【神木かなめ】
ぼくのお父さんは、ある日交通事故であっけなくこの世を去ってしまった。
夏休み前の、学校のテストが返ってきた日だった。国語も算数も理科も社会もほぼ満点だった。いつも平均点くらいのぼくにとっては、神懸かった点数だ。
「叶銘。今回はよぉ頑張ったなぁ!」
いつもはしかめっ面で厳しい先生が、珍しくぼくを褒めてくれた。得意げになったぼくは学校が終わるまでうきうきで、意気揚々と家路についた。マンションの階段を一段飛ばしで駆け上がって行く。胸が高鳴るのは、ただ疲れたからじゃない。
帰ったらお母さんに自慢しようと思って、家に入る前からランドセルからテスト用紙を取り出しておいた。きっと、今日の晩御飯はぼくの大好きなものばかりになるはずだ。ハンバーグとか、グラタンとか、ピザとか。サラダは……いらないかな。
「ただいまー!」
いつもの倍ぐらいの大声が出てしまった。お隣さんの部屋にも響いちゃったかなと思って口をつぐんだけれど、言っちゃったものは仕方ないから気にせず中に入った。
「お母さん、ただいま!」冷蔵庫の牛乳を飲んで、リビングへの扉を開けた。
夕日が差し込むリビングの中で、お母さんは受話器を手に固まっていた。逆光になってその表情はよく見えなかったけれど、とても暗かった。眩しい夕日のせいだと思ったけれど、それだけじゃないことは、お母さんの表情でわかった。体の中から、影が滲み出ているような。そんな錯覚に陥った。
「叶銘……お父さんが……」
お母さんの肌は青ざめ、だけど目は真っ赤になっていた。
不穏な気配に圧されて、テスト用紙を手放していた。パサパサと、寂しげな音だけが部屋に響いた。
その時の言葉は、実はよく覚えていない。聞こえなかっただけかもしれないし、そもそもお母さんの口から、その決定的な言葉が出なかっただけかもしれない。
でも、その様子だけで、ぼくは子供ながらに悟ってしまったのだ。
お父さんとの唐突な別れを――。
それからは忙しかった。お母さんもぼくたちも、悲しみをごまかすように懸命に動いた。
人が死んでしまった後には、色々やることがあるらしい。ぼくにはよくわからなかったけれど、黒い服(喪服というらしい)を来た人たちや、お坊さんが家に入ってきた。お正月に会った親戚の人たちも、お父さんの仕事仲間のおじさんたちも、みんなみんな、その表情と同じ黒い服を着ていた。
妹の彩音は、お父さんが死んだ日からずっと泣き続けた。まだ六歳だったけれど、人が死ぬというのがどういうことか急速に理解していった。泣いて、泣いて、ちょっと泣き止んだらまた泣いて。そんなことの繰り返しだった。
一番酷かったのは、お父さんを棺の中の入れた時だった。彩音は顔をぐしょぐしょに濡らしながら、お気に入りのお人形や折り紙で作ったお花を詰め込んでいた。
ぼくも目を腫らしながら、お気に入りの漫画を棺の中に入れた。お父さんが向こうの世界で退屈しないように。子供たちが流行のおもちゃで闘う熱血漫画、いい大人たちがおバカなことをするギャグ漫画、あの世から蘇った青年が魔王と闘うバトル漫画。どの漫画も、お父さんが僕の目を盗んで読んでいたことは知っていた。そういう子供っぽいところがあったのだ。
お葬式が終わって火葬が済んだ頃には、ぼくの涙はとっくに枯れていた。焼かれて、白い残骸になったお父さん以上に、ぼくの心はスカスカになっていた。しかしその空洞だらけの心の奥に、小さな火が灯った。
「――ぼくがしっかりしなくちゃ。神木家の男として、彩音のお兄ちゃんとして。ぼくが家族を守るんだ!」
ぼくは頑張った。勉強も、苦手な運動も。同級生のみんなが子供らしく遊び呆けている間も、ぼくは頑張った。
三か月も経った頃には、ぼくは学年で一番の成績を収めるほどになっていた。そんなぼくを、お母さんも彩音も自慢に思ってくれていたと思う。二人の誇らしげな笑顔を見る度、ぼくも自分自身を誇りに思っていた。
お父さんがいなくなった穴は、徐々にだけれど、塞がっていったと思う。決して完全に塞がることは無いけれど、それでも、その穴に躓いてしまうことが無いほどには。
しかしそれは錯覚だった。ぼくは躓いてしまった。
ある日の放課後のこと、隣のクラスの権田がぼくのクラスに来た。彼は普段“ゴンタ”と呼ばれる、いわゆるガキ大将だった。そのイメージとは異なり、勉強も運動も得意で、通知表には三段階で最も良い“3”が半分以上占めていた。しかし性格は悪く、彼が連れて歩いている2トモダチ“も、ゴンタの顔色を窺っているのが丸わかりだった。虎……というより、熊の威を借る狐だ。
教室の引き戸の前で、ゴンタはぼくに視線を向けた。要注意人物の登場に不快になりながらも、それを表に出さないように努めた。
「よう、叶銘ェ。お前すげえじゃねえか。この前のテスト、完全に負けちまったよ」
「偶然だよ。たままた、勉強してたところがピッタリ当たったんだ」
実際の所、ぼくとゴンタとの学力の差は決定的だった。彼もそれは承知の上だろう。だからただ、負けた腹いせに嫌味でも言いに来たのだということもわかっていた。
ただ、酷くイヤな予感がした。ゴンタが引き連れていた舎弟は、爬虫類を思わせる薄ら笑いを浮かべていた。
その下品な笑みの正体は、ゴンタの言葉で明らかになった。
「ホント、大したもんだよ。お前、父ちゃんがいなくなっちまったのになァ」
教室がざわめいた。
わざわざ話すほどのことでも無かったので、ぼくはそのことを同級生には秘密にしておいたのだ。
しかし、小学生の世界は狭い。ごく一部の生徒には知られていたようで、運の悪いことに、そのうちの一人がゴンタだった。
みんなのひそひそ声が、柔らかな針となってぼくの全身を突き刺す。憐れむような、珍しいものを見るような、遠慮のない視線が心の中まで覗こうとする。胸の奥にしまい込んだ悲痛な過去が、無理やり曝け出されるようだ。
溢れそうになる涙と吐き気を堪えながら、ぼくは教科書をランドセルにしまった。「我慢するんだ! しっかりするんだ! 泣いたら負けだぞ!」と自分に言い聞かせる。なんとか自分を奮い立たせ、教室を出ようとした。
「お前の妹もかわいそうだよなァ」
ゴンタの横を通り過ぎようとしたとき、その一言が横から聞こえた。踏み出した足が、ピタリと止まる。
「一年生の授業が終わった時に、声をかけてやったんだよ。おんなじようにさ。そうしたらお前の妹、わんわん泣き出しちゃってさ。教室中大騒ぎ! もう見てられなかったぜェ」
ゴンタが「泣き出しちゃってさ」と言った時には、ぼくの耳には何も聞こえなくなっていた。白飛びした写真のように、目に映るものの光景から輪郭が消えていった。
意識するより先に、ぼくの拳はゴンタの顔面を捉えていた。不意打ちを受けて、ゴンタが派手に尻餅をつく。目を吊り上げて舎弟に喚き散らすが、その声ももう聞こえない。おそらく「おい、てめぇら! やっちまえ!」とでも言ったのだろう。
二人の舎弟はぼくに殴り掛かろうとして、直前でやめて走り去った。ぼくがその時、彼らにどんな顔を見せたのかはわからないが、想像はついた。彼らの後ろ姿を見送っているうちに、おもむろにゴンタは立ち上がり掴みかかってきた。
体格で勝るゴンタは簡単にぼくを廊下に押し倒し、がむしゃらに拳を振るった。だけど顔を殴られても、腹を殴られても、何も感じなかった。殴るほどに、優位に立っているはずのゴンタの顔が、恐怖に染まっていった。真っ赤に高揚した顔から血の気が引いて青くなる。いつの間にか、拳を振るうことも忘れてしまったようだ。
だからぼくは、彼の不細工な顔を殴った。大したパンチではなかったけれど、驚いたゴンタは自分から飛び退き、廊下の壁にしたたかに背中をぶつけてへたれこんだ。
立ち上がり、ゴンタを見下ろした。皮膚を突き破って筋肉が露出するのではというほど、右腕に力を込める。目の前のソレは、醜く震える肉の塊にしか見えなくなっていた。
固く握りしめた拳を、この世の不幸を全て打ち砕く勢いで突き出した。
「権田アァァーーーーッ!」
その拳がゴンタに触れた瞬間、右腕を中心にして全身に電流が走った。全身の血液が炭酸ジュースに変わった気分だ。ブレーカーが落ちたように意識が消えた。
暗転する視界の中で、光の筋が走る右腕が妙に眩しかった。
翌日の夕方、ぼくは病院のベッドで目を覚ました。
顔とお腹が痛かった。試しに頬を触ってみると、ガーゼの柔らかい感触と、消毒液のツンとした匂いが漂った。
脚のあたりが重いなと思って視線を向けると、彩音がぼくの脚を枕にして眠っていた。
「叶銘! ああ、よかった……」
顔のすぐ横から、お母さんの声が聞こえた。首を傾けると、目の下にクマを作ったお母さんがぼくを見下ろしていた。右から、左から涙をあふれさせながら、母さんはぼくの手を握った。いつものお母さんの手より冷たく、少し震えていた。
「お母さん、ぼく……」
「叶銘、ごめんね。ごめんね。無理させちゃって……。あなたは悪くないのよ……」
なんのことかわからなかった。喧嘩をしたのはぼくの意思で、お母さんは何も悪くないのに。
ただ、その謝罪があまりに切実で、ぼくは声を出すことができなかった。「わからないけど……わかったから! 謝らないでよ、お母さん……!」心の中で、何度もそう叫んだ。
後日知ったことだが、ゴンタも別の病院に入院していた。その怪我は小学生に付けられたとは思えないほど、凄惨を極めていたらしい。内臓から骨までダメージを受けていたゴンタは、二日間生死の境を彷徨っていたそうだ。後に傷は完治したらしいが、そのまま学校に戻ることも無いまま、彼は転校してしまった。
喧嘩から三日後。学校に戻ったぼくに居場所はなかった。まだ“父親のいない奴”という好奇の視線を集めていた方が楽だったかもしれない。同級生も、先輩も後輩も、先生も、ぼくを腫物のように扱った。小学生のぼくにとって、学校の人たち全員から拒絶されるというのは、世界に拒絶されるほどの思いだった。
だけど、ぼくは耐えた。耐えたんだ。
「――ぼくがしっかりしなくちゃ。神木家の男として、彩音のお兄ちゃんとして。ぼくが家族を守るんだ!」
お父さんの骨の前での誓いを、心の支えにして。
ただ、その心にはもう火は灯っていなかった。
そうしてぼくは、この世の海底に沈む貝になった。
ぼくのせいで、誰も傷つけたくない。誰にも泣いてほしくない。別の病院のベッドの上で、今も震え続けるゴンタ。手を握り、しきりに謝り続けたお母さん。鼻水をすすりながら、目覚めるのを待っていた彩音。その姿の一つ一つが、ぼくを小さな檻に閉じ込めた。
貝殻にこもるように、ぼくは学校で誰にも話しかけることは無くなった。ほとぼりが冷めた翌年には徐々に話しかけてくれる人も出てきたが、ぼくは最低限の受け応えで済ませた。その意図を察してか、再び話しかける人は減っていった。腫物ではなくなったが、代わりに“いてもいなくてもいい”存在になったのだ。
ただ、家ではその素振りを見せないようにした。大人であるお母さんは何か察するところもあったはずだが、彩音は呆れるほど何も変わらなかった。むしろ、ゴンタをやっつけたぼくを尊敬すらしていたようだ。
寂しくも平穏な学生生活はあっという間に過ぎて行った。いつの間にか僕は大学生になっていた。
入学当日にアキトという変人と友達になったのは予想外で、嬉しいような怖いような、複雑な気持ちになった。人と関わることに、この数年で随分臆病になってしまったようだ。相変わらずそっけない僕なのだが、アキトは何が面白いのか、その関係を断ち切ることは無かった。彼の能天気さに当てられて、いつしか僕も、自然と表情を表に出すことができるようになっていった。
アキトには絶対知られたくないが、これまでの人生を通して、彼は一番の親友になっていた。
「叶銘、いよいよ明日からまた大学だぜ? あーあ、メンドイ!」
「そう言うなら、そもそも大学なんて受けなければよかったんだよ。それにどうせ、コンパのビラをもらいに行くだけなんだろ?」
「まあなー。いっそ、大学の講義にコンパとか旅行とかがあればいいんだよ。社会勉強になるじゃん?」
「『なるじゃん?』じゃないよ。ならないよ」
「あー! お前今『フッ』て笑っただろ! 聞こえたぞ! スカしやがって!」
僕は携帯電話を耳から話して、アキトの叫びをやり過ごした。カレンダーを見た。明日は四月一日。新年度の始まりだ。
どうか今年も、平穏な生活が送れますように――。
「おい、叶銘? 叶銘さーん? 無視すんなァ!」