第1話 スラム街の少年
とある街のスラム街の一角。
腐った匂いと、湿った空気がまとわりつくその場所に――ひとりの少年がいた。
年の頃は、五歳前後。
白だったのか黒だったのかも分からないほど汚れたTシャツを着て、
裸足のまま、地面に座り込んでいる。
名前はない。
呼ばれたことが、ないからだ。
ただ、すぐそばに――
かつて母親だったものが、動かずに横たわっているだけだった。
それを見ても、少年はもう泣かない。
ここでは、珍しくもない光景だからだ。
孤児なんて、いくらでもいる。
そして、すぐに消える。
少年は今日も、どこからか食べ物を持ってきた。
小さな手に握られているのは、誰かが捨てたパンのかけら。
汚れていても、関係ない。
食べなければ、死ぬ。
無言のまま、それを口に運ぶ。
――その時。
「おい」
低く、刺すような声が降ってきた。
「誰の許可を得て、あそこの食いもん持ってきてんだ?」
顔を上げる。
そこに立っていたのは、十五歳ほどの少年。
痩せているのに、妙に威圧感がある。
濁った目が、まっすぐこちらを見下ろしていた。
――バンダナ。
それが、そいつの呼び名。
頭にいつも布を巻いているから、そう呼ばれているだけだ。
この辺りの孤児たちを牛耳る、ガキの王様。
逆らえばどうなるか、考えるまでもない。
それでも。
少年は何も言わず、パンをかじり続けた。
「……無視してんじゃねぇよ」
空気が変わる。
次の瞬間――拳が振り下ろされた。
小さな体が、地面に叩きつけられる。
ここはそういう場所だ。
守れなければ、奪われる。
少年は必死に抵抗した。
小さな手で相手を押し返し、噛みつき、爪を立てる。
だが、届かない。
力が違いすぎる。
体格が違いすぎる。
何度も殴られ、蹴られ、呼吸が乱れる。
視界が揺れる。
それでも――
手の中のパンだけは、離さなかった。
「チッ、しつけぇな」
バンダナが舌打ちする。
次の一撃で、少年の体から力が抜けた。
その瞬間、パンはあっさり奪われた。
小さな手が、空をつかむ。
――届かない。
ぼやける視界の中で、奪われた食べ物だけが遠ざかっていく。
それが、この世界のすべてだった。
そして。
少年は、静かに意識を失った。




