あの夏へ
ある静かな夏の朝のことだった。高校の駐輪場に着くと、どこからともなくピアノの音色が響いてきた。耳を澄ましてみてすぐ、考えるまでもないことだと気付いた。この小さな学校の中でピアノがあるのは音楽室のみ。淡い期待がよぎり、駆け出す。音楽部の部員は自分だけ。音楽室の鍵が実は壊れていて、直す経費惜しさに、教員全員がそれを見て見ぬ振りしていることを知っているのも、今は自分だけだ。
「先輩!」
叫びながら勢い良く飛び込んだ音楽室では、一人の見馴れぬ少女がピアノに向かっていた。夏服から覗く手足は、どこも怖いくらい白い。ほとんど茶髪に近い薄い色の髪を、低めのシニョンに纏めている。彼女はゆっくりこちらを振り向くと、立ち上がり、小さく首を傾げた。たおやかな動きだった。このあたりの人間ではないと、それだけですぐに察せられた。
「あの、多分、人違いだと思うのだけれど」
困ったような少女の声に、俺は上手く返事ができなかった。勝手に勘違いして全力疾走した自分を恥じるのに手一杯だったからだ。額の汗を手首で拭い、濡れた手首を制服の脇腹辺りに擦り付けた。頬が焼けるように熱かった。
「私、東京から転校して来た鰐部有栖という者です。えっと、音楽部のカンバラケイさん、で合っているかしら」
なんだそのおとぎ話みたいな名前は、とか、どうして俺のことを知ってるんだ、とか、夏休みから転校ってどういう経緯だ、とか、色々思う所はあったが、どれも声にならなかった。こちらの表情をどう受け取ったのか、一人得心したように頷き、アリスと名乗った少女は続ける。
「この学校では音楽部に入ろうと思って。顧問の先生から、色々教えてもらったの。去年まで二人だった部員のうち一人が卒業して、今はあなたが部長でしょう? 毎日朝から来てるって聞いたから、挨拶したくて」
よろしくね、と、握手を求めるように右手が差し出される。胸元の校章を見るに、俺と同じ三年生らしい。だとすると、この過疎高校では自動的に同じクラスの級友ということになる。出会って早々邪険にするわけにもいかない。無様な姿を見られた恥じらいをぐっと堪え、俺は彼女の手をとった。
「暑いのね、こっちの夏は」
台詞とは裏腹に、彼女の手はとても冷たかった。どうやら汗だくのこちらをフォローしてくれているらしい。存外良いヤツなのかもしれない。
「ねえケイちゃん」
手を握ったまま、アリスは俺の瞳を下から覗き込むようにして問うた。
「あなた、卒業した先輩のことが好きだったの?」
やっぱり嫌なヤツだ。俺は即座にアリスに対する評価を訂正する。馴れ馴れしくて、デリカシィに欠けた、いけ好かない都会者だ。
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一通り挨拶が済んでも、アリスは帰らなかった。俺が帰るまで一緒にいると言う。夏休み中は活動しない、俺はただ防音の音楽室が受験勉強に好都合だから来てるだけ、そう伝えても、彼女はにっこり頷くばかりだった。今は再びピアノに向かい、一人で楽しそうにしている。改めて聴いてみると、アリスの演奏は先輩とは比べ物にならないくらい稚拙なものだった。弾いていた曲が、もともと探るようにぽつぽつと奏でていく曲だったため、さっきは気付くことができなかったのだ。
「よぉそんなんで入部しよう思たなぁ」
刺を隠さぬ俺の言葉に苦笑しながら、アリスは身の上も含め、色々と事情を説明した。彼女はクォーターだそうで、フランス人の祖母に勧められるがまま、幼い頃はピアノを含めた芸術全般を習い事にしていたらしい。けれど、ある時期から仕事の都合で両親が転勤族になってしまったため、全部すっぱりやめてしまった。残ったのは独学で続けた絵画だけ。だから、彼女はこれまでずっと、どの学校でも美術部だったのだという。ところが、我等が過疎高校には美術部がない。しかたなく、辛うじて馴染みのある音楽部に入ることにしたというわけだ。
「そういうわけで、良かったらピアノを教えてくれると嬉しいのだけれど」
「勘弁してくれや。暇ちゃうんじゃ」
授業用の机で参考書をこれ見よがしに広げ、つっぱねる。こちとら受験の夏で忙しいのだ。さして傷ついた様子もなく、薄く微笑んで頷くと、アリスはまた一人で辿々しい演奏を始めた。とある有名なアニメ映画の挿入曲で、日本人なら多分、誰もが一度は耳にしたことがある。季節感豊かな、良い曲だった。去年の学祭で先輩が同じ作曲家のメドレーをやっていたため、俺にとっては思い出の一曲でもある。努めて無視しようとしたが、どうしても耳に入り、気になった。
「ねえ、ここって、この弾き方であっている?」
俺がペンを止めた一瞬を見計らったかのように、アリスが声をかけてくる。彼女は先程からずっと同じ所で弾き間違いをしていて、それが余計に俺の集中力を削いでいた。
「ここだけでいいから、お手本に弾いてみせてもらえないかしら」
ふてぶてしさも甘えも感じさせない、素直で自然な声だった。妙に毒気が抜かれてしまい、俺は席を立つ。隣まで歩み寄ると、アリスは期待に満ちた目でこちらを見上げた。やめて欲しいと心底思う。実のところ、俺は人をどうこう言えないくらいピアノが苦手だった。一年生の春、先輩に勧誘されて、一目惚れして、音楽なんて一度もやったことがないのに入部したのだ。
『ケイちゃんはいつまで経ってもピアノが上手くならんねぇ』
からかうように笑う先輩が好きだった。彼女の鮮やかな笑みこそが、何よりも俺の上達を邪魔していた。
「ケイちゃん?」
先輩と同じ呼び名を、先輩とは違うイントネーションで、アリスが口にする。感傷を振り払い、俺は慎重に鍵盤を叩いた。先輩が練習する姿を何度も見ていたおかげで、なんとか正しく弾くことができた。
「ありがとう、ケイちゃん」
柔らかく笑むと、アリスは演奏を再開した。一度聴いただけで、ちゃんと間違いが直っている。俺よりよっぽど才能あるじゃないか。そう思うと、なんだか笑えた。そして同時に虚しかった。先輩との思い出の場所で、違う女と二人、俺は何をやっているのだろう。
蝉の声すら届かぬ静かな部屋に、拙いピアノだけが穏やかに響いていた。
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次の日も、また次の日も、アリスは朝から音楽室にやって来た。ただ、あまりピアノは弾かなかった。どうやら、一曲間違わずに弾けるようになっただけで満足したらしい。彼女は専ら、スケッチブックに絵を描いていた。受験勉強に勤しむばかりの俺が責められたことではないが、何のために音楽部に入ったのやら、と言ったところである。
「先生が気さくな人で、助かったわ。絵を描いて過ごしてもいいって、言ってくれて」
「いい加減なだけじゃ」
顧問の能天気な笑みを思い浮かべ、俺は目を細める。
「嫌いなの?」
不思議そうに問うアリス。そんなストレートに訊いてくれるなよ、と思う。
「そこまでちゃうけど」
「私は好きよ、先生。親しみやすくて素敵」
あんまりさらりと言うものだから、コメントの返しようがなかった。もしこれが他の同級生なら、老け専かよと笑い飛ばしていただろう。アリスの言葉は素直で軽やかすぎる。
「ケイちゃんのことも、好きよ」
「会って三日そこいらで、適当言わんといてくれ」
「そうね。でも、昔好きだった人に似てるから、なんとなく」
アリスは美人だ。彼女からこんな風に言われたら、普通の男は大喜びに違いない。けれど、俺が感じたのはただ親近感ばかりだった。どこか浮世離れした彼女にも、後ろ髪引かれるような過去があるなんて意外だ。正直、なんとなく少し嬉しい。
「ケイちゃんは、どう?」
「あん?」
「私のこと、好きかしら」
やっぱり駄目だ。コイツは遠い。宇宙人だ。周波数が違う。
「お前な、普通、そんなん面と向かって訊くか?」
「だって、なんだか嫌われてるみたいだから」
「別に、好きとも嫌いとも思っとらんよ」
馴れ馴れしさも、デリカシィのなさも、異星人と思えば我慢できる。何よりアリスの言動には、悪意が微塵も感じられない。悔しいが彼女を嫌うのは難しい。
「そう。良かった」
安心して微笑む姿がとても綺麗で、そんな風に感じる自分を、俺は嫌悪した。こんな女、いっそ嫌ってしまえた方が都合がいいのに。
『ケイちゃん』
先輩の声を思い出そうとすると、途中からアリスの声が混ざる。逃避のために、参考書へ向かった。もっと勉強して、賢くなって、俺は早くこの街を出なければならない。
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美術の素養なんて欠片もない俺でさえ、アリスの絵が凄まじく上手いことはよくわかった。彼女が描いた緑の木々を見て初めて、俺は夏の風景を美しいと感じた。風にそよぐ葉に、爽やかなセンチメンタルが溶けていた。彼女の目には、世界も人も、こんな風に美しく映っているのだろう。
「ケイちゃんは、いつも勉強熱心ね」
さらさらと手を動かしながらアリスが呟く。彼女が俺を絵に描いているらしいことは、薄々気付いていた。自意識過剰を恥じて、やめてくれとは言えなかった。
「先輩と同じ大学を目指しているの? やっぱり」
「まあな」
「好きなのね、凄く」
好きだったのね、と言わないところに、アリスなりの気配りを感じた。けれど、彼女が想像してくれているような健全な恋情を抱いている自信が、俺にはなかった。だからこそ、余計に焦る。
その日アリスは久しぶりにピアノを弾いた。曲は前と同じ。
「あの夏って、どの夏かしら」
呟いて、アリスは遠い目をした。きっと、東京やフランスに、大事な人との思い出を置いて来ているのだろう。
「帰りたいんか?」
と俺は訊いた。
「どこへ?」
と首を傾げるアリス。
「こんな田舎、早う出て行きたいって思うやろ?」
「ケイちゃんは、そう思うの?」
素朴な調子で彼女は問うた。
「誰だって嫌じゃ、こんな田舎」
田畑以外何もない、つまらない町だ。芸術文化を求める人間にとって、これほど乾いた土地もあるまい。
「私は、なるべくゆっくり、こうしていたい」
柔らかく笑み、拙い演奏を続けるアリス。否定しなければならなかった。こんな時間が何になるんだって、怒鳴ってみせるべきだった。なのに不思議と、心は凪いでいった。俺は何も言えなかった。
/
「夏祭りがあるって、噂に聞いたのだけれど」
「ちんまい神社の、ショボい祭りじゃ。行ってもしゃーないで」
人の話を聞いているのかいないのか、アリスは一人で目を輝かして、素敵ね、と呟いた。
「ご一緒しない?」
「アホか。受験生やぞ」
参考書の山を指差す。
「そう、残念」
項垂れる横顔が、他の誰かと並んで歩く姿を想像した。舌打ちして、頭を掻く。自分がこんなに愚かだなんて、今まで知らなかった。
/
鉄仙を染め上げた浴衣は、涼やかな色気があった。美人は何着ても似合うんだな、なんて考えながら、俺はアリスの隣を歩いていた。彼女はあらゆる屋台を覗いてみては、一瞬にして店主と親しくなっていった。社交性ってのは大事なもんだと、つくづく思う。近所の祭りなんて、とっくの昔に飽きてしまったはずなのに。アリスと歩く時間には、いつもと違う高揚感があった。
「楽しいね」
林檎飴を愛らしく舐めながら、アリスが囁く。一通りの屋台に顔を出した俺たちは、本殿近くのベンチに座って一休みしていた。
「俺はもう、何も食えんぞ」
腹を押さえ、呻いてみせる。色んな人からおまけしてもらった食べ物を、アリスは一口だけ味わい、すぐ俺に寄越した。帯が苦しくて、と申し訳なさそうにする姿に、絆された自分が馬鹿だった。
「ごめんなさい。でも、一緒に来れてよかった」
古びた電灯が、アリスを淡く照らす。彼女は微笑んでいた。この空気は良くない、と、自覚がある時点でもう手遅れだった。
ほんの一時間程度の間に、何人もの知人とすれ違った。皆一様に、アリスの美貌に驚き、物言いたげな顔を俺に向けた。口に出さなくたって、言いたいことはわかる。誰より俺自身が、同じ言葉で自分を責めていたからだ。
「前に話とった、お前が昔好きだったっつー男」
目を見て話す意気地がなくて、少し視線を逸らした。いつもより高く髪を結ってあるせいで、アリスの白い項が露だった。
「どこが似てたん? 俺と」
「さあ。忘れちゃった」
静かな声が、夕闇に溶けていった。
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アリスとの日々は相変わらずだった。彼女は専ら絵を描き、時々ピアノを触った。俺は受験勉強に勤しんでいた。当初の予定の半分も、問題集は終わらなかった。
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気がつけば八月の末だった。秋に控えた学祭の相談という名目で、俺は顧問から職員室に呼び出された。戻ってきたらお昼にしましょう、なんて長閑に笑って、アリスは手を振っていた。
「鰐部はそんなピアノできんし、絵の展示でもやらしたったらええんちゃうかと思うんですけど」
かねてから考えていた意見を、単刀直入に伝える。せっかくあれだけ良い絵が描けるのだから、活かさないのは惜しい。
顧問は難しい顔をした。なんだオッサン、二人でヘタクソな連弾でもかまして恥をかけと言うのか。
「鰐部のことは考えなくてええって、伝えとらんかったか?」
「は? でも、アイツやって一応部員やし」
「いや、そんなんゆーてもお前、急な都合がどうとかで、鰐部は夏休み明けたらまた転校じゃろ。確か明日にはもう引っ越しやぞ」
本人から聞いてないのか、と首を傾げる顧問。言葉が出なかった。けれど足はすぐに動いた。職員室を飛び出そうとする俺を、暢気な声が呼び止める。
「そう言えばさっき、久しぶりにアイツが顔見せに来とったぞ」
「アイツ?」
「ほら、去年卒業した」
「先輩ですか?」
そうそう、と顧問は頷く。
「なんか、大学の課題に使うとかゆーて、部の活動記録をコピーして行ったわ。急いどったみたいやけど、走れば駅で捕まるんちゃうか?」
何だっていうんだ一体。唇を強く噛み締め、駆け出す。
今じゃない、ここじゃないって、思い続けた高校生活だった。恋人と過ごす時間さえ、素直に慈しむことができなかった。憧れていたはずなのに、確かに好きだったはずなのに、いざ手が届くと、自ら一歩距離を置いた。どうせ子供の恋愛、遠からず別れる相手と、冷めた気持ちが腹の底に常にあった。今更執着したのは、彼女がもう、今ここにはいない相手だからだ。
三年生になって、成績だけやたらと良くなった。現状から逃れたい一心でのことだった。ここではない場所に抜け出すための手段として勉強に打ち込んだ。頭の中に先輩のことがあったのは確かだ。けれど、それが方便に過ぎないことは自覚していた。もし、ただ純粋に彼女との再会を望むならば、机に向かう前にとるべき行動が、俺には幾つもあった。
とっくの昔に終わった恋だった。大切にしなかったのは自分だ。ただ、受け入れるのに時間がかかっただけのこと。
「早かったのね」
スケッチブックに視線を落としたままそう言ったアリスは、振り返って目を丸くした。汗ばんだ額を拭いながら、確かあの時もこんな感じだったなと、思い出す。
「初めて会った時のこと、憶えとるか?」
アリスはゆっくり頷いた。続く台詞すらわかっているかのような察しの良さだった。悔しさも恥じらいもなかった。そんなものより大事な気持ちが、胸を占めていた。
「俺は、アリスが好きだ」
彼女は何も応えなかった。ただ、真っ直ぐこちらを見つめていた。予想通りの反応に、思わず微笑む。
「そのまま、ちょっと静かにしといてくれ」
俺がピアノに向かうと、アリスは黙って寄って来て、一番近くの椅子に行儀良く座った。もう少し時間が欲しかった、なんて頭の隅で考える。いつもアリスが弾いてた曲を、隠れてこっそり練習していた。学祭辺りで披露すれば、少しは喜んでくれるかと思って。おかげで全然、勉強は進まなかった。
動機が速すぎるのは、きっと走ったせいだけじゃない。リズムを見失わないように、努めてそっと、鍵盤に指をのせた。
/
演奏が終わると、アリスは小さく拍手をした。目が合うと薄く笑んだ。鈍色の瞳が仄かに揺れていた。
「私、明日この街を出るの」
「知ってる」
「だから」
言葉を遮るために立ちあがった。歩み寄る俺を、アリスは座ったまま見上げた。力なく数回首を横に振り、困らせないでと彼女は言った。
「今、ここにいるならいい」
その一言が口にできるまで、沢山の時間がかかった。構いやしない。過去がどうであれ、未来がどうなろうと。
「今、俺を好きでいてくれるなら」
伸ばした腕を、アリスは拒まなかった。
/
そうしてあっという間に季節は巡り、卒業の春が来た。センター試験でつまずいた俺は、東京の大学を断念し、地元の国立に進学を決めた。風の噂によれば、向こうで暮らす先輩は、最近十数歳も歳上の彼氏を作ったらしい。老け専かよと、少し笑った。
式の日くらい、と期待したけれど、結局アリスは二度と俺の前に現れなかった。簡単に掃除をして、思い出深い音楽室にも別れを告げた。持って帰るようにと顧問から渡された荷物には、アリスが描きためた絵も何枚か含まれていた。中に一枚、少し影のあるイケメンの絵が混じっていて、これにも笑った。相手を美化していたのは、どうやらお互い様らしい。
「あの夏って、どの夏、か」
拙いピアノの音色が、遠く響いていた。
本編はのんびり更新です。
『Missing』
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