十二話【獣達の闇夜】
「それじゃ、行ってきます」
戯流堵の制服を着て、見送る母さんと彩音に行ってきますを言った。腰には名枕とアイテムを入れたウエストポーチ。二人は知らないだろうが、完全な戦闘態勢だ。
「こんな時間からバイトなんて、兄ちゃん大変だねー」
晩御飯を食べてお腹いっぱいの彩音は、時々遠慮なくあくびしている。僕が目いっぱい口を開いても、彩音の口の大きさには敵わないだろう。
「最近物騒だから、気を付けなさいよ」
母さんは暗に“魔物への注意”を、その言葉に含んでいた。僕が今から闘いに行くとはしらないだろうが、思いがけずドキリとしてしまった。
「心配いらないよ。僕だって男なんだからさ」
そう言って、僕は小さい力こぶを叩いた。なんだか一層心配そうな顔を見せる二人だが「まあ、好き好んで叶銘(兄ちゃん)を襲う人なんていないよね」と、失礼な言葉を放って納得してくれた。
ちょっぴり膨れながら、僕はまず自宅の最寄駅に向かった。
四月二十三日火曜日。
双頭の犬の魔物の情報を手に入れた翌日だ。もしもその魔物が移動を繰り返していれば、次に消息をつかめるチャンスがいつになるかわからない。そのため僕は、前回より早めに行動に出たのだ。
本当は学校を終えたらすぐ向かって、現地で情報収集するつもりだった。しかしレポート提出に追われるのが、大学生勇者の辛いところ。超特急で済ませても、この日の夜に赴くのがやっとだった。
茜さんと動画投稿者によれば、出没する時間は決まって夜らしい。これまでの傾向からしても、魔物は夜や暗いところを好むのだろう。上手くいけば、今夜速効で決着がつけられる。
僕は電車に乗って北へ向かった。ちょうど湊小学校がある方向で、窓の外ではその懐かしい校舎が通り過ぎて行った。「あのプールで、スライム三匹と闘う羽目になったんだよなぁ」あの時の光景を思い出そうとして、やめた。暗くて不気味な校舎を回るわ、スライムに溶かされかけるわ、窒息させられそうになるわ……ロクな思い出なんて無いのだから。
「でも、ワタシとデアエタでしょ?」
「――お前は、僕の心を読む機能もあるのか?」
僕のいる車両には、遠くに高齢の夫婦や眠りこける会社員がいるだけなので、胸ポケットのネイサと会話するのは難しくない。
確かに、ネイサを手に入れたのは大きなプラスとなった。こうして話し相手にしてもいいし、相手の名前を検索する機能もある。そしてそれは、未知の魔物に対して特に有効なのだ。
「――なんだかんだで、僕は恵まれてるのかな?」
「キュウにドウシタ、カナメ?」
「あんまり話したくないけどさ。僕は父さんが死んでから、結構暗い青春を送ってたんだよ」
こんなこと、アキトにだって話したことは無かった。それをネイサに話しているのは、彼女が所詮プログラムだからなのか。魔物と闘う相棒だからなのか。ただ、僕の心は案外落ち着いていた。
ポケットの中のネイサを見る。スマートフォンの画面の中で、彼女は琥珀色の目をまっすぐ僕に向けていた。いつも読んでいる本は閉じていた。
「大学に入って、まずアキトと友達になった。今年は美津姫が友達になって、魔物っていう存在のおかげで、あの子とも仲良くやっていけてる。恥ずかしながら、女友達ってあの子が初めてなんだ」
ネイサは口を挟まず、まばたきもせず、僕を見たままだ。
「スライムを倒して、アルバイトも始めることができた。マスターは……まだ苦手だけれど。ジョンさんやお客さんたちとも知り合うことができた」
「――ソウダネ」ネイサはそっと、その一言だけ添えた。
「まあ、『父さんが魔王になって地球侵略』っていう大問題が転がってるけど、それもきっと、なんとかなるんじゃないかな。チャップマンも言ってたよ。『君が思っている以上に、多くの人が君を見守っている』ってさ」
「まもなく~大黒~♪ 大黒~♪」
車掌独特のあの声が流れてきた。線路の先に、目的の大黒駅が見えてきた。優しくブレーキを掛けられ、電車は徐々にスピードを落としていく。
「カナメ、イッコまちがえてる」
既に会話は終わったと思っていた僕は、ちょっと驚いてあごを引いた。小さな画面でわかりにくいが、ネイサの表情が柔らかく感じられる。
「『暗い青春』はセイシュンなんかじゃない。イマ、このトキが、カナメのセイシュンだ」
そう言って彼女は、手元の本を開いて見せてくれた。初めて中身を見るが、そこには数字やアルファベットが並んでいるだけで、僕には全く解読できなかった。
彼女はその中の一文を指さして言った。
「ココにもカイテある。『ボーイズ・ビー・アンクシャス』と」
まさかクラーク博士の名言がそんな怪しげな本に書いてあるとは思えないし、その上間違っている。これでは「少年よ、不安を抱け」だ。
「馬鹿だなぁ。“ネーム・サーチャー”様が、そんな間違いするなよ」
「ねえ、カナメ」
「なに?」
「イマ、タノシイ?」
プシューと鼻息のような音を立てて、電車の扉が開いた。
「――うん、楽しいよ」
スマホをぽんと叩いて、大黒駅のプラットホームに降り立った。
大黒駅は、無動山という小さな山の麓にある、やはり小さな駅だ。周囲に民家は少なく、代わりに田畑が広がっている。
どこからか、風に乗って動物の生臭い臭いがした。近くに鶏舎や牛舎があるのかもしれない。もしも魔犬がいるのなら、そこを狙わずにはいられないだろう。鼻を押さえながら、嫌々ながら臭いの強い方向へ歩いて行った。
喧騒を離れたここ無動山の麓には街灯も無い代わりに、街中よりも星の光が眩しい。いつもぼんやりしていた月もはっきり見えた。星空たちに負けまいと、草むらではジィーッ、ジィーッと虫たちが騒いでいる。用水路のちゃぷちゃぷという涼しげな音と混じりあい、ちょっとした自然の演奏会になっていた。ただ、やはり臭いが邪魔なのだが……。
ほどなくして牛舎が現れた。こんな夜更けに関わらず、牛たちは何かを訴えるように、しきりに鳴き喚いていた。言葉が通じなくても、それだけはわかる。
「原因は、アレか」
牛舎の脇に、人間より一回り大きい動物が横たわっていた。死臭を振りまくその死骸は血にまみれ、月の光を鈍く映していた。
遅かったか!? そう思い、牛の死骸に恐る恐る近づいた。暗さに慣れてきた僕の目は、その四つ足の動物の正体を目の当たりにした。
それは牛ではなかった。二つの頭を持った巨大な犬だった。僕たちがこれから倒そうとしていた魔物、そのものだ。
「……一体、どうなってるんだ?」
その魔犬の四肢はあらぬ方向に曲げられ、その内の一本と尻尾は体からちぎれそうに皮一枚でつながっている。ごわごわした漆黒の体毛は一部乱暴に引き抜かれ、抜かれた箇所から肉を抉り取られている。最大の特徴である二つの首からは、目玉から耳に鼻まで、柔らかい部分はむしり取られて無くなっている。目玉があったはずの四つの空洞は、空しく夜空を仰いでいた。
「うぐ――ウエッ!」
あまりに凄惨な光景に、その場から逃げ出した。
嗚咽が漏れる。口から酸っぱいものを吐き出しながら、たった今歩いてきた道を懸命に走った。灯りがほとんど無いため、前に進んでいる感覚が薄い。夜の海の中を走っているようだ。
走って、躓いて、もがいて、また進んで。
視線の先、大黒駅の仄かな光が目に飛び込んだ。ああ、助かった。今はその光が宝石よりも黄金よりも眩しい。
理由はわからないが、魔犬は死んでいた。ひょっとしたら、猟師か誰かが退治してしまったのかもしれない。
そんなことありえないだろうという反論を押しのけ、必至で自分自身を騙そうとした。「誰だっていいじゃないか! 結果オーライだ!」と。あとは、このことをマスターに報告すればいいんだ!
大黒駅まで、あと三百メートルほど。恐怖と疲労で震える脚を、僕は懸命に動かしていた。
しかし突然、鋭い痛みと共に脚が力を失い、カクンと膝を折った。脚の踏ん張りが利かず、一度前転して道路に突っ伏した。訳も分からず立とうとするが、糸が切れたように言うことを聞かない。
おそるおそる脚を撫でる。ぬるりとした感触と共に、足首と膝周りがぱっくりと裂けていた。暗くてわからないはずなのに、触れた手が血で真っ赤に見えた。体中の血がサアッと引っ込む感覚に襲われた。
「人が楽しく食事しとったちゅうのに、なんやねん自分?」
僕の左側、無動山に茂る木々の中から、妙に甲高い男のような声がした。その声の主に懐中電灯を向け、僕は肝を潰した。
そこにいたのは、巨大な猿だった。大きさは大人のゴリラほどはあるが、そのふさふさの体毛としわくちゃの赤い顔は猿のそれそのものだ。ただ、その目は異様に細く吊り上がっており、口から覗く牙は巨大な釣り針のように鋭い。
のそのそと、茂みの中から姿を現す猿。それでわかったが、そいつの金色の体毛が血に染まっている。あの魔犬から流れ出ていた、赤紫色の邪悪な血液。それが猿の全身にまだら模様を作っていた。
「おっ、お前が……あの魔犬を殺したのか!?」
「せや。だから言うとるやろ? 食事の邪魔して欲しなかったって。自分は知らんかもしれんがな、死んだ魔物の肉っちゅうんはすぐに炭みたいになって、ごっつマズなんねん」
説明しながら、猿は僕の眼前にその赤い顔を近づけた。口の中から、あの魔犬の死臭が漂ってきて鼻が曲がりそうになる。
そんな僕の様子を見て、猿はその細い目を歪め、その目に届く勢いで口角を上げた。露出した歯茎は憎らしいほど綺麗なピンクで、そこから生える歯は鉄の扉のように隙間なく立ち並んでいる。
逃げなくちゃ――!
逃げないと――!
あの魔犬の姿が浮かび、僕の未来の姿に重なった。体中の肉を食いちぎられ、骨をかみ砕かれ、目玉を抉り出される。食い散らかされて、血の池に溺れる。魔犬はやがて炭になるだろうが、僕の死体は寒空の下、無残な姿でそこに放置される――。
「せっかくこっちの世界に来たんや。こっちのイキモノを味わってみるっちゅうのも、悪うないやろ」
猿の口が大きく開かれる。上下の歯は、ギロチンの刃に変わる。その奥には、死よりも深い闇が渦巻いていた。
死にたくない!
無我夢中で、僕は猿の顔を撮影した。
「ウギッ!?」撮影時のフラッシュをまともに受けて、猿は目を押さえて怯んだ。
「ネイサッ! 全速力で検索!」
「リョ、リョーカイ!」
目を丸くしながらも、ネイサは光を放ちながら空中図書館の書棚から本を次々呼び寄せる。宙を舞う本たちの動きも慌ただしく、ところどころで衝突が起きたり、ページがくしゃくしゃに折り曲げられていった。
時間を稼がないと! 僕は残り一個となった発煙弾のレバーを外し、その場に叩きつけた。家一個丸ごと包むほどの白煙が一瞬でその場に放出される。目の前にいた猿すら、もう見えなくなっている。
急いで傷薬を脚に塗った。傷が深いせいか、瞬時に傷を治すこの薬ですら回復に時間がかかりそうだ。
しかし悠長に回復を待つ暇も無い。腕の力だけでその場から距離をとる。大黒駅までに姿を隠せる遮蔽物は無い。そうなると、無動山に入るべきか。そこなら姿を隠せるし、上手く行けば猿の不意を突いて倒すことができるかもしれない。
一歩、一歩。僕は希望を手繰り寄せるように、腕を前へ前へと繰り出した。
「自分、逃げられる思うとるんか?」
その不吉な声と共に、体がふわりと浮いた。腹のあたりを抱えられ、僕と猿は弾丸のように地面から跳んだ。遠く眼下には、発煙弾の煙が何事も無く吹き出し続けている。無動山の頂上よりもさらに高く、僕と猿は空に吸い込まれていった。
「自分、ただの人間やないな。迂闊に噛みついたら、こっちが痛い目見ることになりそうやわ」
上昇するスピードが落ちる。猿の驚異的なジャンプの最高到達点にたどり着いた。静かな夜空で、僕と猿はピタリとその場に止まった。
「だから、まずはお前の息の根を止める。食うのはそれからや」
そう冷たく言い放つと、猿は僕をゴミのように地面に放り投げた。
内臓がふわりと浮く感覚を味わいながら、僕は落下を始めた。山より高いと言っても、落ちるのはあっという間だ。恐怖と焦りで、僕は全てを諦めた。ただ、少しでも静かに死を受け止めるために。
走馬灯は見えなかった。でも、見えなくて良かった。だってそうじゃないか。つまらない人生だったんだから。もう一度見る方が酷だ。そう思い至って、そっと目を閉じた。
「……メ! ……ョク!」
近くで何かが聞こえた。聴覚に訴えるタイプの走馬灯かと、変なことを思った。
やっと気づいた。これはネイサの声だ。あの、機械の合成音声のような。
「イマ、このトキが、カナメのセイシュンだ」そんな嬉しいことを言ってくれた声。ついこの間出会ったばかりのくせに、偉そうに。真っ逆さまになりながら、僕は笑っていた。
「カナメ! ジュウリョク!」
目を見開き、ウエストポーチから名枕を引っ張り出した。そうか、そういう使い方ができるかもしれない!
「重力!」
名枕にそう叫んだ。果たして名枕は、その刀身に「ジュウリョク」と光の文字を浮かべた。それを自分の体に当てた。錆びついた刀身から、パチパチと静電気のような刺激が全身を駆け巡った。
ふわりと、空気のクッションに抱かれたような感覚。重力、すなわち“重さ”を無くした僕は、落下時の空気抵抗をモロに受けて急速にスピードを落とした。地上まで約十メートル。ギリギリだ。
しかし、ひょっとして一生このままなのか? その疑問はすぐに解けた。緩やかにだが、落下速度が上がっている。重さが戻ってきたのだ。名枕の効果は、あくまで一時的なものらしい。僕は安堵して、地面に降り立つべく姿勢を整えた。
「ほらな。やっぱただの人間じゃないやん」
ぞわりと総毛立った。声に誘われて空を仰いだ瞬間、その分厚い掌に首根っこをつかまれ、地面に叩きつけられた。大の字になって地面に磔にされる。顔のすぐ横には、役目を終えた発煙弾が転がっていた。
「一部始終見せてもろうたで。ガチガチに錆びついとんのに、大層な銅剣やなぁ。でも、こうして喉を絞めて黙らせれば、今の力は使えんやろ?」
「ゴホッ――かはっ――!」
声にならない声を上げながら、猿の手を引きはがそうとする。しかしビクともしない。毛に覆われたその腕は、まるで彫刻のように固い。殴っても、爪を立てようとしても、易々と弾かれてしまう。
煌々と輝く星々に助けを求めるように、右手を空に伸ばした。
助けて……助けて……助けて……!
その願いを拒むように、僕の視界の隅から星の煌めきが消えていく。
行かないで! 消えないで!
視界の中心の星々、それだけは逃がさないようにと、右手を握っては開き、また握ってを繰り返した。
「残念やけど、星は助けてくれんで。あんちゃん」
万力のような猿の手に力が込められた。ぐちゅっと嫌な音が聞こえて、僕の視界は完全に闇に呑まれた。
縋るように伸ばされた右腕が熱を帯び、何かをつかんだ。「星でもつかんだのかな」残念ながら、それを確かめることなく僕の意識は途切れた。
「お父さん、お母さん、彩音――」
「ぼくは、負けないからね」




