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「ハンク、しっかりして!」
「……?」
ヘレンがぼくのことを覗き込んでいる。
「よかった。ハンク、大丈夫なのよね?」
ぼくはどうやら、その場に倒れているみたいだった。まだ眼孔の奥に、わずかに鈍い痛みが残っている。
「なにが、あったの?」
「あの女主人の死体が消えたあとに、いきなり白目を向いて倒れちゃったのよ」
「なんだか格好の悪いところを見せちゃったかな?」
それで起き上がる。それとなんだかヘレンの言い方がおかしくて笑ってしまった。
「ハンクってば笑い事じゃないわ! じつは変な魔法をかけられていて、あのまま死んじゃうんじゃないかと思ったのよ」
「ごめん。たぶん大丈夫だよ」
「とにかくなんともなさそうでよかったけど」
ようやく終わったんだろうか? 血みどろみたいな戦いを、終えることができた?
ヘレンはその場にうずくまると、また泣き出してしまうんじゃないかって感じだった。
なんて言葉をかけるべきか。どんな言葉を掛ければいいのか。それに、これまでの疲れが一気に押し寄せてきたような感じがした。
「ヘレン、終わった……終わったんだ。こんな場所からは早く出よう」
「そうね、長居は必要ないわね」
それで荷物を持ってすぐに玄関へと向かった。
でも玄関扉を開けた先には、闇が広がっていた。いいや、というよりも漆黒の絵具で塗られたかのような壁が立ちはだかっているようだった。
「なにこれ? どうなっているんだ?」
「どういうことなの? これってなに?」
その真っ黒な壁に触れてみると、まるで石に触ったような感じがした。でも真っ平らで、上等なシルクのような滑らかな印象。
「まだなにか、罠でも残っているのかな?」
「ハンク、少しわたしの後ろに下がってくれるかしら? 試したいことがあるの」
「魔法で一発、壁に穴でもあけてみたりするの?」
「とりあえず試せるものは試すわよ」
それから黒い壁から少し距離をとって、ぼくは言われた通りにヘレンの後ろにまわった。
ヘレンは壁と対峙するように構えて、杖を振りかざした。
「マグヌム プロケッラ!」
まるで暴風みたいにその場の空気が乱れ舞って、ぼくは思わず目を閉じた。
「びくともしてないわ。もう一つ試すわよ」
再びヘレンが杖を振う。
「グランディス イムプルスス!」
白っぽい巨大な光球が杖から放たれ、黒い壁にぶつかって大きな衝突音とともに弾けた。でもそれだけで、びくともしていなかった。
「そんな……」
それで近寄って触れてみたけど、なんの変化もないみたいだ。
ぼくは銃をホルスターから抜いた。
「次は銃でも試してみようかな?」
「わたしの魔法でびくともしないのに、銃なんて効くのかしら?」
「試してみれば分かるよ。たしかに無駄かもしれないけど」
ぼくは手早く火薬と鉛弾を一発ぶんだけ装填して、撃鉄を起こした。
「ヘレン、跳弾はほんとに危ないから、ぼくのすぐ真後ろに立ってて」
「分かったわ」
動かない大きな的だ。ちゃんと狙えば外すことなんてない。
狙って、引き金を引いく。
ズドンと手に衝撃が伝わる。目の前にかすかな火花が散って盛大な硝煙が舞った。
でも、はたから見るには、なんの変化もなかった。それで黒い壁に近づいてみた。よく見るとそのすぐそばの床に、ぺちゃんこに潰れた鉛の銃弾が落ちていた。
壁にはキズもヘコミもついていなかった。
銃弾を拾いあげて、ヘレンに言う。
「銃でもダメみたいだ」
「それ、撃った弾なの?」
「鉛球は壁にはまったく効かないみたいだ」
「銀の弾丸でもだめかしら?」
「やってみる?」
ぼくはもう一度、銃に火薬と、今度は銀の弾丸を込めて、同じようにして撃った。
黒い壁に銀色の光が散ったのが見えて、直後に左の耳にチクリとした痛みを感じた。
でも結果は同じだった。銀の弾丸は硬い。鉛弾と違って、黒い壁に当たったとたんに砕けたんだ。
銃弾は細かく砕けてあたりに散って、肝心の黒い壁のほうは、まったく無傷だった。
それでなんとなく、さっきの左の耳がひりひりすると思ったら、ぼくの顔を見たヘレンが驚いたような声を出した。
「ハンク、耳から血が」
「え?」
触れてみると、わずかな鮮血が手についた。
「うん……たぶんだけど、さっきの砕けた弾の破片が、飛んできて当たったんだと思う」
「ごめんなさい! わたしが銀の弾丸でも試そうなんてこと言ったから」
「べつに、大丈夫だよ」
たしかに痛いけど、たいした痛みじゃない。それに跳弾で怪我をするのも、これが初めてというわけじゃないし……
「ハンク、ほんとうにごめんなさい。すぐ手当てするから」
「穴が開いたわけじゃないよね?」
「そうね……大丈夫みたい」
「でもよかった」
「え? なにを言っているのよ」
「跳弾の破片が、ヘレンに当たらなくてよかったってこと」
「それは……そうかもしれないけど、ハンクがこれ以上傷つく必要なんてないから」
***
屋敷の外へ出ることができない。
ぜんぶ調べた。調べられるようなところはぜんぶ。窓は開かないものばかりだった。いいや、開くものもあった。でも透明な壁があるみたいな感じで阻まれて、外へ出ることができない。
そんななかで唯一、厨房にあったドアは外へ繋がっていた。でもその先はコリドーのような壁に取り囲まれた、まるで中庭みたいなところだった。壁は見上げるほどの高さで、ちょうど屋敷の二階の上のところと同じくらい。すぐには登れないな。
そして、女主人が最後に残した言葉を思い出した。
「これで終わったとは思わないことね、決して……か」
なにが終わらないんだろう?
まだなにか残っているの?
罠があるのだろうか? それとも、まだ何者かが潜んでいるのかな?
中庭には 井戸があって、木も生えている。小さいけど。それとなにか細々と植物が茂っている。畑というには粗末な感じ。顔を上げてみれば空が見える。
「ここってなんだか、修道院の中庭みたいなところね」
「ヘレン、この壁を越えることができれば、外に出られるかもしれないよ」
「でも、かんたんに飛び越えていけるような高さじゃないわよ」
たしかに、軽々と越えるなんていうのは無理そうな高さをしている。
「梯子かロープか、なにか使えそうなものを探してみよう」
それで今度は、あの物置になってる地下室へ向かった。なにか使えるものがないかと、ヘレンと手分けして探したけど、役に立ちそうなものはすぐに見つからない。
けっきょくは棚の一つから物をぜんぶ取りだして、その棚を運び出すことにした。それから広間からは椅子も持ってくる。
それで壁際で立てかけるように棚を置いて、椅子も使ってようやく二人で登って、辛うじて壁の向こうを覗き見ることができた。
ただ、その先に見えたのは想像もしていない光景だった。
周囲にあるはずの森は見えない。それに地面も見えない。周囲はまるで、濃い霧で満ちているような空間があるだけだ。
まるで屋敷が、その中で浮かんでいるみたいに思えた。
「ねえヘレン、この状況をどう思う?」
「わ、分からないわ。なんなのよこれ」
「この霧みたいなところ、飛び込んでみても大丈夫かな?」
「やめたほうがいいと思うわ。どうやらわたしたち、やっぱりこの屋敷に閉じ込められているみたいね」
しばらく景色をみつめていたけど、どうにもならなかった。
地面に降りると、これまでの疲れがどっと押し寄せてくるような感じがした。まったくの徒労になったんだ。
それでヘレンがつぶやいた。
「ハンク、思い出したわ」
「なにが? なにかあったの」
「この屋敷に入る前に、わたしとブリムくんとエッジくんの三人で周囲を見てまわったでしょ?」
「そうだね」
「そのときは、お屋敷の外観に、こんなふうな壁に囲まれた場所は見当たらなかったのよ」
「ほんとに?」
「こんな壁があるのを見た記憶はないわ」
「うーん、つまりこの壁に囲まれた庭は、別の世界っていうのか、違う空間みたいなことなのかな?」
「わからないけど、たぶんそんな感じかもしれないわね」




