーブに入るところだった。遠くからでも「急カーブ注意」の黄色い看板が確認できる。シャミアは細かい脚を忙しなく動かし、わずかにスピードを落としてカーブに突入する。
頭の中で火花が散った。ここだ!
失敗すればおしまいの賭け。しかし、これが最後のチャンスなのは直感的に分かった。どうせ、何もしなければ勝機はほぼ無いのだ。
体が、心が熱を帯びていく。言いようのない高揚感に包まれ、人質に取られた美津姫のことが頭から抜け落ちていく。ただただ、名枕をシャミアの体に突き立てることしか考えられなくなっていた。
脚を止め、靴を脱いで裸足になる。ぎゅっと足の指を曲げて、道路に指を食い込ませる。
右手の名枕を逆手に持ち直し、腕を前後に大きく伸ばす。ちょうど、槍投げの選手が投擲直前に取るポーズだ。シャミアの名をつぶやき、名枕に光を宿す。今度は、燃えるような橙の光がその剣身に刻まれた。
ギロリと前方のシャミアを凝視する。照準をその横っ腹に定める。黒い光沢を放つ頑強なサソリの体も、名枕の前ではただの大きな的でしかない。
全身に力を込める。みちりみちりと、筋肉が軋む音が聞こえてきそうだ。「明日からしばらく筋肉痛で悶えるだろうな」そんなくだらないことを考えつつ、自分を、槍を放つ一つの機械に変えていく。
呼吸が止まる。降りしきる雨の中で、しかし視界は妙にクリアだ。眼球はコンマ一秒たりともシャミアを離さず、それに合わせて体の向きが微調整されていく。
「――せーの」
体を大きくひねる。イメージは、伸ばされた輪ゴム。切れそうなほど緊張した体、それを
「――シャラァッ!」
一息に開放した。
手元を離れた名枕は、一本の光の軌跡を描きながら宙を切り裂いた。その衝撃波が雨粒たちを霧散させていく。
ただならぬ危機を察したのか、シャミアが首をこちらに向ける。しかし、もう遅い。レーザーのごとく進む名枕は、彼女の人間の体とサソリの体の継ぎ目を正確に捉えていた。体を捻って避けることはできない。防御しても、最大火力の名枕に耐えられるわけもない。シャミアは目を見開き、一瞬にして顔から血の気が引いていた。
残り時間はおそらく十秒強。その左腕に抱えられた美津姫の全身は紫色の血管に侵され、苦痛に顔を歪めている。だが、これで解決だ。シャミアの言葉を信じれば、彼女を倒せば解毒される。俺の……俺たちの勝利だ!
キンと高い音が響いた。
サソリの尾の先。そこについた針があやまたず名枕の柄を叩いた。
防いだシャミア本人ですら驚いていた。魔物の本能か、降りかかる危機にサソリの尾は反射的に動き、名枕が唯一攻撃力を持たない柄を正確に弾いた。
カクンと名枕の軌道が屈折する。結果、かすり傷すら負わせられないまま名枕はシャミアの体の横を通り過ぎて行った。
そんな――!
まさか――!
失敗したって、言うのか――!?
時間が止まったかのように、目に映る全ての物が止まる。美津姫の命が尽きるまでのほんの数秒、その時間をなんとか引き延ばそうとするかのように。
自分の勝利を確信したのか、シャミアが目を細め、口角を吊り上げる。今にも、その口元から嘲笑の声があふれ出てきそうだ。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!
ゴフッ――
しかし、その口からあふれ出てきたのは真っ赤な血だった。俺も、シャミアも、一体何が起きているのかわからなかった。
動きを止めたシャミアの元に駆け付けた。
目の前では、彼女の腕から転げ落ちた美津姫が道路の上で眠っていた。毒を注入されて変色していた彼女の肌は何もなかったかのように健康的な肌色に戻り、大きく息をついて安堵した。念のために呼吸や脈拍を確かめても、特に異常は感じられない。決して許せはしないが、シャミアは律儀な魔物だったようだ。
しかし、どうして躱されたはずの名枕が、こうしてシャミアの背中に突き刺さっているのか?
とりあえず名枕を引き抜こうと柄を握ると、なにやらぬるりとしている。そして同時に、ピリピリとした痛みに襲われた。
この感触……まさか!?
急いであたりを見回す。すると思った通り、そいつはそこにいた。
今となっては懐かしいゼリー状の魔物、スライムだ。そいつはびくりと体を震わせると、美津姫の傍に転がっていた瓶に体を滑り込ませた。俺が戦ったものよりかなり小柄だが、それよりもっと小さな瓶の中にすっぽり収まった。どういう原理なのだろうか?
「まさか美津姫、あの時あげたスライムをずっと持ち歩いていたのか?」
かつて湊小学校で倒したスライムの一部で、美津姫へのお土産。あいつはどういうわけか、躱された名枕の軌道をさらに曲げて、シャミアに当ててくれたようだ。
「自分の主人を守るために飛び出してきたのかな。とりあえず、ありがとうな」
返事をするように、瓶の中でスライムはブルリと震えた。
どこからかパトカーのサイレンの音が近づいてきた。化け物と人間が追いかけっこしていたうえに、事故まで起きたのだから当然か。
面倒事はごめんだ。美津姫を抱え、スライムもついでに回収し、高速道路から飛び降りた。
ふと気になって振り返ると、そこにシャミアの姿は無かった。きっと炭になって、風に散って行ったのだろう。




