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渋谷区を丸ごと包む、透明の巨大なドーム。全高は700mにも及ぶ。
光の絶えないビル街の、人気の無い廃ビルで、一人の少女がノートパソコンを見ていた。
その画面には、大量の動画ファイルが並んでいた。
少女はそのうちの一つを展開する。
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PLAY KANSHI_NO2.me6
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時は深夜だろうか、明るい店内に比べ外は暗い。
マンション街に建設された、倉科グループのコンビニで、バイトとして働く一人の青年。
彼は客一人いない店内で、上司に指導されているようだ。
「いつになったら仕事の仕方を覚えるんだァ!?このグズ!」かなり声を張り上げているようだ。マイクが拾った声はすこし割れている。
「すいません……」それに対し、弱々しい返事。
「大体よォ、お前もう何ヶ月目だ?二?三?遅過ぎるんだよォ!」
「はい……」
「ッたくよォ……」年下の上司はブツブツと文句を言い続けている。彼はただ謝る事しかできないようだ。
これでは、叱られ続けるのも仕方の無いことだろう。
3時間程経った頃だろうか。
「お疲れしたァー」
「お疲れ様でした……」
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少女は映像をそこで停止した。
そして、次の動画ファイルを展開する。
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PLAY 2064_08_04.mfc
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場所は、青年のマンションに移る。あまり広いとは言えない部屋。コンビニ弁当の残骸が散らばり、敷いたままの布団と、閉じられたノートパソコンが横たわっている。
どうやら、彼は低所得階層のようだ。
「くそッ……くそッ!」彼は玄関を乱雑に閉め、人影に反応した赤外線センサーが気を利かせ、居間のLED灯を灯す。オートロックが起動し玄関の鍵を閉める。標準的なマンションのごく標準的な装備である。
もしかしたら、彼に優しくしてくれる数少ない存在かもしれない。
彼はそのまま居間、布団の上まで歩いていき、どすりと座る。廃棄予定だったであろう、弁当の入ったビニール袋を床に置く。
ノートパソコンのスリープを解き、ウェブブラウザを開く。おそらく、不健全なサイトなのだろう。
彼はそれを確認すると、弁当の蓋を開けた。箸を割り、白米を口に運ぶ。そして画面に目を移す。
この青年にとっては、至極当たり前の日常なのだろう。彼だけではない。多くの国民が似たような生活をしている。
かなり遅い夕食を食べ終え、食欲を満たしたであろう青年は、ノートパソコンから伸びるケーブル、その先に着いたヘッドギアに手を延ばした。それを頭に装着すると、何かしらのソフトを起動する。これも、不健全なゲームなのだろう。
確か、この技術は、脳に悪影響を与えるとして、規制されているものだったはずだ。
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「気持ち悪い……」
少女はそう声を漏らす。少女は苦虫を噛み潰したような顔で、次の動画を再生した。
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PLAY MEIJI_KANSHI.c5m
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拡張子は統一して欲しいものだ。
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時は同じ頃か、渋谷区ドーム内では珍しく自然の残る聖域、明治神宮。
夕方ごろであれば、仕事から逃げてきた、会社員の一人や二人がいるだろうが、今の時間帯では人影の一つも無い。
そこにLED灯籠に照らされ、境内をふらつく少女がいる。
何日も洗っていないであろう乱れた黒く長い髪。年輪のような不気味な模様の浮かぶ茶色の瞳。包帯で幾重にも巻かれた両腕。黒い何かがこびりついたセーラー服。同じく汚れたスカート。右手には黒塗りのナイフの様な物。
おかしな装いだ。確かに、治安の低下しているこの街で武器を持つことは、さほど珍しい事ではない。だが、わざわざ深夜に、人のいない神社で、武器を持つ理由はそう無い。学生であればなおさらだ。
蛙の声が微かに響く境内に、刃物が空気を切り裂く音が鳴る。カメラを併設された高感度マイクが、その音を記録していた。
少女はその手を止め、空を見上げる。
何を見ているかはわからない。星空でも見ているのだろうか?
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突然、パソコンのスピーカーから、聞き慣れない音が発せられる。
先ほどまで、この動画には蛙の声ぐらいしか音は無かった。
パソコンの故障では無いだろう。つまり、この動画からのものだろう。
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少女は、その音に反応したようだ。
少女はその音の方向に顔を向ける。目線の先には雑木林があった。
黒板を爪で引っ掻いたような不快な鳴き声。蛙とは明らかに違うものだ。
姿を現したのは蟻のような生物。しかしその大きさは蟻とは比べ物にはならない。子供用の自転車程の大きさだ。
「あなたはだあれ?」
少女は言った。無論返事は無く、それは不快な音を鳴らし続けている。それは少女に近づいている。
「あなたは、だれ?」返事は無い。少女との距離は2メートル程。
「だれ?」1メートル。少女はナイフを構える。
LED灯籠にナイフが照らされる。それはまるで忍者が使うクナイの様に黒く、光を吸収する。
一瞬であった。
蟻の眉間にナイフが深々と刺さった。投擲を終えた少女は蟻の許へと歩み寄り、傷口を抉るように引き抜く。
蟻の眉間からは黒い液体が、湧き水のように流れ出す。少女はそれを気にも留めず、LED灯籠の下に置かれていた、革の鞄を左手で拾う。
その中には、よく見えないが、人形だろうか。何かが入っていた。
「多分、今日の夜頃かな?どう思う?サラトくん」少女はドールに話しかける。もしかしたら、狂人の類かもしれない。
「……」返事は無い。当たり前だ。
右手からは力が抜け、ナイフが落ちた。参道に刺さり、溶けて水銀のような黒い水たまりを作る。
少女が鳥居の下を潜る頃、蟻の姿は無く、代わりに地面に不可思議な黒い染みを生み出していた。
蛙が鳴いている。今起きた全てのことを見、理解することはない蛙が。
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少女は軽くため息をつく。
ノートパソコンを閉じ、廃ビルを出る。
街灯が、少女の白い髪と、色鮮やかな服を照らし出した。