三話【世界の中心地】
十年以上訪れなかった廃ビルに向けて、僕の脚は導かれるように進んだ。頭の中はごちゃごちゃしているのに、脚だけは別の意思で動いているみたいだ。
僕の記憶からは、例の廃ビルへのルートはすっかり抜け落ちていた。それでもマンションを出た瞬間、迷うことなく駆け出していたのだ。
なぜ、二人が誘拐されているのか?
あの声は、本当に父さんのものだったのか?
そもそも、父さんと魔王が同一人物なのか?
次々に浮かび上がる疑問を蒸発させ、傘を差しながら不器用に走り続けた。
ほんの五分走っただけで、その廃ビルにたどり着いた。顔は汗で、足元は飛び散った水滴で随分濡れてしまった。カーディガンの袖で汗をぬぐい、目の前の“木林ビル”を睨んだ。
窓ガラスは完全に無くなり、ビリビリに破れたカーテンがちらりと覗く。雨だれによる壁の染みはより深くなり、まるでビル全体が黒い涙を流しているみだいた。
その雑居ビルの壁面には、縦書きで控えめに「森ビル」と書いてある。そう、本当は「木林」ではなく「森」なのだ。
父さんと肝試しに行った夜、初めて僕はこのビルの名前を知った。間違った方で。まあ、暗かったし緊張してたから、仕方ないとは思うんだけれど。
当時の僕が「木林ビル」と言う度に父さんは少し笑っていたが、その時の僕は理由がわからなかった。しまいには、父さんまで「木林ビル」と呼びだしたので、中学生になるまでその間違いに気づかなくて、ちょっと恥をかいたこともある。
だからこそ、電話の相手が「木林ビル」と言った瞬間、僕は肝を潰した。この近所で、木林ビルはどこにもない。あるとすれば、僕と父さんだけがそう呼んでいた、この森ビルだけだ。つまりそれは、電話の相手が紛れも無く……
「いや、会えばわかることだよな」
かぶりを振り、傘を入口脇に立てかけて中に入った。
昼間だというのに、妙に暗い。雨が降っているとはいえ異常なほどだ。
埃とカビの臭いが充満する中、一階から順に部屋を回って行った。昔入った時と同じように、室内はガランと空洞になっている。賑わっていた当時、そこに何があったのかを推し計ることすらできない。少なくとも、当時のそこにいた人達は、将来ここに魔王を名乗る男が来るなど想像もしなかっただろう。
「で、その魔王は僕の父さんかもしれない……ってさ」
当時の人が今の言葉を聞いていたら、何を馬鹿なこと言ってるんだと笑い飛ばすだろう。むしろそうして欲しいくらいだ。「魔王? しかも父親? 君ィ、ゲームのやり過ぎじゃないかね?」と。そうですね、僕はちょっと正気じゃなかったのかも……それで終わればいいのに。
軽く笑って、その部屋を出た。まだ四階分残っているのだ。名枕を右手に握り、慎重に探索を進めて行く。
二階――何もなし。
三階――何もなし。
四階――何もなし。
各フロアの探索を終える度、安堵と不安が湧きあがる。やっぱり、ただの悪戯電話だったのだという安心感。この次の階こそ、魔王がいるのだという不安感。階段を上っていくにつれ、その二つの相反する感情が背中にのしかかる。
階段の踊り場の窓から、低くなった地面を見下ろす。傘を差して通り過ぎる人々は、今この廃ビルで、世界の命運を左右する(かもしれない)二人が出会おうとしていることを知らない。
そうして五階。屋上を除けば、このビルの最上階だ。
名枕を強く握る。僕はすり足で、この廃ビル最後の一室に乗り込もうとした。
歌声が聞こえてきた。
驚いて脚を止め、聴覚と意識だけをその部屋の中へ滑り込ませる。
あの声――あの歌詞――あのメロディ――その全てが懐かしい。とっくに記憶の海の奥底に沈んだ“あの歌“が急浮上し、大量の泡となって僕の頭の中で弾ける。パチンパチンと弾けると同時に、自然と頭の中にメロディが流れ込んでくる。耳から入ってくるメロディと、記憶から蘇ったメロディ。その二つがシンクロし、僕は息をするのも忘れて聴き惚れていた。
「――叶銘。隠れてないで、早く入ってきなさい」
いつの間にか歌は止み、代わりにその優しげな声が部屋の中から投げかけられた。
驚いたことに、僕の警戒心は完全に武装解除していた。だらりと腕を下げ、柔らかい風に押されるように脚を踏み出していた。
ここに上がってくるまで、何度も見た寂れた部屋。家具も商売道具も何もなく、あるのは埃とカビの臭いだけ。それは何も変わらない。
しかしそこには人がいた。魔王と、その横に立つ、上半身が裸に近い女。その女は絶世の美女と言っても差し支えないほどの美貌を持っているが、その下半身は人間の物ではない。巨大なサソリだ。巨大なサソリの頭から、美女の上半身が生えている形だ。
「――アキト! 美津姫さん!」
魔王はアキトを抱え、サソリ女はその光沢のある丸い背中に美津姫を寝かせている。二人とも目をつぶっているが、呼吸はしているように見える。人質なのだから生きていないと意味は無いのだが、とにかくホッとした。
「悪いな、叶銘。こうでもしないと、お前は来てくれないと思ってな」
「お前は……」
紛れも無く、テレビで見たあの魔王だ。今回は背広ではなく、えんじ色のセーターに細身のジーンズというラフな服装だ。
大きく違うところと言えば、その目。テレビではその目に冷たい殺気を宿していたが、眼鏡の奥から覗くその目は、家でくつろいでいるかのように穏やかだ。
「――ハァ。叶銘、一か月も経つのにまだ迷ってたんだな」
魔王は心底呆れたという表情でため息をついた。
「息子に『魔王』と呼ばれるのも居心地悪いから、最初にはっきり言っておくよ。私は“魔王”であり、お前の父親である“神木鏡治”その人だ。わかったね?」
魔王……いや、父さんは、僕が一番気にしていたことをあっさりと言い切った。認めざるを得ないことを何度突きつけられても、それでも認めたくなかったことを――。
やはり、この世界を滅ぼそうとしているのは神木鏡治――僕の父さんだったのだ。




