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そして探偵は消える

「莉理香ちゃん、最近どう?」

 と、白衣を着た初老の男性が声をかける。

 類巣莉理香るいすりりかは大きなくりっとした目を瞬きながら記憶を巻き戻している。彼女は中学校の学生服を着ている可愛らしい少女だ。

 莉理香がいるのは一〇畳ほどの空間である。壁は真っ白く清潔な印象があり座っているソファーは革張りのいいものであるし部屋の壁には西洋の油絵が飾られている。とても落ち着いた場所だ。初老の男性は大きな書斎机の前にどっかと座りパソコンのキーボードをカタカタと叩きながら話を聞いている。

 ここは莉理香が通う精神科の診察室。莉理香は解離性同一性障害という病気を患っている。一言で言えば『多重人格』である。莉理香という名の少女は類巣茉莉香るいすまりかという主人格の中に住む別の人格なのだ。そして今目の前にいる初老の男性が彼女の主治医である。

 診察中は茉莉香の代わりに莉理香が現れることが多々ある。しかし、それも終わりを迎えつつある。莉理香は深く息を吸い込みそれを静かに吐き出した後、医師の質問に答える。

「あたしの役目は終わりつつあります」

 その言葉を聞いた初老の医師はパソコンを叩くのを止め静かに莉理香を見つめる。切れ長の大きな莉理香の瞳に医師の姿が映りこむ。医師は薄くなった髪の毛をぼりぼりと掻き毟りながら

「役目が終わりそうか…それはここ最近の診察でいつも君が告げていることかね?」

 と、重々しく言う。

 茉莉香の中に住むもう一人の人格である莉理香は自分の人格が小さくなりやがて茉莉香という主人格の中に吸収されるであろうと予期しているのである。そもそも解離性同一性障害は複数現れた人格を統合することが治療とされた時期があった。ころころと人格が代わっては生活に支障が出ることが多いからだ。だから、昔の治療では人格を徐々に少なくし最後は主人格だけになるという治療がとられた。

 しかし、それも昔の話である。現在、解離性同一性障害の治療に人格統合は積極的に使われていない。なぜなら別人格を生み出した原因というものはそれが必要だからである。必要だから生み出された人格を無理に統合するのは余計に精神のバランスを崩すのではないかと危惧されているのである。

 精神のバランスをとりよりよい生活を送るために人格統合は必要ない。それが今日の考え方である。もちろん、莉理香の前に座る初老の医師もそう考えている。しかし、当の莉理香だけはそんな風に考えてはいない。

 自分はあくまで茉莉香の異物である。だから時期が来たら消えなければならない。そう確信している。そして、その時期が今まさにやってこようとしていると察していたのである。事実、自分がこうやって表の世界に出てくることは少ない。特に茉莉香は自分の意思で人格を交代させられない。莉理香はある条件が整うと主人格の代わりとしてこの世に現れるのである。

 診察室では毎回初老の医師が莉理香を呼び出す。そこから診察が始まるのだ。そのため莉理香はこの世界に顔を出せる。

 莉理香はソファーの背もたれから体を起こしやや前傾の姿勢をとりながら声を発する。

「先生、あたしはもう直ぐいなくなります。だから茉莉香のことを宜しく頼みます。茉莉香は先生を信頼していますし今後も治療に通うことになると思います」

 キビキビとした声。

 自分がもう直ぐ消えようとしているのにもかかわらず莉理香の口調からは悲壮感が一切漂ってこない。むしろ逆にその方がいいと言わんばかりである。

「莉理香ちゃん、君は…」初老の医師は言う。「本当に消えるのが正しいと思っているのかね?今日の解離性同一性障害の治療に人格統合という文字はないのだよ。むしろね、共存という方法がとられる。私も出来れば君を失いたくはない。それに茉莉香君もそう節に願っているだろう」

「あたしがいるのは茉莉香にとってプラスにはなりません」

「そんなことはないさ。人格が必要だから君は生み出された。茉莉香君の精神バランスをとるために君は必要だということだよ」

「しかし…」莉理香は顔を曇らせる。端正な顔が醜悪に歪む。「あたしはどうも事件を引き寄せる傾向があるようで。まぁまさに探偵の宿命だとは思うんですが…」

 莉理香の言葉を聞き初老の医師は書斎机の上に丁寧に置かれている黒いファイルを取り出す。それは新聞のスクラップブックである。今時珍しく初老の医師はある記事を毎回スクラップにして保存しているのだ。初老の医師はファイルを開きまじまじと新聞記事を見つめる。

 そこにはこう書かれている。

『中学生探偵 また事件を解決!』

『お手柄中学生 事件を解決』

『天才探偵 東京に現る』

 これ以外にもたくさんの切抜きがスクラップされている。初老の医師はまるで自分のことのように新聞記事を見つめながら微笑んだ。

「君が解決したのは前回で九つ目だね。あと一件事件を解決すれば十件事件を解決したことになる。これは凄いことだよ。茉莉香ちゃんも喜んでいるだろう」

 しかし、莉理香は一切喜んだ素振りを見せずに

「あたしが茉莉香の中で生まれたのはとある殺人事件がきっかけです。それは既に何度も先生に言ってますから知ってますよね?」

 そう、莉理香が生まれることになったのは茉莉香が経験した殺人事件がきっかけになっている。殺人事件に遭遇しパニックに至った茉莉香が苦心の末生み出したのが莉理香という天才探偵の人格なのだ。

 それ以降、茉莉香と莉理香の行く先には事件が付きまとうことになる。探偵という磁力が色々なものを吸い寄せるように。

 茉莉香は事件が起こると人格が莉理香に切り替わり彼女が事件を解決してきたのである。殺人事件は先ほど初老の医師が言ったとおり九件の事件を経験してきている。これはもう偶然では済まされない。たしかに莉理香という人格には事件を引き寄せる特殊な力があるのだ。

 これはあくまで莉理香の推測であるが、莉理香は自分が消えることで事件から離れられると考えていた。茉莉香は普通の中学三年生、十五歳である。年が明けたら高校受験をしなければならないし多感な時期である。たくさん遊んで勉強して恋をして色々経験してもらいたい。母親のような気持ちで莉理香は考えていた。

 そうなると、自分のような殺人事件を吸い寄せる奇妙な人格は必要ない。むしろ邪魔である。だからこそ莉理香は早く自分を消し去りたかった。自分が消えれば事態はすべて丸く収まる。そう考えていたのだ。

「話は変わるが」医師は言う。「君は演繹城というテーマパークを知っているかね?」

 演繹城。その単語に聞き覚えがあった莉理香は

「はい、一応知っています。確か資産家が作ったテーマパークですよね」

「そう、演繹ビッグバンという資産家が作ったテーマパークだ。ただこの資産家には黒い噂があるのだよ。彼は人格が崩壊していると言われている。まるで解離性同一性障害のような特徴があるみたいなんだ」

「あたしと同じ病。少し気になりますね」

 莉理香は演繹ビッグバンという名前を脳内に刻み込む。

 そんな中、スクラップブックに視線を注いでいた初老の医師は徐に顔を上げる。そして莉理香を見つめ

「しかしねぇ、君が消えたからといって茉莉香ちゃんが事件に遭遇しないという確証はないだろう。もし仮に茉莉香ちゃんが事件に遭遇したらどうなる?またパニックを起こし別人格を生み出してしまうかもしれない。それでもいいのかね?」

 その問いに莉理香はクスッと微笑みながら答える。

「大丈夫ですよ先生、あたしが消えれば茉莉香は普通の女の子として生活出来ます。推理の力がなくなれば警察に呼ばれることもなくなると思うしその方が茉莉香の為なんです。あたしという存在はむしろマイナスに働くことが多い。先生、あたしは後どれくらいで消えられそうですか?」

 初老の医師はファイルを閉じ机の上に置いた後パソコンを見つめる。そして莉理香の診察内容をまじまじと眺めながら

「君がこの世界にいる時間帯は徐々に少なくなっている。恐らくだが、次の事件が最後になるだろう。しかし本当に惜しいよ。私は君や茉莉香ちゃんと喋るのが好きだからね」

 と、医師は切なそうにため息をつく

 莉理香はというとニッと口角を上げ

「次が最後…つまり、あたしにとって最後の事件ということになりますね。それであたしの役目は終わり。先生、もう一度言います。あたしが消えても茉莉香のことよろしく頼みますね」

 午後四時―

 診察が終わる。医師は莉理香の診察が終わるのと同時に茉莉香と人格を交代させる。現れた茉莉香は受付で会計を済ませその後薬局でいつもの薬を受け取り直ぐに家に帰る。

 莉理香の言葉はいつも正しい。彼女はまさに事件を引き寄せようとしていたのである。

 茉莉香の住んでいる家はマンションである。十階建ての何の変哲もない3LDKのマンションだ。茉莉香はその五階に住んでおり住み始めてから二年ほど経つ。一階の自動ドアをくぐりエントランスを抜けると銀色の郵便受けがある。そこから郵便物を取り出す。ピザやお寿司の宅配のチラシに混ざり何やら白い封筒に包まれた茉莉香宛の郵便物があるのに気づく。茉莉香宛の手紙が来るのは珍しい。精々通信教育のDMくらいだ。だからこそ茉莉香は少しわくわくした気持ちで封筒を見つめる。

 差出人は演繹城と書かれている。茉莉香は直ぐに記憶を巡らす。演繹城なんてお城は聞いたことがない。茉莉香の知っているお城はディズニーランドのシンデレラ城と大阪にある大阪城くらいだ。それ以外のお城は知らない。第一、演繹城なんてネーミング完全におかしいと思った。

 とはいうものの郵便受けで考えていても始まらない。茉莉香はエレベーターに乗り家に向かう。誰もいないエレベーターに乗り一気に五階まで昇る。茉莉香のマンションは中央が吹き抜けになったドーナツ型をしており燦々と降りしきる太陽の光がマンション内を照らし出すのだ。

 見慣れた光景にさほど注意も払わずに茉莉香は自宅へ向かう。制服の上着のポケットからナイロン製のキーケースを取り出し鍵を開ける。玄関に入り靴を脱ぐとフッと気が抜ける。自宅の中には誰もいない。その所為もあって自宅内は静まり返っている。茉莉香の両親は働いていない。父親は実の母親の再婚相手でとある理由がありうつ病に罹りそれ以降は入退院を繰り返し時折退院するとギャンブルに走る。母親も同じようなもので無職を続けている。昔は生活保護だったのだが、茉莉香が探偵として活躍するようになり収入が入るようになってからは茉莉香の収入に頼りきりになっておりそれまでは貧相なアパート暮らしだったのだが、茉莉香が探偵になり収入が入るようになりこのマンションに引っ越してきたのだ。いつもどこかでふらついて帰ってくるのは夜八時を回る。茉莉香は両親とはあまり仲がよくない。前述の通り父親は母親の再婚相手であり既に物心ついてからの再婚であったため本当の父親であるとは思えなかったのである。同時に両親たちからネグレクトという虐待を受けている。この事実は茉莉香の解離性同一性障害の発症に一役買っている。

 夕食を作るのは茉莉香の仕事だ。ネグレクトを受けながらも彼女は自分にできることは自分でしようとしていた。それがやがて来る自立の道に繋がると信じて。昔は自分で料理ができなかったからお腹が空いても困るだけだったが、今は料理ができるようになったので最低限の食事はできる。でもまだ時刻は四時半。夕食を作るのには早いだろう。茉莉香は靴を脱ぎ自室へ向かう。自室は六畳の洋室である。床はフローリングで壁は真っ白。ほとんど物がないのが特徴だ。彼女は部屋を与えてもらっているものの布団など最低限の備品を除いてほとんど買ってもらえない。

 布団の上に鞄を放り投げ制服のまま床に座る。今日は通院日。通院の日は大抵前半が茉莉香、後半が莉理香の順番で診察される。当然、自分の番の時の記憶はあるが、莉理香が出ている時の記憶はない。つまり、莉理香が何を考えているのかさっぱり判らないのである。

 しかし、これだけは知っている。それは莉理香がもう直ぐ消えようとしていることである。莉理香が消えるというのは茉莉香の中で大きな意味を持つ。莉理香が生み出されたのは中学一年生の時である。今から二年前。学校の体験学習ということで東京の奥多摩に行ったときのことだった。そこで茉莉香は殺人事件に巻き込まれたのである。中学生一年生である茉莉香は殺人事件に巻き込まれたということで非常に強いパニックに陥った。家庭環境の不和という原因もありその時生み出されたのだが莉理香という別人格だった。

 両親の再婚ということで茉莉香の少年期は不安だらけだった。新しい父親は茉莉香を性的な玩具として利用したが、それ以外はあまり相手してくれなかったのである。思春期を迎えた今となっては相手をしてくれないというのはどこかありがたいものであると感じるが、少年期は本当に辛かった。父親の愛情を一番受けたい時期に受けられなかったのだから…

 床の上に座りぼんやりとカーテンの隙間から外を見つめる。ここは五階だから辺りの景色がよく見える。景色といっても自然溢れる山や川などが見えるわけではない。ここは東京。それも都心に近い場所なのである。見えるのはコンクリートジャングル。マンションやビル、道路、そんなものだ。環境は悪いだろう。排気ガスは強烈だろうし人の数も凄まじい。

 そこで茉莉香は郵便受けに自分宛の手紙が届いていたのを思い出す。封筒の端を丁寧にハサミでカットして中身を取り出す。中身は四つ折された手紙とチケットが一枚入っている。チケットというのは演繹城の入場チケットである。茉莉香は携帯電話やパソコンを持っていないので演繹城について調べられない。だが、その情報はすべて手紙に書かれていた。

 手紙の主は演繹城の総支配人からである。なんでも演繹城というのは来年の春にオープンするテーマパークなのだそうだ。演繹というのは与えられた命題から論理的形式に頼って推論を重ね結論を導き出すことである。しかし茉莉香には意味が判らない。同時にテーマパークの名前としてはいささか不釣合いであるように感じる。テーマパークの名前といったら○○ランドが有名だしそっちの方が楽しそうだ。演繹城なんて名前何か老人臭い。そう思える。

 同封されたチケットを使うと中に入れるようだ。しかし、どうして中学生である茉莉香の許にこんな手紙が送られてきたのだろうか?その理由は簡単である。手紙にはこう書かれている。

『日本全国の著名な探偵諸君に是非集まってもらいたい』

 そう、茉莉香は一応中学生探偵として全国にその名を轟かせている。これは茉莉香が解決したものではなくすべて別人格である莉理香が解決したものなのだが、世間はそんなことを知らない。すべて茉莉香が解決したことになっているのだ。莉理香が鮮やかに事件を解決してくれたおかげで茉莉香は一躍有名になった。新聞の取材だけでなくテレビや雑誌の取材を受けたこともあるのだ。

 演繹城には茉莉香の他に四人の探偵が集められるようである。

 ○くそったれ魂

 ○ルナルナ17

 ○ルールズ

 ○ムチ打ち男爵

 皆、探偵である。茉莉香の他にも有名な探偵がいてそれぞれ活躍しているのである。しかしどうして探偵ばかりが集められるのだろうか?演繹という探偵用語の城がオープンするからなのだろうか?

 チケットの曜日を確認すると今週の日曜日ということになっている。演繹城はここからそれほど遠くない。東京お台場付近の沿岸部に建設されている。東京にあるならば行ってもいいか…。茉莉香はそんな風に考える。

 演繹城―

 これからのその城で未曾有の事件が発生するとはこの時の茉莉香には想像もつかなかった。精々オープン前のセレモニーに参加するのだろうくらいにしか考えていなかったのである。

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