五話【刻まれた血の勇気】
どれだけの時間が経っただろうか。
僕はコンクリートの無機質な壁に寄り掛かって座っていた。隣には、未だ目を覚まさないアキト。簡単にだが止血を済ませたから、後は本人が目覚めるのを待つしかない。でも、アキトの呆れた生命力なら心配はいらないだろう。一度、階段から転げ落ちるところに遭遇したことがあるが、「痛ってー!」の一言で済ませた男だ。
問題は美津姫の方だ。依然として、サソリ女の黒光りする背中の上で眠りこけている。
美津姫のことだ。こんな魔物を目の前にしたら、恐怖より好奇心が勝ってしまうだろう。そうなれば、サソリ女を刺激してどのような展開になるか分かったものじゃない。
立ち上がり、数歩歩み寄る。じゃり……じゃりと、砂を踏む音が空しく響く。力なく歩を進める僕を、サソリ女は見下すように眺めていた。
そうして対峙する。サソリ女は人間の上半身とサソリの体を合わせると、二メートル近い身長になる。必然的に、僕は彼女の顔を見上げる形になった。視界にサソリの体を映さなければ、そこに佇むのは胸以外の肌を惜しみなく見せつける、絶世の美女だった。
しかし今の僕には、その妖艶な体に震わせえる心を持っていなかった。相手が魔物だからとか、美津姫を人質に取られたままだとか、そういうことじゃない。
父さんに、粉々にされたからだ。僕の体を分解して特殊な顕微鏡で探したところで、その残骸すら見つからないだろう。
「美津姫を、返して……」
初めて、サソリ女と目が合う。赤褐色の大きな瞳に、僕の姿が鏡のように映る。猫背になり、パクパクと口を動かし、目は虚ろに開くだけの僕が。
さながら、昔気質のゾンビのようだ。決して走らず、だらしなく腕を上げ、ただうめき声を上げるだけの、あの醜い存在。
「美津姫を……返してください」
一歩、一歩、じりじりと歩み寄る。もう、サソリのハサミが届くほどの距離だ。もしも今襲われれば、僕は何も抵抗できずその命をこの廃墟に散らすだろう。
「ワタシはね、あの御方……鏡治様が好きなのよ」
無表情のまま、サソリ女は口を開く。
「それだけに、ガッカリよ。鏡治様の御子息に会えると聞いて同行させていただいたのに、実際に会ったら、こんなヘタレなんだもの。エテマーンに負けたのはあなたの実力不足だし、お父様を魔王と認めなかったのは、あなたの自己中心的な思い込みでしょう」
鈴のように澄んだ声が、容赦なく僕の頭上から降り注ぐ。
「ワタシとしては、このまま帰ってもいいんだけどね……でも、やっぱり叶銘クンのカッコイイところの一つは見ないと、気が済まないのよ。『ああ、流石はあの御方の子供ね――』って」
微笑を浮かべながら、その不吉な言葉を口にした。
するとサソリ女は尻尾で美津姫を抱え、人間部分の右腕で彼女を受け取った。僕より細い腕にも関わらず、軽々とその体を持ち上げている。
「だからワタシも、あの御方のマネをさせていただこうかしら」
見上げる僕の目の前で、サソリの尾が鞭のようにしなる。ヒュンと風を斬る音がしたかと思うと、その先端の釣り針のような針が、美津姫の左手の甲に刺さっていた。
滑らかな彼女の手の甲を、真っ赤な血液が伝って落ちていく。しかしよく見ると、その鮮やかな朱色に混じって、濃い紫色のもやがちらついている。
「ゲームよ、叶銘クン。
この女の子、美津姫チャンって言ったかしら? 彼女に毒を流し込んだわ。きっかり三十分後に命を落とす、ワタシの特製の毒よ。解毒するには、毒を操るワタシを倒すしかないわ」
ブンと再び尻尾を振ると、コンクリートの外壁が易々と打ち砕かれた。突如空いた大穴から、湿気混じりの冷たい空気が入り込んでくる。
「この子を助けたいのなら、ワタシを追いかけてきなさい。そのまま木偶の坊みたいに突っ立ってるか、白馬の騎士みたいに助けに来るか、お好きにしなさいな」
挑戦的な笑みを向けると、サソリ女は大穴の外へ躍り出た。蜘蛛のように軽やかに屋根を飛び移り、外壁を上り、あっという間に豆粒のように小さく遠ざかって行った。
僕はその場に立ち尽くしていた。
「あんな奴に、どうやって追いつけばいいんだよ……」足から根っこが生えたように、一歩を踏み出すことすらできない。
助けたい――助けられない。
追いかけなきゃ――追いつかないよ。
あの魔物を倒さないと――また負けるぞ。
勇気の言葉を振り絞るたび、負の言葉がそれを一つ一つ否定する。まさに木偶の坊。自分の体が木製になったかのように、筋肉がピクリとも動かない。
――うぅ、あっ……。
背後から声が聞こえた。アキトの声だ!
急いで駆け寄り、アキトの口元に顔を近づける。依然として弱々しいが、呼吸に力強さが戻ってきている。ホッと胸をなでおろした。
「な……だよ……」
「お、おい。あんまりしゃべるな」
アキトは震える腕に力を籠め、上半身を起こした。力を入れたためか、傷口から再び血が滲み始める。
「バカ、安静にしてろ!」再び寝かせようとする僕に対して、アキトはカッと目を見開いてそれを制した。
「なんで追いかけねえんだよ!」
アキトの体重を乗せた拳が、僕の頬を的確に捉えた。バランスを崩した僕とアキトは、二人並んで仰向けに倒れた。曇天のような灰色の天井に、火花がチカチカと煌めいている。頬には鈍い痛みが走り、じんわりと血の味が口内に広がっている。
「……意識は朦朧としてたけど、話は聞こえたぞ。色っぽい姐ちゃんが、美津姫に毒を仕込んで、連れ去ったんだろ? 追いかけない理由がどこにあんだよ?」
たどたどしい口調で、アキトは言葉を絞り続けた。力のない声だが、僕の耳に鋭く入り込んでくる。事情なんて知らないくせに……天井を見つめたまま答えた。
「アキトは知らないだろうけど、僕は……もう負けた人間なんだ。それどころか、魔王やあの女のオモチャなんだ。もう……戦う気力なんて湧かないんだよ」
それだけ言って横を見る。そこには、こちらを向くアキトの顔があった。笑顔だった。
「ハハ……お前、俺よりバカだな。そんなの、美津姫を助けない理由と、何の関係も無いだろ。一度負けたら、二度と勝っちゃいけないのか? オモチャが反抗しちゃいけないのか? そんなことないだろ。な?」
「……アキト」
「でも、お前はちょっとメンタル弱いもんなぁ。本当ならあと三発は闘魂注入してやりたいが、今はちょっと無理だ。だからよ――」
アキトはすぐそばまでずり寄ってくると、親指で自分の額の血を拭った。その赤く染まった指で、無遠慮に僕の頬を力強く撫でた。鏡が無いので確認できないが、僕の頬には、インディアンのフェイスペイントのような赤い筋が刻まれただろう。
「俺がついてってやるよ。体は動かせないけどよ、俺の魂を込めた血が、お前を見守ってやるからさ……」
ニカッと笑みを浮かべたかと思うと、アキトはスイッチが切れたように突っ伏した。眠っているくせに、頭から血を流しているくせに、その顔には僕以上の生命力を宿していた。
「……ありがとう、アキト」
床にポツンと放置されていた名枕を引っ掴み、
ウゥオオォォああああああァァァァァァァァーーーーーーーーッ!!
柄にもなく叫んだ。
がらんどうの部屋に、勇者の産声が響いた。
「待ってろよ! 美津姫! サソリ女ァ!」
助走をつけ、俺は穴から飛び出した。
制限時間は、残り二十四分。次第に勢いを増す雨の中、命とプライドを賭けた鬼ごっこが始まった。




