Ⅶ
再び厨房へと戻ったが、窓から見えるその外の景色が気になった。
それに外へ通じていそうなドアもある。
「クリスティ、そこの扉は開くのか?」
「ええ、これは開くわよ」
それでクリスティはドアを開けてみせてた。
「出れるのか?」
「そうだけど、見たらがっかりするわよ、きっと」
ががっかりさせられるとは、どういうことだ?
とにかくそこから出てみれば、屋敷の外だった。だがここは、屋敷の二階くらいまでの高さの、明るい灰色の壁で囲まれた、中庭のような感じの空間だ。
井戸があって、小さな木も植わってる。それに畑というには小さすぎるほどだが、なにか植物も茂ってる。
「どうかしら?」
「たしかに、一瞬期待させられたな」
「でも外の空気が吸えて、陽の光も浴びることができるわ。少しは気分転換ができるような場所かしら」
「俺には、修道院かなにかの、しみったれた中庭にしかみえんがね」
壁の一部が傾いた陽の光で照らされてる。
「だがなあクリスティ、ここからなら屋敷の外へ出れるんじゃないか? この壁、このくらいの高さなら、ロープか梯子か、とにかく何か使って乗り越えらんことも、」
「行っちゃダメよ!」
クリスティはいきなり俺の腕を掴んだ。しかも彼女の手の爪が腕に食い込むんじゃないかってくらいだ。
「そこを越えても、出られないのよ」
その彼女の目はうるんでいて、なにか強い感情を抑えようとしているみたいな表情だ。
「おいおい、まだなにもしちゃいないぜ。それに俺の腕を引き裂くつもりか?」
「あ、その、」
彼女はハッとして掴んでた腕を放した。「ごめんなさい」
どうやらこの様子だと、過去になにかあったのかもしれん。
「まあいいさ。どうやら壁の向こうは、なにか危険でもあるのか?」
「ええ、そうね……この向こうには、なにも無いから」
予想外の一言だ。何も無いだと? どういうことだ?
「なにもないだって?」
「そうよ。でもだからこそ危険よ」
「危険……か」
とりあえず近寄って触れてみる。艶は無いが、滑らかに仕上げた石のような感じだ。それに継ぎ目がない。まるで壁一面が一つの巨大な岩から作り出されたかのような印象がする。
不意に違和感を覚えた。なにかおかしい。
俺は屋敷の中へ戻り、厨房を出てさっきの廊下へ向かった。
「ちょっとカルバンってば、急にどうしたの?」
「一つ確かめたいんだ」
廊下は屋敷の裏手側に面している。そこにある窓から外を見た。
やはり……見当たらない。あれほどの壁があれば、ここからでも見えるはずだ。なのにそれらしいものが見えないどころか、さっきの井戸が見える。あの壁、外から見れば不可視なのか、それともあそこは別の空間のようなものとでもいうのか。
「カルバン、急にどうしたの?」
「クリスティ、見てみろ。ここから見ると壁なんてない。あの厨房の扉の先は、純粋な屋外じゃないってわけだ」
「噓でしょ……そんな、どうして、どうして気がつかなかったの」
クリスティは困惑したような表情で窓の外を見つめた。
「ところで君の兄さんについては、話を聞かせてもらえてないが、もしかすると、あの壁のこととなにか関係があるのか?」
「そうよ……」
クリスティはどこか泣き出しそうな感じの雰囲気だ。聞くのはマズかったか。
だが彼女は続きを話した。
「ノックス兄さんは、壁の向こう側を調べに行ってみるって言いだして、私は危険かもしれないからやめてって言ったんだけど、少し見てみるだけで、すぐに戻るからって……」
それで顛末の想像がついた。きっと、落ちたんだろう。
「私があの時、もっと強く引き留めていれば、兄さんは死なずに済んだかもしれないのに!」
クリスティはその場に崩れるように膝をついて泣き出した。
「クリスティ……」
俺は、どういう言葉をかけてやればよいのか、咄嗟には分からない。こういうとき、どんな言葉をかけてやればいいんだ?
そりゃ……話したくないって言ったわけだ。思い出したくもないんだろう。俺は訊いちまった。
「クリスティ……その、君のせいじゃないはずだ」
「でも、でもだって、」
「君の兄さんも、危険なことくらいは、承知だっただろう」
俺は彼女の傍に膝をついて、そっと肩に触った。
「クリスティ、辛いだろうってのは、俺にも理解くらいはできる。だが、だからって悔い続けることが、亡くなった兄と君自身のためになるのか?」
クリスティは俺の顔を見て、またうつむいて涙をぬぐった。
俺の言葉選び、これで良かったか? クリスティは黙ったまま、ゆっくりと深呼吸してる。
次になんて言葉をかけてやればいいか考えていると、クリスティは手で顔を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「そうよね……もしもこんなところをノックス兄さんがみたら、なんていうかしら。ごめんなさい、カルバン。みっともないところ見せちゃったかしら」
「そんなことないだろ。泣きたいときは泣けばいいさ」
「ありがとう。少し気持ちが、すっきりしたような気がする」
「そうか」
クリスティはまた窓のほうを見て、つぶやくように続ける。
「そういえば、なんていうのかしら? さっき説明したときは、なにも無いって言ったけど、霧? あるいは靄みたいなのに辺りが包まれていて、他にはなにも見えない。たしか兄さんはそんなふうに言っていた」
「ふむ、靄に包まれてるか……ともかく自分の目で確かめんことには、信じがたいな」
「でもどうするの? そもそも怪我してるのに壁なんて登れないんじゃない?」
「梯子でもあればいいんだがな。あの物置の地下室を探せば、なにか使えるものがあるかもしれん」
「本気で壁を登る気なの?」
「まあ、心配するな。ちょいと向こう側に何が見えるか、自分の目で確かめたいだけだ。それに見える景色が変わってるかもしれんぞ」
ともかく地下室へ向かう。棚の間を進み、なにか使えそうなものがないか探す。いざとなったら、棚を一つ運び出してそれに登ってみるのも手かもしれんが……
ロープもあるが、不安定なものはあまり使いたくない。手の怪我もまだ完全に治ってないんだ。
「カルバン、梯子あるわよ」
「ん?」
だがかなり年季の入った代物だ。
「ちょっと古そうね。大丈夫かしら?」
「まあ、とにかく運び出して持っててみよう」
それで二人で運んで、壁に立てかけてみたが、長さが少しばかし不足気味だ。まあ、無理をすればぎりぎり頭を出して壁の向こう側を覗き見ることくらいはできるだろう。
「ねえ、危なくないかしら?」
「少し危なっかしいかもな。しっかり梯子を押さえておいてくれ」
「分かったわ」
「そうだ、ところでクリスティ」
「なにかしら?」
「その、君の兄さんは、どうやって壁を登ったんだ?」
「ノックス兄さんは、壁とか登るのが得意だったから。あの隅の場所で、素手と素足でひょいひょいって登っちゃうわ」
「そりゃ、俺には真似できんな」
「でもほんとに気をつけて。身を乗り出したりとかはしないでね」
「分かってる。それにこの梯子の長さじゃ、やっと覗くのが精いっぱいさ」
俺は梯子に足をかけた。
「とにかく、クリスティは梯子をしっかりと支えていてくれ。俺は昇って外を覗く。覗くだけだ」
「分かったわ」
それで昇った。ゆっくりと昇った。壁にすがるようにして、梯子の一番上にまで足をかけて上がり、やっと壁の向こう側を覗けた。
見えるものが、信じられなかった。
周囲は、ぼんやりと白い靄のようなもので覆われている。地面どころか、森も遠くの景色も、なにも見えない。いいや、まるで存在していないかのようだ。ああ、それでも太陽の姿だけは見える。
だがこんなことがあっていいのか?
「こりゃ……」
そのとき足元に嫌な感覚がした。危ない、と思った直後にバキッと音がして梯子は俺を支えることをやめた。
一瞬のことだった。地面に落ちたが、なんとか受け身はとれた。だが足も手も背中も痛む。
「カルバン、大丈夫?」
「クリスティ……そっちのほうこそ大丈夫か?」
「私はいいわ。それより怪我は?」
「分からん……」
手の包帯をみると血が滲んでいる。傷が開いてしまったらしい。これだと背中もやってしまっただろうな。
「ごめんなさいカルバン。いきなり落ちてきたから思わず避けちゃった。受け止めてあげればよかったのかもしれないけど」
「無茶を言うもんじゃない。俺のせいで潰されなくてよかったな。そっちに怪我ないか?」
「私はぜんぜん平気よ」
見たところ、実際に彼女の身には何事もないようだ。
「それでカルバン、見たいものは確かめられて?」
「ああ、見えたさ。君の言った通りだ」




