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総合病院に向かう途中の商店街の中で斉藤の姉の後ろ姿が見えた。周囲は寄り道をしている学生や買い物中の主婦で賑わっていたが、長身の上にハイヒールのブーツを履いているため容易に探し出せた。
カツカツと音を鳴らして歩く彼女はどこか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
その隣には斉藤はいない。どうやらどこかで別れたようだ。
「あの、すみません」
征一郎が恐る恐る声をかけると斉藤の姉が歩みを止めて振り向いた。人当たりの良さそうな笑顔で振り向いた彼女の目はやはり笑っていなかった。
「あら、あなた達さっきの……」
弟の友達だと判明したためか、笑顔でいながら刺々しさのあった彼女の表情が少し和らいだ。
「忘れ物を届けるために追いかけてきたんですけど……達也、どこに行ったんですか?」
「あいつ、また何か忘れたの!? ……達也なら忘れ物したって言って学校に戻って言ったわ。全くこれだからいつまでたってもダメなのよ」
信じられないというようにため息をついた彼女は忌々しげに舌打ちをした。
この調子だと斉藤は帰宅後にこっぴどく叱られるのだろう。征一郎は内心同情した。
「わざわざ追いかけてきてくれたのにごめんなさいね。その忘れ物、私が預かって達也に渡しておくわ」
差し出された左手に忘れ物であるスマートフォンを渡そうとして征一郎は思いとどまった。
「いえ、ちょうど達也に用事もあるので学校に行って直接渡します」
「征一郎?」
怪訝な表情の綜馬を目で制止した。斉藤の姉も不思議に思ったようだが何も言わずに了承してくれた。
「わかったわ。じゃあもしすれ違った時のために私の番号教えておくわね」
バッグから手帳を取り出して十一桁の数字を書き連ねたものを征一郎に渡す。
「馬鹿な弟だけど仲良くしてあげてね」
斉藤の姉は優しい笑顔でそう言い残すとじゃあね、と手を振って歩き出した。
「……素直に渡したほうが良かったんじゃないか?」
後ろ姿が見えなくなったころ、綜馬は征一郎に問いかけた。このまま学校に向かって会えなければ困るのは斉藤だ。そもそも、斉藤が本当に学校に向かった確証はない。単に姉から離れたくてウソをついた可能性だってある。
「あー、なんとなく会った方がいい気がしたんだよ。それにまだ時間あるだろ?」
征一郎は渡さなかった理由をうまく言葉にすることができず、困ったように眉尻を下げた。虫の知らせとでもいえばいいのだろか。
それに、まだ家に帰りたくない。どちらかといえばそちらの理由の方が大きかった。
「そうか。ただ悠長にしてられる時間はない。行くなら早く行くぞ」
綜馬はそれ以上追求することなく学校へ向かって歩き始めた。横に並ぶように征一郎も歩き始める。商店街から学校までは十分とかからない距離だ。何事もなければ日没までには帰りつけるだろう。
放課後の学校は昼間より人が少ないながらも活気であふれていた。グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえる。四月ということもあり部活の勧誘をする上級生や見学をする新入生が校内をそこかしこと歩き回っている。
「大丈夫そうだな」
ホッとしたように征一郎は呟いた。
大きな力を持った鬼がいればそこには必ず強い陰の気が流れる。強大な力が周囲を陰に引きずり込むからだ。神出鬼没だとされている集団自殺事件を起こしている鬼でもそれを隠すことはできない。
現れれば何らかの異変が起きるはずなのだ。
「……何かあったとしても無闇に突っ込むなよ」
「わかってるって。でも何も感じないし大丈夫だろ」
あくまでも心配性な姿勢を崩さない綜馬に軽く笑って返して校舎に足を踏み入れたそのときだった。
空間が歪んだ。
奇妙な浮遊感と強烈な目眩が征一郎を襲った。視界が白に覆われ平衡感覚と共に全身の感覚が失われる。倒れこまないように足を踏ん張ってなんとかこらえた。
どれくらいこらえていたのかわからない。
しばらくすると目眩が徐々に消え、視界が開けてきた。
眼前に広がっていたのは毎日通っている二階の廊下だった。目の前にはA組の教室の扉がある。
「何が……ッ!」
一時的に失われた感覚が戻ると辺りが重苦しい陰の気で満ちているのが感じられた。濃すぎる気は黒い霧となって空間を覆う。数メートル先は何も見えない。
可視化するほどの気は征一郎にねっとりとまとわり付き息苦しさと圧迫感、そして絶望感を与える。
征一郎は周囲を確認した。近くに綜馬はいない。
心拍数が跳ね上がった。
これは例の集団自殺事件を起こしている鬼の仕業なのだろうか。何故気づかなかったのか。いや、そもそもまだ日のある時間帯だ。ここにいるはずがないのに。
なぜ?
どうして?
不安が不安を呼び呼吸が早くなる。手にじっとりと汗が滲んだ。
綜馬はどこだろう。征一郎のようにどこか違う場所に飛ばされているのかもしれない。探しにいくべきだろうか。いや、無闇に動くのは危険だ。
しかしここで待っていて綜馬は来てくれるのだろうか。
そのとき征一郎の耳にある音が届いた。前方の黒い霧に覆われた辺りから小さく足音が響いている。その音は征一郎のいる場所に近づいてきていた。
近づいてきているそれが何者なのかはわからない。それでも征一郎にはそれが人間ではないことだけはわかっていた。逃げようと足に力を入れるが、恐怖からか上手く動かない。
徐々に足音が近くなる。霧の向こうにシルエットがうっすらと確認できるまでに近づいた。どうやら同じくらいの背丈の人間の姿をしているようだ。
更に足音が近づく。
程なくしてそれが姿を現した。
「俺……?」
自分と瓜二つの姿をした人間でないものに、征一郎は息を呑んだ。
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油断した。
綜馬は内心で舌打ちをした。校舎に入って直ぐに征一郎と離された。辺りは黒い霧に覆われている。いつもの学校とはかけ離れたそこは不気味さが漂っていた。
これが集団自殺事件の調査が難航している理由か。綜馬は顔をしかめた。
鬼は自分たちの存在を隠すことができない。そういう類の術は人間側が編み出したもので、鬼の力とは相反する力を持つからだ。
つまり、人間を脅かそうとしている鬼に加担する同業者がいる。それはあってはならないことだ。
後ろを振り返ると外は先ほどと変わらぬ穏やかな光景が広がっている。手を伸ばすと、見えない壁のようなものにぶつかった。どうやら一度中に入ると外には出してもらえないらしい。
スマートフォンを確認すると圏外になっていた。助けを呼ぶことはできないようだ。
まずは征一郎を探しださなければ。考えるのは後からでいい。
周囲を警戒しながら足を踏み出したそのとき、綜馬の目の前に少女が突然現れた。腰まである銀の長い髪と真っ赤な瞳、その口元には笑みをたたえていた。
「お前が最近起きている集団自殺事件の首謀者か」
「そうとも言えるけど、違うとも言えるわ」
「どういうことだ?」
「どういうことでしょうね。教えてあげてもいいけど、それだと楽しくないからやっぱり教えてあげない」
ひと目で人間でないとわかる少女は、外見とは不釣り合いな妖艶な笑みを浮かべた。綜馬は一層警戒を強めて少女を睨みつける。
「そんなことより、貴方、ずいぶん珍しいのね。中身が違うわ」
少女はまるで実験動物を観察する研究者のように綜馬を眺めた。
「他人のものを奪ったのかしら? でも分不相応ね。力に対して器が小さすぎるわ。それに……」
「言いたいことはそれだけか? 今はお前に構ってやる暇はない」
少女の言葉を遮って綜馬は左手を少女に向かって薙ぎ払う。
瞬間、少女の身体は二つに切り裂かれて霧散した。
「短気な男は女にモテないわよ?」
しかし、消えたはずの少女は綜馬の横に再び現れた。先程よりも近く、手を伸ばせば触れることのできる距離だ。
綜馬は少女を無視して歩き始めた。教室へ続く階段へ向かう。
「さっきの話がよほどお気に召さなかったのね。じゃあ違う話をしましょうか」
少女は綜馬の様子などお構いなしに綜馬の周囲をふわふわと漂いながら話し始めた。
「貴方が大事に大事に思っている子は……貴方のこと憎んでるわよ。劣等感と嫉妬で狂いそうになりながら、平気そうな顔を無理やり作ってる」
先ほどとは打って変わって楽しげに喋りだす少女に綜馬は眉を顰める。
「あら、信じてないのね。でもこれは事実よ。貴方にもすぐわかるわ」
綜馬は足を止めることなく少女を睨みつけた。
「おしゃべりだな。今すぐ消えろ」
「ふふ、残念。じゃあ貴方たちのお友達と一緒に奥で待ってるわ」
現れた時と同じように、少女は一瞬で消えた。
早く征一郎を連れてここから出なければ。言いようのない不安が綜馬を襲う。自然と早足になっていた。
いつもより長く感じられた階段をようやく登り切った先に、探していた人物がいた。そして背を向けている征一郎の横には征一郎とそっくりな人ではないものが立っていた。
「征一郎」
いつもとは違う、固い声で名前を呼ばれた征一郎は大きく肩を震わせ、ゆっくりと綜馬の方を振り返った。
「……征一郎?」
怯えた表情で振り向いた征一郎の手には鈍く光るナイフが握られていた。
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