九話【ネイサの風景】
「んで、兄ちゃん。バイトの調子はどうなの?」
リビングの二人掛けのソファに寝転がっている彩音が、テレビに視線を置いたまま質問だけ投げかけた。テレビの中では、今若者たちに流行のビジュアル系ロックバンドが歌いながら飛び跳ねている。昼間に見たゴブリンが可愛く見えるほど、禍々しい衣装とメイクで着飾っていた。実は、この人たちも魔物だったりするんじゃないだろうか?
昼間の下見を終えて、僕は戯流堵に一旦立ち寄った後、自宅に帰った。ちょうど夕食の準備が始まったところで、楽な服装に着替えて母さんの手伝いに入った。彩音の方は、今日も友達の家か隣町で遊んでいたようだ。
石鹸でしっかり手を洗う僕の首元を見て、母さんは嬉しそうに言葉を投げかけた。
「そういえば叶銘。私のお土産、ちゃんと着けてくれてるのね」
「うん。結構気に入ってるからさ」あの青く澄んだ勾玉のペンダントだ。実際気にっていたし、着けてないと母さんの機嫌が悪くなるのだから迂闊に外せない。
「そう。よかったよかった」
母さんは安堵したように笑顔を浮かべて、熱したフライパンに肉を炒め始めた。その間に、僕は隣で玉ねぎを薄切りにしていく。母さんが切ると何ともないのに、僕が切ると涙が止まらない。料理に対する年季が違うということか。
ぐじゅぐじゅになる僕の顔を見て、母さんは一層笑顔を膨らませていた。
「ただいまー! あ~、今日も疲れたぁ!」
騒がしいのが帰ってきた。僕と母さんが「おかえり」と言う前に、彩音は顔を洗いに行ってしまった。
昼間の出来事が夢に感じるほど、ここには温かい家族の安らぎの空間がいっぱいに詰まっていた。
ここに、あともう一人――父さんがいれば。そう考えずにはいられなかった。父さんは見ているのだろうか? 僕らの、この三人の暖かな生活を。見ているのなら、魔王なんてやめて、この家に帰ってきてくれよ。
それとも、本当にこの世界を滅ぼすことしか考えていないのか? もしそうなら、僕が倒さないといけないのか? なあ、そろそろ教えてくれよ。
「――叶銘、ちょっと切り過ぎよ」
「――えっ?」
僕の手元では、向こうが透けて見えるほど玉ねぎが薄切りにされていた。考え事をしているうちに、僕の手は機械的に振り下ろされ続けていたようだ。
「バイトは順調だよ。慣れない仕事で焦ったけれど、なんとかやっていけると思う。まあ、まだ一週間も経っていないけれどさ」
「でも叶銘、あんた……」
母さんが、言いにくいけれど、でも言わなくちゃという声で言いよどんでいる。その声で、言わんとしていることはわかる。「あんた未成年なのに、お酒飲まされたりしてないかい?」だ。飲み比べ勝負の後、ソファで爆睡していたのだから、母さんも彩音も僕がアルバイト中に飲酒をしたことはわかっているだろう。
「ごめん。でも、もう大丈夫だからさ。この前は運悪く、酔っ払いに絡まれて……まあ、それで……」飲んじゃいましたとは、それでもはっきり言えなかった。実際は自発的に飲んだことも。
「またあんなことになったら、私が店長さんに話を付けに行くからね!」
「兄ちゃん、顔の割になかなかワイルドなとこあるじゃん? でも、駄目なモンは駄目だからね~」
こっちの気も知らないで。でも、説明することもできない。
何も言い返せず、口を尖らせてテレビの画面を睨んだ。アイドルの可愛らしい歌声が、頭の中でキンキン響いた。
四月二十一日日曜日。
僕は昨日と同じ場所、同じ時間に「轟紡績三宮工場」を見下ろしていた。大きく異なる点と言えば、今日の僕は戯流堵の制服を着て、マスターから渡されたアイテムを各種持って来ているという点だ。
昨日は家に帰る前に、戯流堵に立ち寄っていた。ゴブリンが七匹いたことの報告と、どうやって戦えばいいのかを相談に言ったのだった。
顔と体中に古傷を負ったマスターは、昔は(おそらく今でも)かなり“ヤンチャな”人生を送っていたのだろう。そんなマスターですら、魔物との戦いに関して助言できることは無いらしい。肩を落とす僕に、マスターは何かを思い出した顔で口を開いた。
「そういやぁ、チャップマンの奴が言ってたぞ。『魔物と闘う時には、あの制服を着ておく方がいい』ってよ」
なんのことやらと付け加えるマスター。僕にもチャップマンの真意はわからなかったが、しっかり心に留めておいた。そして、思い切って実行したのだ。
普通に考えればおかしな話だ。店の中ならともかく、外であんな真っ黒な恰好をしていれば好奇の目に晒される。実際、家を出る時彩音に「兄ちゃん、その格好で外出するの? うわぁ……」と力いっぱい引かれた。
だというのに、どうだ。すれ違う人々は、僕の姿を見るとサッと視線を逸らそうとする。最初こそ「ちょっとおかしな人間に見られているのか」と傷ついたものだが、よく観察すると少し様子が違う。
彼らの目は、侮蔑とか拒絶といったマイナスの感情を映していない。例えるなら、目の前に憧れの先輩が急に現れて、視線を合わせられないような。そんな尊敬と遠慮が合わさったような眼差しだった。
もう一つ変なのは、このウエストポーチだ。小さいポケットは普通なのだが、大きいポケットの容量がおかしい。だって、それよりずっと大きい名枕をすっぽり飲み込んでしまうのだから。恐る恐る手を突っ込んでみたら、見た目の五倍近い空間が広がっていた。
こういうことにはとっくに驚き疲れたと思っていたのに、こうして目の前に現れると毎度のように驚き慌てていた。遊ばれているようで気分が悪いが、自分に有利に働く物が多いのだから腹を立てづらい。
今日のゴブリンたちは、昨日より姿を現すのが遅かった。
時刻は夕方五時過ぎ。陽が徐々にオレンジ色を帯びてきたところで、例のマンホールが横にずらされていった。周囲を警戒しながら、ゴブリンたちがぴょこぴょこと飛び出してくる。手に手に、戦利品と思しき金品やガラクタを持っている。やはり、その数は七匹だ。
その光景を、今回はネイサと一緒に観察する。今日はバッテリー満タンなので、彼女を起動させるのにも遠慮はいらない。
「ねえ、カナメ。タイセツなこと、ワスレテナイ?」
「え? 大切なこと?」
「ホントウにアイツらのナマエが『ゴブリン』か、タシカメテナイでしょ」
そういえばそうだった。那須さんやこの近辺の人たちが「ゴブリン」と呼んでいただけで、それが正しいのかは誰にもわからない。そして名前がわからないということは、名枕の力が発揮できないわけで……
「……まずいじゃないか」
「ダカラ、ワタシがいる。“ネイサ”こと、“ネーム・サーチャー”が」
「“名前検索機”ってことだよな。それで、具体的にはどうすればいいんだ?」
ネイサは両手の人差し指と親指を直角に伸ばして、右目の前で四角を作った。左目は柔らかく閉じられ、色っぽいウインクを演じている。
なるほど、撮影しろということか。カメラのアプリを起動させ、最後尾のゴブリンを狙った。距離が離れているため目いっぱい拡大しても小さいが、その表情や持ち物がしっかり確認できる。スマホのカメラの進歩に感謝だ。
パシャリと一枚。あまり保存しておきたくない写真が見事に撮れた。再びネイサの方に画面を移す。
「撮れたよ。これで、どうすればいいんだ?」
「オッケイ。アトはワタシにマカセテ」
いったい何をするのか。怪訝に思う僕を無視して、ネイサはいつも読んでいる文庫本をカウンターに置き、そっと目を閉じた。長く細やかなまつ毛が、彼女の顔に影を落としそうだ。
出し抜けに、彼女はその細腕を左右に広げた。簡単に折れてしまいそうな白い指が、一本一本ピンと伸ばされる。同時に背中を軽く反らせ、ツンと生意気そうな鼻先が空のさらに高いところを仰ぐ。一度、大きく深呼吸をした。その呼吸に合わせて、性格の割に控えめな胸が上下に動く。
彼女がその息を吐き切った時だ。金属が擦れるような音と共に、その小さな体が黄色い光に包まれた。画面を通して、彼女の住まう空間が震える感触が伝わってくる。
ネイサの光に触発されたように、青空に整然と浮かぶ無数の白い書棚もまた、同じ光を発し始めた。その中にぎっしり詰まった本がカタカタと震え、一冊――二冊――三冊と、意思を持ったように飛び出した。ほんの数秒の内にその数は何百冊となり、パラパラとページをめくりながら鳥のように彼女の周りを旋回する。さながら、ネイサという太陽の周りを公転する惑星のようだ。
目を閉じたままの彼女に見せるように、旋回する分厚い本たちはパラパラと高速でページをめくる。最後のページまで見せ終わると、その本は元の書棚に戻っていく。その代わりと収まっていた本がまた飛び出して、同じように彼女の周りを旋回し始める。
その非現実的な光景に、いつしか目を奪われていた。もちろんアプリの内部は現実とはまた違った世界なのだが、そこには見る者を引き込む美しさがあった。
ネイサのことを太陽に例えたのは間違いだったかもしれない。改めて例えるなら、小鳥たちと戯れる妖精の少女――僕にはとても似合わない、そんなメルヘンチックな例えさえ浮かんでしまった。
つと、彼女の薄いまぶたが持ち上げられる。纏っていた光は徐々に弱まって消えた。それを合図に、宙を舞う本たちは次々と持ち場に帰り、その全てを収納すると書棚たちもまた光を消した。
ふうっと一息つくと、彼女は元の姿勢に戻って、ぽけ~っとする僕にいつもの口調で言った。
「マチガイない。アレはゴブリンだ。ダイセイカイだったな」
メルヘンはどこへやら。機械的で、つっけんどんな口調だ。安心したような、残念なような。
「ナニをボケてる? コレでアンシンしてタタカエルじゃないか」
歩道に備え付けられた駐輪場に自転車を停め、僕らは轟工場に向かった。すれ違う人々の視線は、やはりどこか恭しい。
目の前に建つ轟工場は、堤防から見下ろした時より迫力があった。そして錆びていた。民家や他の工場から離れた位置にあるこの廃工場は、“錆び”以上に“寂び”を感じさせる。
工場周辺の伸びきった雑草に身を隠しながら周囲を見渡す。見張りなどがいないことを確認すると、一気に駆け寄って塀に貼り付いた。身を潜めながら、ゴブリンたちが入って行った、右手前の倉庫に擦り寄って行く。
「カナメ、どうやってタタカウ?」
ズボンのポケットから声をかけるネイサに、僕は昨日から考えていた案を話した。
「名枕は、一度効果を発揮すると一旦力が無くなる。一対一ならともかく、七匹を相手にするのは難しいんだ。
だから倉庫を潰して、一網打尽にする。この工場はもう何年も使われていないらしいから、誰かを巻き込む心配も無いだろう」
無意識にウエストポーチのポケットに手を伸ばし、その中の発煙弾に触れた。頭の中で、藤間先生が見せてくれた使い方を復習する。家でもイメージトレーニングは何度も繰り返した。
そうして壁伝いに進むと、塀の一部が崩れている箇所があった。ちょうど僕の胸当たりの高さ。ここなら飛び越えられそうだ。
心と体の緊張をほぐすように、念入りにストレッチと深呼吸を繰り返した。不安はある。しかし、その奥に戦いの高揚感が燃えているのを感じて、僕はそんな自分に少し驚いていた。
「よし、行くぞ」




