止まるな! 有罪ちゃん!
尾州の羊毛で織られた背広が肩へ馴染むと、日々背負う責務に友愛の温もりを感じる。
息の白くなる季節であっても、背筋の秀麗は緊張ではなく、足先の鈍磨も油断ではない。
重厚を束ねる轍を倅が追い、娘に映る最愛の面影―― その相似的自己愛も可愛らしい。
親愛と最愛の妻は、馴染む笑顔で私を送る。
それが私の、進み続ける日常の始まりだ。
ハイヤーが我が家の前で待機している。
車内では、新着メールを確認し、経済紙の朝刊に目を通し、 会社へ到着する頃合いにそれを読み終わる。貿易業を商う我が社にとって、民意は物流の導線だ。憂いは発展を呼び、格差は革命を育む。
首都の城下に立ち並ぶビル群の一棟に支社を構え、近隣と経済合理性に基づく関係を結んでいる。大理石のフロアが天井照明を返し、コッラディーニのレプリカを撫でる黄色の彩光は、角度を変えても濁らない。
エッセンシャルワーカーに会釈を示し、高層階行きのエレベーターへ向かう。固定化された命令と規律によって、私は社会へ入場する。
適切な空調がオフィスへと誘う。機械部品の排熱と親しんだタイルカーペットの感触を受け取り、執務室へ向かう。
堅固なガラスとメタルの型枠に囲まれた、創業以来継承されてきたヴィンテージの書斎机は、時代に置いて行かれても尚、かつて大木であった気配は損なわれない。モダンなエルゴノミクスでさえも風景として馴染ませる懐の広さは、私の内面を戒律する。
「ギルティ! ギルティ! ギルティ!」
聞き慣れない音だ。社員がイヤホンでもし忘れたのだろうか、と辺りを見渡してみるも、誰もがその音に無関心だった。
「ギルティ! ギルティ! ギルティ!」
それに、この音は執務室で鳴っている。よく聞いてみると、音は書斎机の引き出しの奥から鳴っていた。つまみを引くと、その音は声であった。
「あなた、有罪です」
Magentaを基調としたマスコットが、引き出しの奥でそう言った。
黒い睫毛の奥から、小さいながらも真っ直ぐなピンクの視線が、生き生きと私を見つめている。
驚く、という経験が私には新鮮だった。
そうしていると、彼女は自身の背中を弄り、何かを取り出そうとする。けれど取り出すには引き出しが狭いように感じたので、私は取っ手を少し引く。
「出ておいで」
そう言って手を差し出してみると、けれどその必要ないようだった。彼女は慣性から離れた動きで中空を移動し、書斎机の上へとやってくる。
彼女は整頓された書類の上で僅かのあいだ漂い、仕切り直すように宣言する。
「あなた、有罪です」
彼女が背中から取り出した真っ白なプラカードには、『有罪』という文字が記されていた。
「ギルティ! ギルティ! ギルティ!―― 」
そうしてすぐに、彼女はその声を繰り返す。
「少し、声のトーンを落としてもらえるかな?」
「ギルティ! ギルティ! ギルティ!」
仕方が無いので、私は電話を取る素振りの後に、部屋の調光フィルムの電源を入れる。
「ギルティ! ギルティ! ギルティ!」
「―― 有罪?」
「ギルティ! ギルティ! ギルティ!」
私は手に取っていた携帯を置き、無垢にも思える瞳を覗く。
「私に…… 罪が?」
「ギルティ―― !」
私の言葉を皮切りに、彼女は掲げた有罪のプラカードを背に収納し、次に二つのサイリウムを取り出した。黄と水色のケミカルライトが、彼女の表情を明るくする。
私は、経営を含め日常生活において法律を破ったことはないし、また倫理的な呵責に対しても、自覚した頃には清算の術を実行している。
ジャケットをスタンドに掛け、珈琲を淹れに給湯室へ向かう。
並べられたインスタントの銘柄から、最も残量の多いものを選ぶ。
保温されていた湯は数秒で熱湯へと沸き上がり、専用のマグカップへ注がれる。
いつもより砂糖を多めに、代わりに粉末クリームを少なめに。本日の私に、まろやかな甘みは不要だろう。
立ち上る湯気を追い、執務室へ戻る。ソーサーが模る螺旋の渦は、矛盾の証明を私に迫る。
彼女はサイリウムを振る手を休まない。
沈黙の思考を割ったのは、ノックの音だった。
「―― どうぞ」
「失礼します。先日の物流遅延の兆候ですが……」
「ああ、その件は今朝チェックした。いつも通りで構わない」
「かしこまりました。失礼します――」
サイリウムの生彩が、珈琲の水面に揺れる。
抜かりの無い日々に、罪を問われる暇はない。案外、明日にはこの幻覚も、あっさりと消えているかもしれない。多少気持ちがナーバスになっているとすれば、これはその警告と受け取っても構わないだろう。
私の業務は留まらない。
例え有罪であるからと言って、迷っている時間は与えられていない。
刻一は平等ではない。重責の歪は社員の負担へ必ず響く……。
歪。
不正。
罪。
有罪。
歪。
「歪?」
歪なのか? 私は今。
だから私は、有罪なのか?
Magentaの瞳は私をじっと見つめている。
この応援は、私に与えられたチャンスなのか?
私の、責務と、愛と、合理と、規律が、歪であると?
責務が愛を確かにし、愛が合理を育み、合理が規律を象り、規律が新たな責務を生む。
これが私の人生。
これが私の螺旋。
これが私の止まらないための日常――。
Magentaの瞳は、私をじっと見つめている。
珈琲と粉末クリームの濁色が象る螺旋が停止する。
ふと、思った。
"この渦の中心は、果たして何色なのだろうか"。
知るためには、ソーサーを取り出さなければならない。
そんな事が、果たして私に出来るだろうか?
もし、私が渦の中心に目を向けることなく飲み干して、果たして何かが変わるだろうか?
変わらないはずだ。私はずっとそうしてきた。
マグを手に取り、渦巻く矛盾ごと飲み干してしまえばいい。
すると、Magentaの瞳が、じっと私を見つめている事に気が付く。
「あなた、"詰み"ますよ?」
Magentaの瞳が、私をじっと見つめている。
Magentaの瞳が、私をじっと見つめている。
―― これは賭けだ。
象られた螺旋の中心に沈むソーサーを、ゆっくりと取り出す。
気泡を纏う水面は私の動きに追従し、螺旋はたちまち均等に崩れる。
けれどそれは、私には歪に見えなかった。
それはモミの木のように見えた。
「今日はクリスマスだ」
――。
私は、社内に残業禁止令を出し、決められたスケジュールを淡々と熟す。
刻一と夜は更け、定時を迎え退社する。
規律は始まりの数字を指し、大理石は暖色を弾く。
ハイヤーに乗り込み、少し寄り道をして、自宅へと向かった。
「ところで、青木くん。君とは長い付き合いになるが……」
彼は専属の運転手として、家族とも親密だ。
「左様でございます――」
「ひとつ、これを着て共に向かってはくれないか?」
駐車されたレクサスに反射する姿から、つい目を背けてしまう。
「覚悟は良いな?」
私は聞いた。
「左様でございます」
銀色のドアノブを捻り、家族が待つリビングへと駆け抜ける。
片手にはホールケーキ、片手にはプレゼント袋。
真っ白な付け髭と、真っ赤な一張羅。
隣には、真っ赤なお鼻と茶色い着ぐるみの親友。
「「メリークリスマス!」」
私たちは声を合わせて、そう言った。
――。
「それじゃあ、青木くん。こちらのケーキは、是非持ち帰ってくれ」
そうして、三年ぶりにクリスマスを、およそ長い時間、家族と共に過ごした。
「有体に言って、有罪です」
その言葉を皮切りに、私は彼女を見ていない。




