四話【無力のピエロ】
「と、父さん……」
おそるおそる、僕はそうつぶやいた。今や、この世界全ての敵となってしまった、その男に。
「やっと、そう呼んでくれたか。なんだか、とても懐かしいな」
照れくさそうに、父さんは頬をぽりぽりと掻いた。埋もれていた記憶が蘇る。昔見た、父さんが照れくさそうに笑う時の仕草そっくりだ。
「父さん、いろいろ訊きたいことが――」
「いや、質問するのは私の方だ」
ぴしゃりと、僕の言葉を遮った。
その一言をスイッチに、父さんの雰囲気が変わった。下がっていた目じりが鋭く上がり、笑みを含んだ口元は僅かに邪悪に歪む。父さん……いや、魔王のその変貌に、隣のサソリ女がくつくつと笑う。
「叶銘……お前、逃げるのか?」
突如放たれたその一言は、僕の心を槍のように貫いた。そのまま僕の体が、壁に磔にされそうな勢いだ。
そうか、父さんは知っているんだ。僕が魔物たちと戦っていること。猿の魔物に負けたこと。そして、戦うことをやめてしまったこと……。
なんとか足をふんばり、今まで誰にも打ち明けられなかったことを吐露した。だって、相手は魔王だ。このおかしくなりつつある世界の不満をぶつける相手として、これ以上の相手はいないじゃないか。
「逃げて……逃げて何が悪いんだよ!? 別に、僕が戦う必要もないだろ!」
「お前には武器があるだろう。ほら、その右手に握っているじゃないか」
「これが、こんな剣一本でどうしろっていうんだよ! 確かにすごい力はあるけど、所詮僕一人じゃどうにもならないだろ!」
「じゃあ、他の誰かに任せるのか?」
「……そうするしかないだろ。警察や自衛隊だって、もう動き始めてるって話だ」
その言葉に堪えきれず、父さんは一度吹き出した。
「残念だけど、彼らは当てにならないよ」
「なんでだよ!?」
「そうだな。いい機会だから、しっかり説明しようか」
父さんは一度アキトを抱え直すと、窓枠に腰かけて語り始めた。
「この世界――“現世”とでも呼ぼうか――現世には、魔界に通じるとても小さな穴がいくつも開いている。そこから魔界の瘴気が流れだし、現世を覆い尽くすのが一年後。そう、例のタイムリミットだ。
現世が魔界の瘴気で満たされた瞬間、まるでオセロの駒をひっくり返すように、一瞬で現世が魔界に変わってしまうのさ」
魔界に通じる穴? 魔界の瘴気? 理解できない言葉が続く。
「ここでさっきの、お前の質問の答えだ。警察云々のな。
本来、魔界と現世とは完全に分かれている。だから、現世の人間は魔物を認識しづらいんだ。認識するには余程接近するか、霊能力のような特別な才能が必要になる。あとは、子供も認識しやすいかな。それで、警察や自衛隊に霊能力者や子供がいるか?」
「……いない」
「そうだ。現世に流れ込んだ瘴気が濃くなれば、魔物の存在も明瞭化し、多くの人たちが認識できるようになるだろう。しかしその頃には、より強い魔物が現れ、人間たちは結局歯が立たなくなるだろうがね」
僕は口をポカンと開けていた。
魔物は、ごく一部の人にしか認識できない――それじゃあ、既に魔物たちの天下が始まっているようなものじゃないか。そんな連中相手に、どうやって普通の人間たちは戦えというのか。
「つまり……警察の対策本部は役に立たない?」
「ああ。あんなのは、市民の声を受けて仕方なく作られただけだろう。所詮、ハリボテの組織だよ」
わかったかい? だからまともに戦えるのはお前くらいだ。父さんはそう付け加えたが、僕の耳には微かにしか届いていなかった。水の中で音を聞くように、輪郭の無い音が耳を震わせるだけだった。
「ねえ、ワタシ退屈しちゃうんだけど。わざわざこんな話してあげなくていいじゃない」
退屈そうに腕組みをして聞いていたサソリ女が、ガサガサとサソリの体を動かして父さんに歩み寄る。
そうして体を低くし、父さんの首に抱き着いた。白く透き通る腕が、蛇のように父さんの体に絡まり、頬と頬が触れ合いそうなほど密着する。
「――おい! やめろよ!」
僕は思わず叫んだ。自分の父親が、魔物とは言え、知らない女と親しげに体を触れ合わせることに異常なほど嫌悪感を抱いた。
「そ、そうだ! まだ、重要なことを訊いていないぞ!」
その一言で、サソリ女はつまらなそうに壁際へ引いた。一方の父さんは愉快げに見える。
「いいぞ。十年ぶりだ、遠慮なく訊きなさい」
過呼吸気味の息を整え、意を決して口を開いた。
「どうして……僕なんだよ? 戦える人間が限られているからって、どうして実の息子を、戦わせるんだよっ――!?」
微笑を浮かべる父さんを睨みつける。その視線を受けて、父さんは怯むどころか、おかしくて堪らないと言うように口を歪めた。その口が元の形に戻ったかと思うと、冷たい、全てを見下すような目つきで睨み返す。
「私はね、交通事故なんてしょうもない理由で突然命を絶たれた。知ってるだろ? 父さんは楽しいことが大好きで、まだまだやりたいことがたくさんあったのに……」
「それが、何の関係があるんだよ?」
「私は現世への恨み、憎しみ、羨望を抱いたままあの世へ旅立つ。そのはずだった。
そんな私に目を付けたのが、一人の“悪魔”だ。彼は私の暗い感情と、潜在能力に目を付けた。なんとその悪魔は、現世を手に入れようと画策していたんだよ」
魔王の次は悪魔か……。心底うんざりしながらも、父さんの話に耳を傾ける。今大切なのは、悪魔が存在するか否かなんてことじゃないから。
「私と悪魔は契約を交わし、共に現世を手に入れることにしたんだよ。
それでさっきの話だが、私たちは現世に通じる穴を開け、そこから魔界の瘴気と魔物を徐々に流し込むことにしたんだ。しかしここで、私たちの悪い癖が出てしまってね」
父さんの左手で顔を覆うと、小刻みに震えだした。笑いを堪えている。
「『魔王とその息子が戦ったら面白いんじゃないか?』私たちはそう思った。だから、お前とその周囲を徹底して狙うことにした。薄々気づいているだろう? お前以外の人間はほとんど襲われていないことを。少なくとも、命に関わる事例は世界全体でもほんの数件程度だ。にも関わらず、お前は何回死にそうな目に遭ったかな?
わかりやすく言うぞ。この戦いは、魔王と悪魔が演出する“エンターテイメント”なんだ」
エンターテイメント? そんなことのために、実の息子を狙って、僕の友達を誘拐して、面白がっているのか……?
何かが割れる音がした。
それは、僕の思い出が割れる音だと気付いた。父さんと遊んだ思い出。父さんと肝試しに行った思い出。父さんの演奏を聴いていた思い出。父さんと――父さんと――父さんと――――。それらがガラスのように割れて、最後の煌めきを見せながら粉々に砕け散った。破片すら残らず、寒々しい風に乗って吹き散らされた。
あの頃の、みんなの笑顔が大好きな父さんは死んでしまった。その死体から抽出されたのは、歪んだ遊びで悦に入る、子供のような“魔王”だった。
呆然とする僕の目の前で、父さん――いや、魔王は腕時計を一瞥すると舌打ちした。体を寄せるサソリ女に耳打ちすると、僕に向き直った。
「残念だが、もう戻らないといけない。まだ現世に流れ込んだ瘴気が薄くてね、こちらでの活動時間が限られているんだ。
叶銘……こんな立場だが、久しぶりにお前と話せて楽しかったぞ」
ふっと笑う魔王。そのはにかんだ表情は、遠い昔に好きだった父さんの笑みだ。
父さん……僕は亡者のように力なく腕を伸ばし、その笑顔を、父さんが父さんのままでいるうちに掴もうとした。
「じゃあ、もう用済みだから人質を返すよ」
魔王は右腕に抱えていたアキトを、ゴミ袋でも投げるように軽々と投げ飛ばした。安らかに眠るアキトが僕の横を一瞬の内に通り過ぎ、
ゴッ――
背後で固いものがぶつかる、鈍い音がする。
体が震える。ゴクリと唾を飲み込んで、不出来なからくり人形のようにカクカクと振り返った。
打ちっ放しのコンクリートの壁に、鮮やかな赤い染みが付いている。その下では、額から血の筋をいくつも垂らして、アキトが無残に転がっていた。苦痛に顔をゆがめ、コホッと赤い飛沫を吐き出す。
「キ――きょっ――鏡治ィ!」
がむしゃらに駆け出した。握りつぶすほどに力を込めた名枕に、アキトの血の色を受けたような紅色の「キョウジ」の文字が刻まれる。
声にならない獣のような咆哮と共に、名枕の刃を正面に突き出す!
鏡治の脚が鞭のようにしなった――それを目にした直後に、手の中の名枕が弾き飛ばされた。勢いそのままに、脚はぐるりと首に絡まり、顔面を灰色の床に叩きつけた。目の前が白黒に点滅し、鼻や額に痺れる痛みが広がる。
情けなくうつ伏せになった僕の後頭部を、鏡治の革靴の踵が押さえ付けた。
「じゃあ、そろそろ帰らせてもらうよ。せいぜい一年後まで、私を退屈させないでくれ」
口が床に押し付けられて、うめき声しか上げられない。そのうちに、頭にのしかかる重さが軽くなっていった。やがて重さは完全になくなり、ようやく自由になった頭を上げて叫んだ。
「――鏡治ッ!」
そこに、鏡治の姿は無かった。
寂しげに降り注ぐ雨に混じって、黒煙のようなもやが地面に降りていく。窓枠に体を預けて見下ろすと、その黒煙は溶けるように地面に吸い込まれて、跡形なく消えてしまった。魔界に通じる穴とやらに潜り込んだのだ――。
何もできなかった。
魔王を倒すどころか、赤子のように振り回されただけだった。
突きつけられた真実はただ残酷で、滑稽なものだった。要はこの世界も、僕自身も、今は魔王たちのおもちゃに過ぎなかったということだ。
――ひゃははと、下卑た笑いがこぼれた。
心のどこかで、僕は自分が「選ばれた人間」だと思っていたかもしれない。この世界を救うヒーロー、正義の味方、運命に導かれた戦士。そしてその正体は、敵の親玉が作り出したピエロだったんだから……。
「ホントに滑稽よねェ、アンタ」
糸が切れたようにうなだれる僕の横で、サソリ女は無表情でつぶやいた。




