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どうぞ

掲載日:2026/04/27

「どうぞ」


まだ言葉もおぼつかない頃、その子はそればかり言っていた。


積み木を差し出しては、「どうぞ」。

食べかけのクッキーを差し出しても、「どうぞ」。

自分のおもちゃも、ぬいぐるみも、何でも誰かに渡したがった。


母は笑って受け取る。

父も少し照れながら、「ありがとう」と返す。


小さな手から渡される「どうぞ」は、不思議なくらいまっすぐで、惜しげもなかった。


——この子は、なんでもあげちゃうね。


そう言いながらも、母はそのたびに少しだけ胸があたたかくなった。


やがて、その子は成長した。


「どうぞ」と言うことは、少しずつ減っていった。

代わりに、「いいよ」や「あとで」が増え、

自分のものを手放すことにも、ためらいを覚えるようになった。


当たり前のことだった。


学校に行き、友達ができて、

世界が広がるにつれて、

その子の手の中には、守るものが増えていった。


それでも時折、

忘れたように「どうぞ」と言うことがあった。


飲み物を注いだとき。

席を譲るとき。

誰かに何かを渡すとき。


その声を聞くたびに、母は少しだけ昔を思い出した。


やがて、その子は家を出た。


引っ越しの日、

段ボールに囲まれた部屋で、

母は何度も声をかけようとして、やめた。


何を言えばいいのかわからなかった。


「体に気をつけて」

「ちゃんと食べなさい」

「困ったら連絡して」


どれも本当で、どれも足りない気がした。


結局、玄関で靴を履く背中に向かって、

母はただ言った。


「いってらっしゃい」


その子は振り返って、

少し照れたように笑い、

ドアを開けて外へ出た。


その瞬間、

もう“あの小さな手”はここにはないのだと、

母は静かに理解した。


それから何年も経った。


ある日、「子どもが生まれた」と連絡が来た。


写真の中には、小さな赤ん坊と、

見慣れているはずなのにどこか新しい顔をした我が子がいた。


母は何度もその写真を見返した。


初めてその家を訪れた日。


玄関の前でチャイムを押すと、

内側から足音が近づいてくる。


ドアが開く。


そこに立っていたのは、

もうすっかり大人になったその子だった。


けれど、どこかに、確かにあの頃の面影がある。


「来たよ」


母がそう言うと、

少しだけ間を置いて、その子は笑った。


そして、ドアを大きく開けて——


「どうぞ」


そう言った。


その一言に、

母の中で時間がほどける。


積み木を差し出していた小さな手。

クッキーを渡そうとしていたあの顔。


すべてが、今この瞬間につながっているようだった。


母はゆっくりと、その家の中へ足を踏み入れる。


「おじゃまします」


そう言いながら。


その先の部屋では、

新しい命が、小さく息をしていた。


「どうぞ」


あの頃と同じ言葉なのに、

今はもう、受け取るものが違う。


差し出されているのは、

おもちゃでも、お菓子でもない。


時間と、人生と、

そしてこれから続いていく家族のかたちだった。


母はふと、思う。


あの子は、何も変わっていなかったのかもしれない。


ただ、

「どうぞ」と差し出すものが、

少しずつ大きくなっていっただけで。


玄関の向こうで、

その子はもう一度言う。


「どうぞ」


その声の奥に、

あの小さな頃と同じやわらかさを感じながら、


母は静かにうなずいた。


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