わたくし、最初からずっとあなたに興味ありませんでした
<ネフェリア視点>
王宮東棟、第三ラウンジ。
振り子時計の針が、午後二時を指している。
まだ三十分も経っていないのか。私の体感では、すでに三時間は経過している。
殿下の婚約者になって、今日でちょうど一年。
お使者の口上を聞いた父の顔から、ゆっくりと血の気が引いていったのを、よく覚えている。「殿下からのご指名」という単語が、まるで死刑宣告のように響いていた。
断る選択肢など、最初からなかった。
一介の伯爵家が「うちの娘の気持ちが乗らないので」と蹴れる相手ではない。
それでも父はすぐにこの婚約を受け入れず、書斎で長いこと黙っておられた。
だから私は父に「喜んでお受けします」と申し上げた。
父の目が赤かったのを、私は見ないふりをした。
以来、私は殿下の婚約者として、完璧な義務を果たしてきた。
月二回のお茶会、夜会、観劇、慈善事業の同伴。書簡の代筆、贈答品の選定、外交の場での通訳まがいのこと。求められれば、どれもこなした。
だが、殿下は私の表情筋が動かないことに、終始ご不満であった。
婚約初日から、私に「もっと笑え」「もっと感情を見せろ」と仰った。私だって、可能ならそうしたかった。けれど、無理矢理婚約させられた相手に、心の底からの笑顔を向けるという芸当を、私は持ち合わせていない。
時が経てば慣れるかと思った。慣れなかった。殿下は日ごとに苛立ちを募らせ、一ヶ月前から、お茶会の場に他の令嬢を連れてくるようになった。最近は、ルシャンテン男爵家のミア嬢がお気に入りのようで、今も私の目の前で戯れている。
「ミア。お前のこの髪は、本当に春の小鹿のようだな」
殿下はミア嬢の栗色の髪を、わざとらしく一房、指に絡めた。
「まあ、お上手ですわ……」
ミア嬢が頬を染めて俯く。
殿下の視線は、髪を撫でながらも、ちらり、ちらりと、こちらへ流れてくる。
私は紅茶を一口含み、ベルガモットの香りを鼻に通す。
殿下は何か、お返事を期待されているらしい。
そうだな。最大限、淑やかに祝福申し上げようかしら。
「お側に愛らしい方をお迎えになって、わたくしも嬉しゅうございます」
その瞬間、殿下の眉が、ぴくりと跳ねた。
なぜだろう。私としては、最高の対応をしたつもりなのだが。
「ネフェリア。お前は、本当に血の通っていない人形だな」
血の通っていない、人形。
その言葉を、私はもう、何度聞いただろう。
最初に言われた時は、少し、傷ついた。私だって人間だ。心はある。ただ、それを向ける相手が、あなたではないというだけの話なのに——と、寝台の中で、一晩、考えたりもした。
今は、もう、何も思わない。むしろ褒め言葉として受け取ることにしている。人形なら、感情を消費せずに済む。便利な装具だと思えば、苦痛も和らぐ。
「ふふ、ありがとうございます」
「馬鹿か。褒めていない」
殿下は苛立ちを表情に出すと、ミア嬢の手を引いて部屋を出ていかれた。背中越しに何か呟かれていたが、上手く聞き取れなかった。
扉が閉まる。
私は時計を見た。予定より三十二分、早い解放である。
胸のうちで、小さくガッツポーズをした。今日も、無事に乗り切った!
◇
<ロイトン視点>
なぜだ。
なぜ。なぜなんだ!
俺は廊下を大股で歩きながら、隣で「殿下、殿下」とまとわりつくミアを完全に視界の外に追いやっていた。
なぜ、あの女は揺らがない。
ネフェリア・アルジェント。
アルジェント伯爵家の長女。容姿、家格、教養、そのすべてにおいて完璧な、俺の婚約者。
俺はあの女を初めて見た日のことを覚えている。一年前の夜会。月光のような銀髪を結い上げた令嬢が、「お初にお目にかかります」と俺に頭を下げた。あの瞬間、俺の中で何かが書き換わった。
一目惚れだった。
その夜のうちに、俺はアルジェント伯爵に婚約のご指名を申し入れた。
アルジェント家は子の意思を尊重する家風だと聞く。だが、俺は王太子だ。王太子のご指名を、伯爵家の都合で蹴れるはずがない。現にネフェリアは俺の婚約者になった。
だが俺は形式的な婚約者などではなく、心の底から俺を求める女に作り変えたかった。
ところがどうだ。
婚約から一年。あの女の表情筋は、月の裏側より動かない。
剣術大会で優勝してみせた。新法を起草して国政を動かしてみせた。詩を贈り、宝石を贈り、希少な書物を贈った。すべてに「ありがたく頂戴いたします」と九十度の礼が返ってくるだけ。
ならば、と俺は方針を転換した。
嫉妬だ。
女を本気にさせるには、嫉妬を煽るに限る。これは古今東西、恋愛の鉄則である。
そこで連れてきたのが、このミアという男爵令嬢だった。
素直で、可愛らしくて、何より俺の言葉一つで頬を染める扱いやすい娘。こいつをネフェリアの目の前で愛でてやれば、あの氷の仮面も砕け散るはず——だった。
「殿下、わたくし、ネフェリア様にちょっと申し訳なくて……」
ミアがしおらしく俯いてみせる。
俺は内心で舌打ちをした。お前に申し訳ながられても困る。釣り上げる相手は俺の隣にいるお前ではなく、テーブルの向かいで紅茶を啜っているあの女なのだ。
『お側に愛らしい方をお迎えになって、わたくしも嬉しゅうございます』
ああああああああ!
クソ!!! クソクソクソ!!!
何だ。
何なんだあれは!
俺は思わず壁を殴りつけそうになり、寸前で堪えた。
ネフェリア。
お前、本当は俺を愛している。愛してるんだろ?
愛しているからこそ、自分のプライドが邪魔をして、素直になれないだけ。そうに違いない。俺ほどの男に求められて、靡かない女がいるはずがないんだから。
大体、婚約者が他の女と戯れていたら嫌に決まっている。自然と独占欲が働くものだ。
そろそろ別のやり方を試すべきだろうか。
俺は足を止めた。窓の外、噴水が午後の光を浴びて虹を作っている。
その虹を見つめながら、俺の天才的な頭脳は、ついに最終手段を組み上げた。
──婚約破棄。
そうだ、これしかない。
退路を断ってやるのだ。すべてを失う恐怖の前で、あの女の仮面は必ず割れる。涙を流し、プライドをかなぐり捨てて、俺の足元にすがりついてくる。そこで初めて、俺は優しく抱きしめてやるのだ。「冗談だ」と。「お前を愛している」と。
ふふ。ふはははは!
完璧だ。
完璧な策である。
「殿下? どうかなさいましたか?」
ミアが顔を覗き込んでくる。俺は彼女に最高の微笑みを向けてやった。
「いや。次のお茶会で、面白い余興を披露することにしただけだ」
翌週、俺は念入りに身支度をした。
髪を整え、香油を一滴だけ襟元に落とし、王太子の正装に身を包む。
頭の中には、完璧な台本が組み上がっていた。
まず、ミアにはことさら甘い言葉を囁き、隣の席から動かさない。次に、俺自身がネフェリアを冷たく見下ろしながら、低く、しかし芝居がかりすぎぬ声で告げる。
『俺が求めているのは血の通った女だ。お前のような氷の人形と生涯を添い遂げる気はない。婚約は破棄する』
この台詞を、俺は鏡の前で十七回練習した。最後のリハーサルでは、自分でも惚れ惚れする出来だった。
そしてネフェリアは、必ず崩れる。
あの完璧な仮面の下から、隠していた本心が溢れ出す。涙を流し、震える唇で「嫌です! 私を捨てないでください、殿下!」と漏らし、それから——プライドをかなぐり捨てて、俺の胸にすがりついてくる。
その瞬間を狙って、俺は彼女を抱きしめる。優しく。包み込むように。
『冗談だよ、ネフェリア。ようやく素直になってくれたな。俺は最初から、お前だけを愛している』
完璧だ。
これ以上の脚本は、世界中のどんな劇作家にも書けまい。
俺はラウンジの扉を開けた。
ネフェリアは、すでに席についていた。
窓から差し込む午後の光が、彼女の銀髪を絹のように輝かせている。何度見ても息を呑む美しさだ。これが俺のものになる。俺だけのものに。
「ご機嫌うるわしゅう、殿下」
いつも通りの完璧な礼。
俺はミアの腰を抱いたまま、向かいの席に座った。今日は世間話を挟まず、本題から入る。長い前置きは台詞の切れ味を鈍らせるからだ。
「ネフェリア。今日は、大事な話があってお前を呼んだ」
「はい、殿下」
今から始まるぞ。
俺の、完璧な舞台が。
◇
<ネフェリア視点>
殿下が席につかれた瞬間、私は違和感を覚えた。
クラヴァットの結び方が念入りで、指先がわずかにテーブルクロスを掴んでいる。
それにいつもなら最初に交わすはずの当たり障りのない世間話を、今日は省かれた。
一体、なにを考えていらっしゃるのだろう。
まあ、どうでもいい。今日も適当に笑って受け流して、終わったら読書の続きをしよう。
「ネフェリア。俺が求めているのは、血の通った女だ」
……その切り口に、私は思わず眉を上げた。
「お前のような、氷の人形と生涯を添い遂げる気はない」
……生涯を、添い遂げる気は、ない。
生涯を添い遂げる気はない?
心臓が、ぴくりと跳ねた。
「——お前との婚約は破棄する」
やっっっっっったあああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!
心の中で椅子を蹴って立ち上がり、私は両手を天に突き上げ雄叫びを上げた。
正直、一年も婚約が続いていたからこの展開は全く期待していなかった。
でも、神は私を見捨てていなかったらしい。婚約破棄。この四文字を今すぐにでも額縁に飾って浸りたい!
目の奥が、じわりと熱くなる。
でも、ここで泣いてはいけない。私は、ぐっと、目に力を入れた。
表情は崩さない。あくまで「驚いた淑女」として、一拍、間を置く。
そしてゆっくりと、顔を上げた。
「——本当ですか?」
「ああ。もう決めたことだ。今更なにを言われようと──」
「ありがとうございます、殿下!」
「は?」
◇
<ロイトン視点>
頭が、真っ白になった。
「ありがとうございます」、だと?
いや、違う。台本にこんな台詞はない!
これはネフェリアの照れ隠しだ。そうに違いない。動揺のあまり、口が逆さまに動いてしまっただけだ。
しかし——
俺の目の前で、咲いているこの笑顔は、何だ。
花が咲くような、太陽が昇るような、その笑顔。
この一年、一度も俺に見せたことのなかった、その笑顔。
なぜ、それが、今、俺が婚約破棄を告げた瞬間に、咲いている……?
「ま——待て!」
俺は声を絞り出した。
「待て、ネフェリア。お前、耳がおかしいのか?」
「いえ、正常だと思いますが」
「婚約破棄だ。婚約を破棄すると言ったんだ、俺は、今、お前に!」
「はい。ちゃんと聞こえていました。婚約を破棄されるんですよね。ありがとうございます」
「だから反応がおかしいだろう!? なんで、なんで縋ってこないんだ!」
「縋る?」
ネフェリアは小首を傾げた。本当に意味がわからないという顔で。
「なぜ、わたくしが、縋らねばならないのですか?」
「お、お前は俺の婚約者だろう。婚約破棄を告げられて、悲しくないのか」
「悲しい?」
彼女はもう一度、首を傾げた。今度は逆方向に。
その仕草さえ、目を奪われるほど美しい。
「むしろ、祝杯をあげたい気分です」
祝杯。
その単語が、俺の脳に届くまで、たっぷり三秒かかった。
「な——なぜ、だ」
「殿下。わたくしにとってこの一年は、終始一貫して『ご奉公』でございました」
ご奉公?
「本日この瞬間をもって、わたくしはそのご奉公から解放される運びとなりました。これを慶事と呼ばずして、何と呼びましょうか」
「な、なにを言っているんだ……?」
俺は、自分の声が震えているのに気づいた。
「お前は、俺を、愛していないのか!? 俺はお前の婚約者だぞ!?」
ネフェリアは、ゆっくりと、首を横に振った。
そして、俺の目を、まっすぐに見つめた。
この一年、俺はずっと、この女の瞳を盗み見てきた。アメジストのような薄紫の瞳。何を考えているのか、ついぞわからなかったあの瞳が、今、初めて、俺に対して感情を宿していた。
その感情の名前は——
「殿下」
彼女は静かに口を開いた。
「そのような誤解をされるのは、大変、遺憾に存じます」
——憐憫だった。
俺は、息ができなくなった。
◇
<ネフェリア視点>
殿下のお顔から、血の気が完全に引いていた。
私は別段、彼を傷つけるためにここにいるのではない。
けれど、ここまで言葉が口をついて出てしまったのは、私自身、止められなかった。
だってこの方は、本当に、何もわかっていらっしゃらないのだ。
この一年、私は何度、寝台の中で泣いただろう。
何度、明日のお茶会の予定表を見て、ため息をついただろう。
何度、父の赤い目を思い出して、「私は大丈夫」と自分に言い聞かせただろう。
その全部が、今、目の前のこの方に、伝わるはずもないのだとわかっている。
わかっているけれど。
ならば、最後に一押し、しておこう。
二度と、この方が同じ過ちを——他の誰かに繰り返さぬように。
私は椅子から立ち上がり、テーブルを回って、殿下の真横まで進んだ。
驚いたミア嬢が、慌てて殿下の腕にしがみつく。私は彼女には目もくれず、殿下の耳元に顔を近づけた。
息がかかるほどの至近距離。
「もしや殿下はわたくしの嫉妬心を煽りたくて、他の令嬢と仲良くされていたのですか?」
「……ッ」
「だとしたらそれは大変無為なものでした。だってわたくし——」
私は身を引き、最後に、もう一度、殿下のお顔を真正面から見つめた。
この一年、ずっと、心の奥にしまっていた一言。
誰にも言えなかった、けれど、毎日のように胸の中で繰り返してきた一言。
それを、ようやく、口にできる。
「——最初からずっとあなたに興味ありませんでしたから」
ぱりん。
空気が割れる音がした、ような気がした。
もちろん、気のせいだ。何一つ割れていない。
しかし、目の前で、殿下の何かが、確かに割れた。
◇
<ロイトン視点>
最初からずっとあなたに興味ありませんでしたから。
俺の脳の中を、何度も何度も反響した。
最初から。
ずっと。
興味ない。
目の前の景色が、ぐにゃりと歪んだ。
いや、歪んだのは景色ではない。俺の方だ。立っているはずの足元が、突然、底のない井戸の縁になったかのように、おぼつかなくなっていた。
ならば、と、俺の中の何かが、絶望的な計算を始める。
俺がこの一年、繰り出してきたあれは、何だったのだ。
彼女の前で剣術大会で優勝してみせたあれは、何だ。
新法を起草してみせたあれは、何だ。
詩を、宝石を、書物を贈り続けたあれは、何だ。
そしてミアを連れ歩き、嫉妬を煽ろうと躍起になったあれは——
大好きな女から、決定的に嫌われるための、愚行。
ただ、それだけだったのか。
俺は、椅子から滑り落ちた。
いや、滑り落ちたのではない。膝が、自分の体重を支えることを拒否したのだ。
絨毯の上に、王太子の正装が、無様に崩れ落ちる。
「い、いやだ!」
声が、勝手に出た。
「いやだ、嘘だと言ってくれ、ネフェリア!」
俺は、彼女の足元にすがりついた。
ドレスの裾を、震える手で掴んだ。
「俺が悪かった。今のは、冗談だ。何でもする。何でもするから、婚約破棄は——」
その手を、彼女は、振り払った。
冷たく。
虫を払うほどの感情さえ込めずに。
◇
<ネフェリア視点>
すがりついてくる手を、振り払う。
やはりこの方は、最後の最後まで、わかっていらっしゃらない。
ご自身の言葉一つで、人の人生がどれだけ振り回されてきたかを。
婚約も、破棄も、すべて「冗談」で済ませられると、本気で思っていらっしゃる。
ここで撤回されてしまったら、私はまた、来週のお茶会に出席しなければならなくなる。寝台の中で泣く夜が、また始まる。父に「大丈夫」と嘘をつき続ける朝が、また続く。
それだけは、絶対に、嫌だ。
ならば、撤回の余地を、今ここで、消し去る。
私は深く、深く、礼をした。
この一年、この方に向けて繰り返してきた、あの完璧な角度の礼を。最後に一度だけ、心を込めて。
「殿下。本日のご決断、しかと承りました。婚約破棄、ありがたく頂戴いたします」
「ネフェリア、頼む、聞いてくれ——」
「お話の場には、ミア嬢という確かな証人もいらっしゃいます。撤回のなき旨、何卒、お含みおきくださいませ」
ミア嬢が、ひっと小さく息を呑んだ。
私は身を起こした。
殿下のお顔は、まだ絨毯のあたりにある。
「では、殿下。二度とお会いすることもないでしょう」
私は、最高に晴れやかな笑顔を浮かべて、扉へ向かって歩き出した。
◇
<ロイトン視点>
「では、殿下。二度とお会いすることもないでしょう」
彼女は、最高に晴れやかな笑顔を見せた。
この一年で、二度目の、心からの笑顔だった。
一度目は、俺が婚約破棄を告げた瞬間。
二度目は、俺との関係が完全に終わった、この瞬間。
どちらも、俺を喜ばせるためのものでは、なかった。
「——さようなら」
絶世の美女の背中が、ラウンジの扉の向こうに消えていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
俺は、その場にうずくまったまま、動けなかった。
隣でミアが「殿下……」と何か言っていたが、その声は、もう俺の耳には届かなかった。
◇
<ネフェリア視点>
王宮の正門を出て、馬車に乗り込んだ瞬間、私はようやく、息を吐いた。
御者に「アルジェント邸へ」と告げ、革張りの座席に深く身を沈めた途端——
涙が、ぽろりと、こぼれた。
止める間もなかった。一粒目が落ちた瞬間に、堰が切れたように、次から次へと頬を伝っていく。私は両手で顔を覆い、声を殺して、肩を震わせた。
たった一年だった。
けれど、私にとっては、永遠のように長い一年だった。
そのすべてが、今、終わったのだ。
窓の外を、王都の街並みが流れていく。石畳の音、市場の喧騒、子供たちの笑い声。
不思議だった。この一年、王宮への行き帰りで何度もこの通りを抜けていたはずなのに、街がこんなにも色彩豊かだったとは、知らなかった。
涙が止まる頃には、空が橙色に染まり始めていた。
屋敷に戻ったら、まず父に話そう。
父はきっと、最初は痛ましそうな顔をなさるだろう。それから、私の表情を見て、「ああ、よかった」と——お前が笑ってくれて、よかった、と——目を真っ赤にされるに違いない。父は、いつもそうだ。
もちろん、王太子に破棄された娘に、新たな縁談が舞い込むかは怪しい。けれど、それはそれで構わない。
あの一年に較べれば、嫁がない人生など、なんと穏やかな話だろう。
むしろ、これからの人生は、誰のためでもなく、自分自身のために使えるのだ。読みたい本を読み、回りたい領地を回り、好きなだけ算盤を弾けばいい。
明日からは、自分の人生を、自分の手で、生きていける。
一年間、お疲れ様でした、ネフェリア。
よく、耐えました。
心の中で、私は自分の頭を、優しく、撫でた。
馬車は、夕焼けに染まる王都を抜けて、伯爵邸へと向かっていく。
空が、橙色に燃えていた。
その橙の中に、銀色の月が、薄く浮かんでいた。
◇
<ロイトン視点>
俺は、いつまでも、ラウンジの絨毯の上にうずくまっていた。
日が傾き、窓から差し込む光が、橙色に変わっていった。
その光が、彼女の飲み残したベルガモットの香りが、まだ、わずかに残っていた。
俺は天才だった。そう、自負していた。
政治、魔術、剣術、そのすべてにおいて、歴史に名を残すレベルの。
けれど、俺は、たった一つ、決定的な何かを、永遠に手に入れ損ねた。
それは、銀髪の女の、心だった。
「——殿下」
ミアが、俺の肩に、おずおずと手を置いた。
「殿下、わたくしが、そばに——」
俺は、その手を、振り払った。
ネフェリアが俺の手を払ったのと、まったく同じ仕草で。
ミアが息を呑むのが聞こえた。けれど、俺はもう、彼女に何も言う気力もなかった。
俺は、絨毯に額を擦り付けた。
王太子が、誰もいないラウンジで、男爵令嬢一人を傍観者として、声を殺して泣いた。
彼女は、最初から最後まで興味すら持ってくれなかったのか。
夕焼けが、王宮を、赤く染め上げていく。
まるで、俺の心の中の最後の何かが、燃え尽きていく色のようだった。




