7
「綜馬がいないってだけでそんなビビんなよ。俺ってそんな臆病だっけ?」
呆れたようにそいつは笑った。征一郎と同じ顔で。
目と鼻の先、半歩踏み出せば身体がぶつかるような位置で止まった征一郎の姿をしたものが征一郎の瞳を覗きこんだ。そいつの瞳には深い深い闇が宿っている。
「本当は綜馬のことが憎くてたまらないくせに」
「……ッ、違う!」
それは目を細め、残酷な笑みを浮かべている。言葉に詰まりながら否定した言葉が黒い霧に虚しく吸い込まれた。
「違わねぇよ。お前は綜馬を恨んでる。俺は知ってるぞ。なんたって俺はお前だからな」
そういってそいつは右手を伸ばして征一郎の頬に触れた。
「九年前のこと、忘れたなら思い出させてやるよ」
そいつは悪魔のような笑みを浮かべた。
= = = = = = =
征一郎は生まれた時から榊家の長男として周囲から期待されていた。
幼いながらも当代随一の力を持っていたため、一族の誰からも神童だと崇められて育ってきたのだ。それに対して征一郎は特段何も思わなかった。期待を重苦しく感じることもなかったし、期待に応えられることが当たり前だと思っていたから。
征一郎と綜馬が七歳になったばかりの頃。
そのころ二人はよく一緒に遊んでいた。その日も周囲の目を抜けだして二人で近所の公園に遊びに出かけていた。ブランコと滑り台、砂場があるだけのごくごく小さな公園である。
少し歩いたところに遊具の充実した大きな公園があるのだが、征一郎はここで遊ぶのが好きだった。言葉には出さないものの、この公園にくると征一郎に対して愛想笑いを浮かべることの多い綜馬が本当に嬉しそうに笑うのだ。だから二人で遊ぶときは必ずここに来ていた。
「征ちゃん、あれ何かな?」
綜馬が指さした方向にはブランコがあった。右側の座板には黒いモヤが乗っている。よくよく目を凝らすとそれは同い年くらいの少女だった。
「んー、"ふゆうれい"ってやつじゃないか?」
いつも周囲の人間が口にする言葉を無理やり使った。それがどういう意味をもつのかはいまいち分からないが、きっと間違ってはいないのだろう。ああいうのはそこら辺にいくらでもいる。明確な姿をとることのできないものは力がとても弱く、放っておいても大した問題にはならない。
「あれじゃあブランコ乗れないね」
綜馬は残念そうにそう呟いた。その黒いモヤは綜馬がいつも乗る方に居たのだ。
「何言ってんだよ、"ちょうぶく"すればいいじゃねぇか」
気弱な綜馬に対して征一郎は叱りつけるように言い放つ。征一郎にとってその力は正義だった。一族のものがとるに足らない浮遊霊に対して弱気になるということが許せなかった。
「無理だよ。だって僕まだ子供だもん。お父さんやお母さんみたいにはなれないよ」
「じゃあそこであいつがブランコに乗って遊んでるの見てればいいじゃんか。俺知らねぇよ」
弱気な姿勢を崩さない綜馬に征一郎は呆れたように言い放って滑り台の方へ走っていった。置いて行かれた綜馬は征一郎の背中とブランコを交互に見る。
綜馬にとって、征一郎に見捨てられることほど怖いものはなかった。一族の中で特に秀でた才能を持つ征一郎。行動力があって自分の意見をはっきり言うことのできる征一郎は引っ込み思案な綜馬にとっての憧れだった。
しばらく迷っていたが綜馬は意を決してブランコの浮遊霊に近づく。目を凝らさないと姿の見えない少女は、泣いていた。
「ねぇ、なんで泣いてるの?」
少なくとも自分に危害を加えてくることはないだろう。それに話せばわかってくれるかもしれない。そう判断して綜馬は少女に優しく問いかけた。話しかけられたことに驚いた少女はビクリと身体を震わせ、ゆっくりと顔をあげた。朧気なおかっぱの黒髪が小さく揺れる。
『あなた、私がみえるの?』
「うん、見えるよ。何か悲しいことがあったの?」
綜馬は少女の前にしゃがんで目線を合わせる。
その様子を征一郎はつまらなさそうに滑り台の上から眺めていた。綜馬のことだからどうせ無理だといって泣きついてくるだろう。それまで手助けしてやらない。征一郎はそう決めていた。
『怖いの。……あいつがやってくるかもしれないのに、私もう動けない』
少女は怯えていた。綜馬はどうしていいかわからずにオロオロした。これは自分ではどうにもならないかもしれない。そう思って綜馬は征一郎がいる滑り台の方へ視線を向けた。
『……っ、こっちに気付いた! あいつが来る!』
少女が消え入りそうな声で叫んだ。そのとき、遠くから大きな力を持った何かが向かってくるのがわかった。戦慄が走る。少女を連れて逃げないと。綜馬がそう思ったときにはもう遅かった。
『ミィツケタァ』
少女の背後から現れたのは三メートルはあろうかというほど大きな怨霊だった。それは目の前の少女のように何かの形をとるわけではなく、子どもが作った粘土細工のようにいびつな形をしていた。
多くの死霊や妖怪を取り込んで大きくなったのだろう。どす黒い塊の表面には取り込まれた死霊や妖怪たちの顔や手足が飛び出している。完全に同化していないのか、かすかなうめき声が聞こえていた。
「綜馬、逃げろ!」
征一郎の叫び声が虚しく響く。
それは一瞬の出来事だった。怨霊は粘土のような身体を一部伸ばし、大きな針のような形状のものを生み出す。そしてそれを少女の身体に突き刺した。その針は、少女の目の前にいた綜馬の身体も同時に貫いていた。
綜馬の鳩尾辺りに刺さったそれは綜馬を侵食するようにじわじわと内部に入り込んでいく。
「ぅ……あ…」
逃れようと身を捩るが無駄な抵抗だった。巨大な針はびくともしなかったし、どんなに拒んでも侵食はどんどん広がっていく。綜馬の心が恐怖に染まった。
そのとき、少女と綜馬を貫いていた針が突然はじけた。一部を消滅させられた怨霊は身も凍りつくような叫び声をあげる。支えを失った綜馬は自分の足で身体を支えることができず、ゆっくりとくずおれる。
綜馬の身体が地面に追突する直前に征一郎の腕が綜馬の身体を支えた。
「綜馬!」
いつも余裕の表情を浮かべている征一郎が泣きそうな顔をしている。綜馬は申し訳なく思った。謝ろうと口を開くも言葉が出てこない。声にならない吐息だけが吐き出された。
「ごめんっ、俺があんなこと言ったから……っ!!」
徐々に身体の感覚がなくなっていく。綜馬と一緒に貫かれた少女はすでに消えていた。恐らくあの怨霊の中に取り込まれてしまったのだろう。
次は自分があの少女のように取り込まれてしまう。そう思ったが恐怖は感じなかった。きっと征一郎があの怨霊を倒してくれる。取り込まれた者達のように苦しむことは、絶対にない。
薄れゆく意識の中で綜馬はそう確信していた。大丈夫、怖くない。
「綜馬! おい、綜馬!!」
瞳を閉じた綜馬に征一郎は動揺した。抱いている綜馬の体温が急激に下がっていくのを感じる。征一郎の脳裏に浮かんだのは"死"という一言だった。
死なせたくない。その思いとは裏腹に綜馬の身体はどんどん冷たくなっていく。征一郎は目を開けさせようと綜馬の身体を必死に揺すった。
そのとき、風を切る音とともに征一郎の視界に黒い何かが飛び込んできた。先ほど綜馬を突き刺したものと同じ形状をした怨霊の一部だ。とっさに力を放出して受け止めると鼓膜を切り裂くような高い音が辺りに響き渡る。
その衝撃で目の前にあったブランコの座板が勢い良く二人に向かって飛んできた。征一郎はとっさに綜馬をかばうように覆いかぶさった。
「ッ――!」
座板は運悪く征一郎の頭を直撃した。皮膚が切れ、大量の血が溢れだし左目の視界を奪う。痛みは感じない。それよりも怒りの感情が勝っていた。
綜馬を傷付けられた怒り、自分が近くにいながら守れなかった怒り、軽率な言葉を発してしまった自分への怒り。全てが混ざって征一郎自身、感情を制御できなくなっていた。
その矛先は全て目の前の怨霊へ向けられる。
征一郎が掌を怨霊に向けた。そして何かを握りつぶすように拳を握る。
怨霊は断末魔の叫びをあげることなく一瞬にして掻き消えた。消えたのは怨霊だけではない。怨霊を中心に半径五十メートル以内にいた鬼と呼ばれる存在全てが消えていた。
周囲は静寂に包まれた。
征一郎は抱きしめている綜馬を見た。目は開かない。
鳩尾から広がり続けている怨霊の欠片は勢いを衰えさせているものの、未だに綜馬の身体の中にくすぶっている。
綜馬の頬に手を触れた。先程よりもさらに冷たくなっている。
征一郎の心を絶望が埋め尽くした。涙が次々と頬を伝う。