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トランキライザー莉理香 最後の事件ー演繹城の殺人ー  作者: Futahiro Tada


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12/22

罪なき火刑


     †


 ―――

 茉莉香が目を覚ますと頭上から大きなシャンデリアがぶら下がっていた。壁はコンクリートで出来ているが、見たことのない場所だ。また莉理香と人格交代してしまったようである。ここまで不安定に何度も交代したことはかつて一度もない。莉理香にも限界が来ているようである。茉莉香はそう察する。

 彼女は直ぐに自分が誰かの上に寝転がっている察した。素早く身を起こすと下には男性が倒れている。ビクッと体を震わせる茉莉香であったが、男性は動かない。同時にズタズタに切り刻まれている。この遺体はくそったれ魂が殺害された時のものとよく似ている。同じようにして殺されたのだろうか?茉莉香は訝しそうに考える。同時に消えかかっている莉理香も気がかりである。そこで茉莉香はハッと我に返り制服のポケットを弄り始める。

 意識が飛んだ時、それは莉理香が自分の代わりにこの世界に出ているからである。となると莉理香からのメッセージが残されている可能性は高い。ポケットからメモ帳を取り出すと走り書きで次のように書かれていた。

『六郎ピラミッドに変装した黒弥撒と接触した。先に進むな。危険。待機せよ』

 字体は確実に莉理香の文字である。文字は急いで書いたためなのか崩れている。それだけ切羽詰まり絶対に先に進んではならないという証なのであろうか。とはいってもここがどこなのか判らない。前に目覚めたときにはもっとたくさんの人がいたはずであるのに今は殺害された青年が一人いるだけである。

(この人は確か…)

 茉莉香は記憶を巡らす。

(オール乱歩さんの部下で六郎ピラミッドさんだったかなぁ)

 直ぐに茉莉香は六郎ピラミッドの体を揺する。当然であるが絶命している。一体いつ殺害されたのか?それは大きな謎である。先に進むのが危険ならこのまま待機していてもいいのだが、先に進みたいという好奇心もある。莉理香のメモを無視して先に進むべきだろうか?茉莉香は莉理香の忠告を忠実に守ってきた。今まで一度として破ったことはないのである。

 しかし、莉理香は消えかかっている。恐らく今回の事件で最後であろう。イシュタルもヘルメスもいつの間にか現れて勝手に消えてしまった。多重人格なんてそんなものだ。茉莉香は握りこぶしを作りそれをギュッと握り締める。かつてないほどやる気が漲る。莉理香が消えてしまうのなら事件を解ける人間は自分しかいないのだ。ならば自分が動くしかないのではないか?茉莉香はそう考える。

 六郎ピラミッドに深くお辞儀をして祈りを捧げた後、自らかは先に進むことに決める。このままここにいても何も始まらないような気がしたのである。同時に莉理香の助言を初めて破る。それは恐怖でもあったが、覚悟を決めた茉莉香は螺旋階段を上りその先に広がる洞窟内を進んだ。

 先に進むとはいえどの方向が先ということになるのか茉莉香には判らない。つまり螺旋階段を上った先が先なのか後なのか判らないのである。しかしここは地下のようである。ならば上に行くのが正しい選択のように思える。

 洞窟に一歩足を踏み入れると魔界に迷い込んだような気分になる。空気は淀み明かりも薄暗い。恐怖で体中が侵食されてしまう。びくびくと体を震わせたが、このまま怖気づくわけにはいかない。何とかしてこの状況を打破しなくてはならないのだ。いつまでも莉理香におんぶに抱っこでは駄目である。パンと顔を叩き気合を入れる。そして洞窟内を歩き始める。

 直ぐに茉莉香は洞窟内に来たのを後悔する。同時に莉理香が先に進むなと言った意味が判ったような気がする。目の前には巨大な氷の岩が転がっており暑いため溶け始めている。そしてその氷の岩の下敷きになっている人間がいる。一瞬悪い冗談かと思えたが、これは現実だ。決して夢ではない。ふらふらと軟体動物のように体をくねらせ茉莉香はヘタッと地面に腰をつく。

 氷の岩の下敷きになっている人物の正体が判ったのである。ダークグレーのトレンチコート、そしてボサボサの頭、これはどう見てもオール乱歩である。触れてみると絶命している。オール乱歩が死んでいる。この事実は茉莉香を大きく動揺させる。心の底から叫びたい。但し、叫んだところで状況が変わるとは思えない。何しろここには茉莉香一人しかいないのである。他の探偵たちがどこに行ったのか茉莉香には皆目見当がつかないのだから。

 皆、殺されてしまったのだろうか…最悪の考えが茉莉香の頭を過ぎる。この前目覚めた時には他に探偵たちがいたはずである。女性の探偵ルールズと小太りの探偵ムチ打ち男爵である。この二人がいない。恐怖をなんとか打ち破りながら茉莉香は逃げるように立ち上がり洞窟の先に進んだ。

 洞窟は二つあるようだ。片方にはオール乱歩の遺体と巨大な岩がありもう片方にはメリーゴーランドと中央の円柱部分に鉄のトビラがある。しかしトビラは開かない。ロックされているようである。となると洞窟に閉じ込められていることになるのではないか?オール乱歩の遺体がある洞窟はドーナツ型をしているようで真ん中の部分が入れるようになっている。

恐らく自分は後退したのだ。きっと螺旋階段を降りた先が進むべき道なのだろう。ならば先に進もう。茉莉香はそう考え一旦六郎ピラミッドの許に戻る。メリーゴーランドがあるということはこちらからやって来たはずである。となると第二の洞窟の真ん中にあった螺旋階段から先が本当の先なのではないか?茉莉香はそう考える。

茉莉香は勇気を振り絞り洞窟の真ん中の部分に足を踏み入れる。するとその先には先ほど上って来た螺旋階段がある。

 ゆっくりと茉莉香は螺旋階段を降り始める。洞窟は土で出来ているようだが、階段は鉄製である。歩くと踵の音が「カンカン」と鳴る。確か記憶では演繹城というテーマパークに招待されたはずだ。にもかかわらずこんな原始的な洞窟にどうして来ることになったのか?茉莉香には把握しきれない。メモを取り出す際、ポケットの中に時計が入っていることに気がつく。

 これは自分のものではない。小さな可愛らしい時計。見るからに女性のものだろう。一体誰のものなのだろうか?考えながら階段を降りるとやがてコンクリートの床に出る。薄暗いが周りが全く見えないというわけではない。ふと時計を見つめると既に午後四時を回っている。演繹城に来てから六時間以上経過していることになる。

 その僅かな時間の中で大量に人が死んだというのは恐ろしい。茉莉香は生唾をごくりと飲み込みながら恐る恐る足を進める。螺旋階段を降りるとシャンデリアがある空間に出る。床はコンクリートのようだ。コンクリートの床を歩くと目の前にエレベーターのようなものが見え始める。無駄に広い空間の中、一台のエレベーターがぽつんと鎮座している。どこに繋がっているエレベーターなのだろうか?

 第一乗って安全なのか?洞窟の中ではオール乱歩が無残に殺されていた。そして、第一の洞窟ではくそったれ魂という人間が殺された。それに自分が目覚めた時六郎ピラミッドの遺体がそばにあったのだ。同時にその前にも人が死んでいる。このエレベーターが通常のものであるかどうかは判らない。しかし、この空間にはエレベーターの他に何もない。先に進むのだとしたらこのエレベーターに乗るしかないのではないか?そう考えた茉莉香は覚悟を決めてエレベーターの脇にあるスイッチを押す。

「チン」と音が鳴りトビラが開かれる。見たところ普通のエレベーターと何ら変わらない。但し大きさはかなり広い。二〇人くらいは乗れそうである。不可解なのは室内の構造が四角形ではなく円形をしているということであろう。最早、エレベーターというよりも一つの部屋だ。同時に茉莉香はこの部屋をどこかで見た記憶があった。トビラの対面に姿見がありトビラの脇にあるはずの階数を表示するボタンが一切ない。なんというかただの箱のように思える。エレベーター内は出来たばかりなのか新しい匂いがする。茉莉香は天井を見上げる。蛍光灯の明かりだ。特に変わった様子はない。

 一通り内部の様子を見ているとスッとトビラが閉まる。そして、緩やかに動き始める。階数が一切判らないが、上昇しているということだけは判る。果たしてどこに向かっているのであろうか?地獄に向かっている…そんな風に思える。エレベーターは静かにそして高速に動く。一定のスピードで上昇していたが、すぐに緩やかになり動きが止まる。恐らくそこまで上昇はしていないだろう。目的地に着いたのであろうか?

 再び「チン」という音が聞えトビラが開かれる。トビラの先には広々としたホールが見える。天上から瀟洒なシャンデリアがぶら下がり煌々とホール内を照らし出している。エレベーターを降りホールに足を踏み入れる。

 視線の先には演劇でもするかのようなステージがありぼんやりとだが十字架のようなものが見える。そこに何か磔られている。その姿を見て茉莉香は愕然と肩を震わせる。磔られているのは人間である。それもムチ打ち男爵とルールズの二人だ。二人とも口元をテープで覆われて声が出せないようにされている。二人は突如現れた茉莉香に気づき「うぅうぅ」と唸るような声を出す。

 咄嗟に茉莉香は二人の許に駆け寄る。何とかして二人を救出しなければならない。同時に辺りにはガゾリンのような臭いが漂っている。茉莉香が二人を救おうとするとその思いは突然憚られる。ステージ上にパッと明かりが灯り闇の中から一人の人物が現れたのである。ステージの中心に謎の人物、そして右方向にムチ打ち男爵、左方向にルールズという図である。一体、どこから現れたのだろうか?魔法のように現れた謎の人物に茉莉香は酷く困惑する。

 おまけに謎の人物は不気味な仮面をかぶっている。この仮面は黒弥撒の証だ。こんな時にふざけるのはやめて欲しい。背丈はそれほど高くないが、一六〇センチほどだろう。肩幅などの体躯を見る限り女性であるように思える。その距離は十メートルほど離れている。

「あ、あなた誰?」

 と、茉莉香が声を絞り出すように尋ねる。

 するとステージ上に立っている仮面の人物が仮面越しに話し始める。

「よく来たわね。莉理香ちゃん…いえ、今は違うのかしら?」

 綺麗な声。完全に女性である。声質から判断するに二十代後半くらいだろう。どこかしらイシュタルと同じような響きがある。しかし、今考えるべきは仮面の人物がどんな顔をしていてどんな声をしているかではない。相手は莉理香の存在を知っておりさらに多重人格ということを見抜いている。でなければ『今は違うのかしら?』などという台詞は出ないはずだ」

 茉莉香の額に脂汗が流れる。莉理香だったらこの状況をどうやって打破するのだろうか?莉理香と違い茉莉香には特異な推理能力はない。いたって普通の…否、メンヘラの少女なのである。茉莉香は視線を仮面の人物からルールズとムチ打ち男爵の方に変える。十字架にしっかりと磔られた二人は苦しそうに茉莉香を見つめている。なぜこんなことになっているのだろう?

「あ、あなた」再び茉莉香が言う。「あたしを知ってるの?」

「もちろん知ってるわよ。ずっと見ていたんだからね。でもようやく会えたわね。私もあなたに一度会ってみたかったの」

「ルールズさんやムチ打ち男爵さんを解放して。一体何をやってるのよ」

「二人を解放するのはいいんだけど私の判断じゃ駄目ね。皆で決めたことだから…」

 皆ということは他にも誰か隠れているのだろうか?こんな常軌を逸した人物が複数いるなんて考えたくもない。しかし、一体どうしてルールズとムチ打ち男爵は磔られているのだろうか?それも口を封じられて。二人の救出方法を必死に考える茉莉香であったが、全くいい考えが浮かばない。

 何もかも意味が判らない。少なくとも自分の力ではどうしようも出来ない。二人はどうなるのか?助かるのであろうか?いずれにしても絶体絶命の窮地であるには違いない。茉莉香は下唇をキッとかみ締めながら壇上にいる仮面の人物を見つめる。

 仮面の人物はルールズとムチ打ち男爵が磔られているのをうっとりと見ているようにも見える。完全に異常者である。仮面の人物…黒弥撒という不気味な名前を持つ人間であり今回の事件の犯人である可能性が高い。そう考えると茉莉香の心はどんどん暗闇に覆われていく。助けて欲しい。だけどどうしようもない。今の状態では莉理香を呼んだところで彼女が来てくれるわけではなさそうだ。

 最早、莉理香は消えようとしている。今まで生み出してきた大量の人格と同じように。いつもならフッと意識が飛んであっという間に莉理香が事件を解決してくれた。しかし、今回は違う。人格はふらふらと不安定に交代してしまう。事件の場に現れた茉莉香はどうしようもない不安に包まれたまま黒弥撒を見上げる。

「この二人を助けたい?」

 壇上に立った黒弥撒が尋ねてくる。

「た、助けたいに決まってます。早く二人を解放してください」

「どうして二人を助けたいの?確かにあなたとこの二人は同じ探偵。だけどそれだけよ。特に面識があったわけではないでしょう。会ったのも今回が初めてのはずだし。それなのにどうして二人を助けたいのかしら?」

「会ったことないからといって見殺しになんて出来ません。同じ探偵として助けるべきだと思います」

 恐怖に侵食されながらも茉莉香ははっきりと言う。

「へぇ、意外と正義感が強いのね。天才探偵莉理香ちゃんはもっとサバサバしているのだと思った」

「そ、そんなことありませんよ。とにかく二人を下ろしてあげてください。苦しそうじゃないですか」

 しかし、黒弥撒はなかなか首を上下には振らない。依然として壇上に立ったままルールズとムチ打ち男爵を見上げている。それを見た茉莉香は思い切って一歩踏み出す。格闘して勝てる保障は全くないが、何とかしなければならないと己を鼓舞したのである。しかし、それを見た黒弥撒が制する。

「動いちゃ駄目よ莉理香ちゃん…これ以上動いたら二人の命はないと思いなさい。でも、私は他の黒弥撒とは違い優しいから一つ条件を出してあげる」

「じ、条件?」茉莉香は顔を歪めながら尋ね返す。「それって何ですか?」

「二人の内一人は助けてあげるわ。それでいいでしょ」

 いいわけがない。心の底から参る。

「選ばれなかった一人はどうなるんですか?」

「もちろんここで死んでもらうわ。そういう段取りだから」

 人の命をどのように考えているのであろうか?まるでそこらへんに転がっている石と同じように考えている。第一、二人の内一人を助けられたとしても茉莉香には選べない。ルールズもムチ打ち男爵も同じくらい大切な人だしどちらかが死ぬのを見たくない。黒弥撒は異常者である。なら、その殺し方も特異なものになるに違いない。そうなった時に自分の精神が真っ当でいられるという保証はない。

 また新たな人格を呼び覚ましてしまうだろうか?これだけ不安定な精神状態なのだ。その可能性は高い。…今度はどんな人物が生み出されるのだろうか?どうせなら圧倒的な力を持っている者がいい。阿修羅とかゼウスとかそういう人格が現れればこの状況を上手く打破できるような気がする。

 しかし、いくら戦いの神を生み出したとしても体型や力が変わることはありえるのだろうか?力や体型が茉莉香のままだったら折角の力も宝の持ち腐れである。武器は超高性能のものを持っているのにそれを扱うのが赤子であったら何の意味もない。それにそう簡単に人格を生み出せる保証もない。

 確かに極限状態になればなるほど新しい人格を生み出す可能性は高いが、茉莉香にはどんな人格が現れるのか全く制御できないのである。あまり不用意に人格を生み出しどれが主人格で誰が別人格であるか判らなくなるのは避けなければならない。事実、一時期の茉莉香はほとんど別人格に乗っ取られた状態であったのだから…

(このままじゃ不味い…あたしじゃどうしようも出来ない)

 考えるのはそればかりである。二人の内一人しか助けられないなんて愚問であるし二人とも助けなければ駄目だ。とはいうものの茉莉香の微弱な力ではどうしようも出来ない。

「どうしたの?急に黙り込んじゃって…もしかしたら二人とも死んでもよかったのかしら?意外と悪魔的な心を持っているのね。それとも悪魔が別人格にいるのかしら?」

 クククと乾いた笑いをしながら黒弥撒は言う。二人とも死んでいいわけがない。二人を助けたいからこうして迷うのである。但し、全くいい案が浮かばない。時間だけが過ぎていく。

「あ、あたしは二人を助けたい。あたしはここで死んでいいから二人を助けるのっていうのは駄目ですか?」

 茉莉香はそう提案する。

 かなり無茶苦茶な提案であったが、茉莉香はそんな風に考えていない。むしろ一番現実的な案だと考えていたのである。自分はこのまま生きたって仕様がない。莉理香という絶対的に信頼を置いている人格は消えかかっているし一人になった時何を目標にして生きていけばいいのか判らないのである。

 推理の天才でありながら同時に事件を呼び起こす特殊な力が宿る莉理香。事件は確かに嫌だ。陰惨だし人が死ぬのはどうやったって慣れない。でも、事件があるから茉莉香…否、莉理香は輝くのである。事件がなければ茉莉香や莉理香には存在意義はない。何もなければただの中学生に戻ってしまうのである。

 もちろん日常生活は普通の中学生とは違う。父や母は完全に育児放棄をしているし将来も絶望に包まれている。このまま生きたところで楽しい世界が待っているとは思えない。莉理香が消えるのだ。茉莉香にとっての精神安定剤である莉理香がいなくなるのならこの世界にいる意味はほとんどない。

 そんな風に茉莉香は考えを推し進める。それならばここで死んでも何の未練もない。むしろ華々しく散った方がカッコいいような気がしてくる。

「莉理香…」黒弥撒が言う。「あなた自分が何を言ってるのか判ってるの?」

「判ります。今ここにはあなたを除いて、あたし、ルールズさん、ムチ打ち男爵さんの三人がいます。この内の一人が死ぬことで二人が助かるのならあたしは死んでもいいです。むしろ、そうしてほしいくらいなんですから」

「あなた不思議なことを言うのね。自分から死にたいなんて言うなんて。でもそれは駄目よ。あなたはまだ生き残る。少なくともここが死に場所ではないの。さぁ選びなさい。ルールズとムチ打ち男爵、どちらを生かしたいの?」

 そんなことを言われても選べるわけがない。茉莉香は必死に二人を見上げる。どちらも硬く磔られており苦しそうだ。二人を助けてあげたい。耳は聞えるようで今までの会話を聞いているようである。ルールズもムチ打ち男爵もじっと茉莉香を見つめている。決して唸ったり泣いたりはしない。ギリギリの状態でもあるのにもかかわらず冷静に自分の行く末を見守っている。

 このままでは駄目だ。茉莉香は握りこぶしを握りしめ黒弥撒を睨みつける。どちらも選べないし自分が生贄にもなれない。なら、残された選択肢はただ一つだ。それは黒弥撒を殺してしまうということである。とはいっても茉莉香には武器はない。一見すると黒弥撒は女性のようだが、だからといって格闘して勝てる保証は全くない。むしろ負ける可能性の方が高いように思える。しかし、茉莉香は自分を鼓舞し狂った野獣のように黒弥撒に向かって走り始める。

 もうどうにでもなれである。新たな人格は生み出せないし莉理香も助けてくれない。頼れるのは自分しかいないが、自分の力ではこの状況を上手く乗り切れる自信がない。

 黒弥撒とはいうとこの状況を半ば予期していたかのように冷静である。闇雲に突っ込んでくる茉莉香の攻撃をあっさりと交わし足払いをして茉莉香を倒す。べたんと壇上に突っ伏す茉莉香。惨めである。二人を助けられず黒弥撒に一矢報いることも出来ずにただ壇上で倒れるだけだ。茉莉香は悔しくて泣く。泣いて状況が変わるとは思えなかったが、とめどなく溢れる涙を抑えられない。

「あなたが選べないのなら私が選んであげる。私ね、太った人って嫌いなの。自分をコントロールできないみたいで嫌だから…ここではムチ打ち男爵に死んでもらいましょう」

 高らかに宣言する黒弥撒。

 彼女がそのように言うと急に十字架が高速で回転を始め足元が燃え始める。

「ゴォォォ」

火の勢いは物凄く回転するようにそしてあっという間にムチ打ち男爵のことを包み込む。ムチ打ち男爵の唸り声が室内に轟く。ホール内は瞬時に地獄絵図と化す。茉莉香はどうしようもなく燃え盛るムチ打ち男爵を見つめる。見つめるしか出来なかったのである。

「やめてぇ〜!」

 茉莉香は懸命に叫ぶ。だが炎の勢いの方が強く彼女の声を掻き消していく。ムチ打ち男爵の声が徐々に小さくなりやがて聞こえなくなる。炎が燃え盛る音だけが静まり返った空間に染み渡っていく。そんな中、黒弥撒だけが笑っている。この状況で笑える精神が判らない。完全に狂っていると思える。何分ほどだろうかムチ打ち男爵は燃えていた。小太りであったムチ打ち男爵は炎で燃やされたことにより瞬く間に小さなくなり原型をとどめなくなっている。今目の前にいるムチ打ち男爵は最早人というよりも大きな丸太のように見える。

 もうこれ以上見たくない。茉莉香はムチ打ち男爵を見られない。どうしてこんな酷いことが出来るのだろうか?人間ではない悪魔だ。黒弥撒はきっと悪魔の化身なのであろう。茉莉香の両目に再び涙が浮かび上がる。泣いたところで何も変わらない。状況が好転するわけでもムチ打ち男爵が蘇るわけでもない。だけど泣くことしかできない。

 燃え盛っていた火は静かに鎮火する。ムチ打ち男爵は完全に燃えゴトンと十字架から崩れ落ち壇上に倒れる。嫌な臭いが充満している。人が焼けるとこんな臭いがするのか…茉莉香はおいおいと泣きながらメッカに祈りを捧げるように突っ伏す。それしか出来なかったのである。もう嫌だ。ここにいたくない。何度もそう考える。しかし、考えたところでどうにかなるわけではない。精神状態はかなり不安定になっていたが、新しい人格は生み出せない。

 いつもならこの状況になれば莉理香がやって来て助けてくれるのに今日はそんな風にはならない。嫌な現実をまざまざと見つめなければならない。苦しい、吐きそう。泣きながら床に額をつけて泣く茉莉香。どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのだろうか?

 日常的に虐待され将来は絶望に包まれている。それでいて殺人事件に遭遇して事件を解く。これだけでも通常とは違う中学生生活を送っているのにどんなに傷ついた生活を送ってもまだまだありえない仕打ちを受けなければならない。それは本当に悲しいことである。辛く目の前は暗黒に覆われている。

 誰でもいいから助けて欲しい。願っても願っても駄目である。何も変わらない。そう、それは判っているのだ。人格を生み出し逃げるというのは決して褒められた手段ではない。人格を交代すればその時の記憶は飛んでしまうし何をしていたのかさっぱり判らない。人格同士メモ帳で連絡を取り合うのも限界がある。

 今は中学生だから学業が中心だが、この先大人になって働くようになった時嫌だから苦しいからといってぽんぽん人格を交代させていたら生活するのは難しいであろう。どんなことにも自分が耐えられるようにならなければならない。

 そう、これは試練なのだ。自分が成長するための試練。だが、普通とは違う。普通の中学生は虐待をされないし殺人事件にも出くわさない。友達と遊び勉強し恋をする。それが当たり前だろう。誰も茉莉香のような暗黒生活を送る人間はいない。いたとしても極々少数だろう。自分だけが不幸なのだ。同年代の子供たちと同じようにこの世に生を受けたのにその後の生活はまるで違う。天国と地獄である。

 茉莉香は泣くのを止める。泣いても何も解決しないのだから。意識はぼんやりとしているが、何も判らないという感じではない。はっきりはしていないがしっかりと事態を把握は出来る。床に手をつきゆっくりと起き上がる。顔面は涙や汗、鼻水が入り混じり折角の愛らしい顔が台無しである。

 しかし、そんなことはどうでもいい。今自分がやらなければならないことは目の前にいる黒弥撒という悪鬼を葬りさらなければならないということだろう。この悪鬼をこのままこの世に生かしておくことはできない。生かせばこの先何人の人間が犠牲になるか判らない。

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