境界の果て、光の中へ
静かに黒弥撒莉理香が言う。
その言葉を受け黒弥撒は膝を折りガクッとその場に倒れこんだ。トランキライザー莉理香はというと相変わらず平静さを保っている。と、同時に茉莉香の許に近づいていき静かにその手を握り締める。温かさが感じられる。生きた人間と同じだ。
「莉理香…」茉莉香は呟く。「あ、あなたはどうなるの?」
「あたしは消えるわ。その時が来たのよ。でもあなたは大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。あたしには莉理香が必要だもの」
すると、トランキライザー莉理香はふるふると首を振る。
「いいえ。あなたはあたしなしでももう立派に生きていける。その証拠に今回の殺人事件だってあたしなしでも耐えられたじゃない。これはつまりあたしの役目の終焉を意味している。何度も言ったけどあたしはあくまであなたを補佐する別人格。役目が終わったのなら消えなければならないわ。本来、別人格などという存在はいらないのだから」
トランキライザー莉理香の手がフッと離れる。彼女は名残惜しそうな表情を一瞬浮かべたが、直ぐにキッと真剣な顔つきになり
「茉莉香が最後まで残された理由。それは二つあるわ。同時にそれを解き明かすのが私の最後の役目」
莉理香はそう言い癖である下顎に手を置いて超絶推理を始めるポーズを取る。
「その前に整理したい」莉理香は言う。「なぜ黒弥撒莉理香は異能の力を使い演繹ビッグバンという資産家に化けてこの演繹城を作ったのか?そしてどうしてこの演繹城を探偵や警察の墓場にしたのか?これは判るわね?」
その言葉を聞いた茉莉香は
「うん、それは判るけど…」
「人格形態変化にはそれだけ強い力があるの。でもね、過ぎたる力は必ず人を狂わせる。その証拠に黒弥撒莉理香は狂っている。何しろ本当に探偵や警察を皆殺しにしたのだから。ここで彼女を止めるのがあたしの最後の役目だし今回の事件を引き起こしてしまったあたしの贖罪でもある。そしてそれがあたしにはできるわ」
トランキライザー莉理香は淡々と話す。
茉莉香は黙ってその推理を聞いている。確かにトランキライザー莉理香の言う通りかもしれない。黒弥撒莉理香の稀有な力を使えば資産家に化けてその資産を自由に使うのは理論的には可能だ。それだけ強い怨念に近い力で黒弥撒莉理香は動いていたのであろう。
それを聞いていた黒弥撒莉理香は
「流石ね。まぁあたしなんだからそのくらい判って当然よね」
それを受けトランキライザー莉理香は答える。
「さて次の問題よ。今回の事件は警察や探偵への復讐が根っこにはある。それならば世間を賑わせていた中学生探偵茉莉香が真っ先に殺されるはずよ。でもそうはならなかった。そして、その理由は二つあるわ」
「ふ〜ん、一応聞いてあげるわ」
「茉莉香を生かした理由。まずは今回の事件のすべてを茉莉香に被せるために彼女を生かした。つまり黒弥撒莉理香とそっくりな茉莉香を犯人にすり替えて自分は罪を逃れるっていう寸法」
「そこまで判るんだ。確かにそうよ。今回の事件の犯人になってもらうためそっくりの茉莉香を生かしたの。今まで探偵として活躍したんだからそろそろ不幸になってもいいでしょ」
茉莉香はグッと下唇を噛む。
確かに自分はトランキライザー莉理香という推理の天才の人格を生み出しそれで探偵として活躍できた。けれど活躍の裏には虐待という背景もある。彼女の家庭環境は劣悪であり決して幸福ではない。だからこそ茉莉香はたくさんの人格を生み出していたのだ。
「だけどもう一つ殺さなかった理由があるの」トランキライザー莉理香は言う。「というよりも黒弥撒莉理香は茉莉香を殺せなかった。殺しちゃいけないの。なぜなら彼女を殺してしまうと自分も消えてしまうから」
茉莉香には言っている意味が判らなかった。自分を殺すと黒弥撒莉理香も消える。一卵性の双子は生まれた時は一緒だが死ぬ時は一緒ではない。そこまでリンクはしていないのである。それは茉莉香にも判る。ただ、トランキライザー莉理香はそうは考えていないようである。
「莉理香、どういうこと?」
と、茉莉香。
するとそれを聞いたトランキライザー莉理香は
「正確に言うとね、茉莉香を殺せないんじゃなくてあたしを殺せないの。なぜならトランキライザー莉理香も黒弥撒莉理香も同じ存在だから。同じなのよ。茉莉香は無意識のうちに双子の姉妹である黒弥撒莉理香という存在をトレースしてあたしを作った。これは一卵性の双子によくあるテレパシーに近いものだと思う。つまりトランキライザー莉理香であるあたしが消えると同時にその分身である黒弥撒莉理香も消えてしまう。いいえ死ぬの。だから黒弥撒莉理香は茉莉香を殺せなかった」
そんなことがありえるのだろうか?茉莉香は確かに最初の事件に遭遇した時、パニックからトランキライザー莉理香という推理の天才の人格を作り出した。しかし、それは無意識に実の姉に助けを求めていたから生み出したのもしれない。
同時に、トランキライザー莉理香と黒弥撒莉理香という存在は元を辿れば一つの存在であるのでお互いにリンクしているようである。不可解な話ではあるが、人格形態変化という異能の力も確かに存在しているので恐らくトランキライザー莉理香の推理は正しいのであろう。
トランキライザー莉理香の推理を聞いた黒弥撒莉理香は驚いたような表情を浮かべながら答える。
「そこまで判るのね。流石はあたしの分身か。そう、茉莉香を殺さなかったのは彼女を殺せば彼女の中にいるトランキライザー莉理香という存在も消えてしまうから。だから殺さなかったの。そして罪を着せてあたしは自由に生きようと思ったってわけ。トランキライザー莉理香、あなたは自分の存在が消えると言っているけどあたしはそれを阻止するわ。その方法が私には判る」
トランキライザー莉理香は真っ直ぐ黒弥撒莉理香を見つめながら
「いえ、あたしは消える。それが宿命なのよ。同時にあなたも消してみせる。探偵が犯人を殺すという本来ならありえない形であたしは今回の事件を終わらせてみせる」
「できるかしら?茉莉香は必要だからあなたの生み出したのよ。それに彼女は自在に人格を消し去れない」
「確かにそうね。茉莉香はあなたのように自在に人格をコントロールできない。でも、あなたにできたことならあたしにもできるのよ。あたしは自分で自分を消し去り同時にあなたという存在も消してみせる。それにあなたはあたしを茉莉香の心の中に閉じこめておくつもりだったんでしょ?そうしなければ茉莉香に全ての罪を着せて自分だけは自由になるなんてことはできない。あたしという存在があれば茉莉香に罪を着せたとしてもそこから容易に抜け出されてしまう。それだけの頭脳があたしにはある」
「あなたを茉莉香の中に閉じ込めて出てこれないようにしてあげる。見ていなさい」
「さぁ、できるかしら?」
茉莉香には今の状況が優勢なのかそれとも劣勢なのか全く判らなかった。ただ二人の話を聞いている限りトランキライザー莉理香は消えたがっているし黒弥撒莉理香はそれを阻止したがっているのは判った。同時にトランキライザー莉理香は自分の消し去り方を知っているような口ぶりで話している。
「茉莉香」唐突に黒弥撒莉理香が言う。「あなたはトランキライザー莉理香を失いたくないでしょ?」
正直に言えばトランキライザー莉理香は失いたくない。自分が窮地に陥った時いつもトランキライザー莉理香は助けてくれた。だが同時に彼女に依存し続けるのもよくないと考えている。しかし…
追い詰められた茉莉香はなんとか声を絞り出す。
「失いたくない」
「ならあなたの心の中にトランキライザー莉理香をずっと存在させておく方法を教えてあげる。あたしたちは双子なんだからそれができるわ」
「どうするの?」
「こうするの」
次の瞬間、黒弥撒莉理香の腹部から無数の腕が伸びてくる。その腕はトランキライザー莉理香と茉莉香を掴むと強引に二人をくっつけようとした。あまりの力で茉莉香は抵抗できない。
「ダメよ」
と、静かにトランキライザー莉理香が告げる。彼女は黒弥撒莉理香から伸びてきた腕に全身を拘束されたが、全く慌てていない。この状況でもそれを打破する方法を考えていた。
黒弥撒莉理香は自在に人格を作り出しさらにその人格のイメージ通りに形態を変化させられる。同時にこの世の物事には表と裏がある。つまり自在に人格を作り出せるのならそれを消し去ることだって可能なはずなのだ。
心の奥底で莉理香と茉莉香は繋がっている。そして黒弥撒莉理香にできるのなら茉莉香にだってできるのだ。さらに言えば茉莉香の別人格であるトランキライザー莉理香にだって可能なはずだ。トランキライザー莉理香は念じる。彼女が願ったのは自分という別人格の役目の終焉と黒弥撒莉理香の暴走を食い止めるということ。
途端、トランキライザー莉理香の体が光だす。そして自分の腹部からぬっと鋭利なナイフを取り出す。いやこの空間に顕現させたと表現した方が正しいかもしれない。いつしかトランキライザー莉理香は黒弥撒莉理香の腕から解放され宙に舞う。そしてそのナイフを自分の首元に近づけ「これで終わりよ。あたしは消える。そして黒弥撒莉理香の暴走を止めるわ」すると黒弥撒莉理香は「あなたは消えない。消させないわ」「茉莉香、お別れの時が来た。あたしはこの黒弥撒莉理香という怪物と共に消える。あなたはもうあたしがいなくて大丈夫。事実この事件に遭遇しあなたは一人でもやってこれたんだから」その言葉を聞いた茉莉香は涙を流す。トランキライザー莉理香という存在を失いたくない。だがこれ以上黒弥撒莉理香を暴走させてはいけない。黒弥撒莉理香は双子の姉妹ではあるが、彼女の暴走は許されるものではないのだ。演繹城で多くの人間が死んだ。だからこの惨劇をここで終わらせなければならない。いつに間にかトランキライザー莉理香は鋭利なナイフを持っている。この世界は三人の精神世界。ナイフだって自在に顕現させられる。そして黒弥撒莉理香はトランキライザー莉理香を消させないために鋼鉄の檻を顕現させそこに彼女を閉じ込めようとしている。しかしトランキライザー莉理香の方が素早かった。彼女は持っていたナイフを腹部に突き刺し武士が切腹するように腹を裂いたのである。しかし不思議なことに一切血は噴き出ないし痛みもない。ただ漠然と消えるのだろうという感覚があった。温かい液体に浸かっているような気分になりトランキライザー莉理香はゆっくりと目を閉じる。黒弥撒莉理香はトランキライザー莉理香を閉じ込めようとするが一瞬遅く彼女を捉えきれずに呆然と立ち尽くす。トランキライザー莉理香の消滅は黒弥撒莉理香の消滅を意味している。なぜなら二人は一心同体であり同一の存在だからだ。「あたし…消えるの?」黒弥撒莉理香は囁く。「せっかくここまで準備したのに…茉莉香に負けるの」するとそれを聞いたトランキライザー莉理香が最後の言葉を放つ。「あなたは茉莉香の片割れだけど茉莉香という人間が生み出したトランキライザー莉理香、つまりあたしのコピー。だから消えるの。あなたの負けよ。あたしたちがこの事件を終わらせたの」「茉莉香…本当の姉妹なのにあっさりとお別れね。もしもあたしたちが一緒に育ち生活していればこんな形でお別れにはならなかったはず。全ては解離性同一性障害という障害と虐待があたしたちを分断させ数奇な運命へと導いた。茉莉香…まぁ頑張りなさい。それが姉であるあたしが言える最後の言葉」次の瞬間、トランキライザー莉理香と黒弥撒莉理香が奇妙な光に包まれやがて一つに融合していく。二人が重なり合ったと思ったら一気に砕けそして消える。茉莉香の前から莉理香という存在は完全に消滅する。同時に茉莉香の意識が遠のく。堪えたかったが、体が鉛のように重くなり抗えない。よほど疲労していたのだろう。彼女はその場で気を失った。
†
黒弥撒莉理香=黒弥撒は赤子の時に双子である茉莉香と別れ父親の許で過ごした。しかし彼女の父親は黒弥撒を育てる気が全くなくすぐに施設へと預けられたのである。施設でも黒弥撒は不遇の時を送る。物心ついて自分に両親がいないのは何となく判った。施設ではイジメられるし職員は助けてくれないし散々な目に遭っている。この境遇から解放して欲しい。何度そう願っただろう?それでもその願いは聞き届けられなかった。
黒弥撒が十歳になった時、彼女は不幸な現実から逃げるために自分の中で新しい人格を作った。いじめっ子を撃退できるような強い存在になりたかったのである。その結果生まれたのがルールズを殴り殺した凶悪な人格であった。不可解なのは人格が切り替わるとその形態まで切り替わるということだろう。黒弥撒には自覚できなかったが、人格が切り替わり凶悪な人格が暴れた後、それを見ていた人間たちの証言を聞き形態が変わるのを自覚したのである。
皆黒弥撒を恐れた。同時に一層近寄らなくなる。それから黒弥撒はさまざまな人格を生み出した。同時に、自分を救ってくれなかったこの世界に強い憎悪を覚えていく。どうして自分だけがこんなにも苦しまなければならないのか?辛い、苦しい、寂しい。全てはこの世界が悪い。なら、この悪い世界を変えてやる。自分の人格形態変化の力で。
彼女の人格形態変化の力はさらに肥大化していく。黒弥撒は不遇な時を過ごしそれを解決するために人格を生み出した。いつしか主人格である黒弥撒莉理香は心の奥底に逃げ込みほとんど外に出なくなったのである。代わりに彼女のメインの人格になりつつあったのが六人の黒弥撒たちである。彼らは黒弥撒莉理香の境遇を知り彼女が憎んだ世界に復讐するために作戦を練った。この世界の秩序を守るのは警察である。しかし警察は無能だ。事件が起きなければ動かない。自分達がこんなにも不幸な境遇にいるのに警察は救ってくれないのだ。
まず警察を罰しよう。警察は罪を償う必要がある。ちょうどその頃だった。黒弥撒莉理香が十三歳を迎え中学に入学した頃である。その時、世は探偵ブーム。トランキライザー莉理香という中学生探偵が難解な事件を解き活躍していたのだ。同時に黒弥撒莉理香はすぐにトランキライザー莉理香が自分とそっくりであることに気づく。ここまでそっくりなのは恐らく同じ血が流れているからだろう。その昔児童養護施設にいた時、職員たちが自分が双子であると言っていたのを聞いたことがある。その時は何かの間違いだろうとあまり気にしなかったが姉妹はいたのだ。またトランキライザー莉理香は探偵として脚光を浴び自分とは違う生活を送っているように感じられた。同じ姉妹なのにこの境遇の差はなんだ?急激にトランキライザー莉理香に対する憎悪が燃え上がる。よしこの莉理香を生贄にしてやる。そして事件を掻き回す探偵たちにも贖罪を与えてやる。黒弥撒莉理香はそう念じ心の奥底でほくそ笑んだ。
一方黒弥撒莉理香の別人格である六人の黒弥撒たちは知識を総動員し警察と探偵たちと葬り去る舞台を探し出す。ここで黒弥撒は日本でも有名な資産家である演繹ビッグバンに目をつける。そして、その演繹ビッグバンそっくりの人格を作り出しさらに人格形態変化で姿を変える。
同時にこの資産家を殺してしまって後は資産家に化けて資産を湯水のように使い始めた。この資産家が突如人格が狂ったように金を使い始めたのはトランキライザー莉理香が推理したように人格が変わったのではなく彼に化けたのが黒弥撒だったからである。
そうやって黒弥撒は刑事や探偵たちを葬り去るテーマパーク建造を思い立つ。名前は演繹状と名付けた。演繹法というのは、刑事や探偵たちに密接に繋がる言葉だから彼らを抹殺するための舞台の名前としてはうってつけであると思えた。
後はこの演繹状を処刑場とするための装置を作るだけである。よく推理小説では見立ての殺人が起こる。ならばそれを真似て処刑してやろう。日本の有名な探偵を集め彼らが得意とする推理方法を逆手にとってその方法で殺してやろう。刑事たちにも悲惨な目に遭ってもらおう。考えるだけでワクワクしてきた。恨みの産物である刑事や探偵たちを葬り去れるのだから。
演繹状の建設で演繹ビッグバンの資産のほとんどを使い果たした。何しろお台場にテーマパークを建てるのである。軽く見積もっても数千億の金が動く。それだけの金を使い黒弥撒は刑事や探偵たちの処刑場である演繹城を作り上げたのであった。




