1551年 足利幕府滅亡 1555年 畿内侵攻
1551年……大内家にとっては運命の年であるが、実行犯である陶隆房は遠方に居るし、武断派も文治派の対立の原因になった資金問題や大内義隆の政治への興味が薄れる事も無かった為に大寧寺の変は起こらなかった。
ザビエルが山口に戻ってきて、自分の無礼を詫びて、貢物を贈った事で、両者の和解も成立し、使われてない寺をザビエル一行に与える優遇も行った。
ザビエルはエセキリスト教では無く、山口の町で布教活動を行い、数ヶ月で600人もの信徒を獲得し、キリスト教の布教を頑張るのであった。
そんな順風満帆で着実に武装を整えている大内家に対して畿内はというと……まず三好が細川晴元と対立し、奈良公方は越後の長尾氏を頼りに逃走し、三好が畿内5カ国を制圧。
その対立の最中奈良公方足利義晴が病没し、息子の足利義藤に家督を譲られたが、将軍職は朝廷のお墨付きでも無い為、自称公方まで低下。
あくまで足利一門の人物まで低下した。
紀伊では雑賀衆達が国人衆に成り代わっており、守護不在の中、小国人衆が乱立する魔境となり、近江は浅井氏が制圧し、朝倉と同盟を結ぶことで越前とのラインを形成していた。
そこから東に目を向けると美濃は斎藤道三が掌握し、尾張は織田信秀、東海道沿いは今川と東国はいつも通りという感じであった。
大内義隆は播磨と丹波両国に拠点となる城を築かせたり、山陰、山陽の街道の整備を各守護代に命令していた。
そんな中、大内義隆は足利義維に対して息子の亀童丸に将軍職を譲るように命令。
足利義維は断固拒否したが、大内義隆は朝廷工作を既に終わらせていたし、足利義維の周りは大内義隆の息がかかった人物で固められていた為に将軍職を譲らなければ追放をちらつかせると、折れてしまい、11歳(数え年)になった亀童丸を養子入りさせた。
その上で元服した大内義明に征夷大将軍と従三位の地位が朝廷より贈られ、足利幕府は無血で崩壊し、源平藤橘という武家の格式ある家柄以外で初めての将軍が誕生し、大内義隆は大内義明に家督を譲り、大御所様と呼ばれるようになる。
これに対して大内の勢力の守護代達はすぐに服従を宣言し、島津や九州諸大名も所領安堵を約束したことで味方になった。
しかし畿内から東国の大名は足利の権威がまだあるため凄まじく反発し、越後に逃れていた足利義藤を頭に反大内連合を形成することに繋がる。
朝倉宗滴だけは大内家に従うように朝倉家の意見を統一し、加賀を武力鎮圧。
加賀の百姓による統治を終わらせ、全方位と敵対した。
大内義隆はすぐに陶隆房に朝倉救援に駆けつけるように指示し、若狭の武田家を踏み潰して越前に3万の大軍で入り、防御を固めた。
大内義隆は明に日本国王の官位を大内義明に引き継がせることを約束させ、国外の権威も借りて大内幕府を早急に整えていった。
官僚達は大内家は十二分に整っており、足利の幕政で悪かった点を一気に改革し、将軍の権威を大内家の権威を使って無理やり引き上げた。
朝倉と長尾家が度々激突したり、三好が播磨に侵攻し、それを大内諸将が防衛拠点を使って防ぐのを繰り返して4年が経過する。
朝倉家を支えてきた朝倉宗滴が病没し、長尾に戦線が押され初めたことで大内義隆は畿内制圧の大号令をする。
北九州、中国、四国の西国から集まった兵20万を率いて畿内制圧作戦を開始するのだった。
毛利家は四国から進む事が取り決められ、毛利庶家含め6万の兵で畿内に侵攻する。
まず紀伊から上陸をし、繋がっていた雑賀衆の面々と今回の作戦概要と大内家の本気を説明すると紀伊の半数の国衆は折れ、協力することを約束した。
残る半数は熱心な一向宗だったため、播磨撤退戦で同胞を討ち取っていた毛利を許さなかったが、大砲による集中砲火と農民達から高値で兵糧を買ったりする懐柔策の飴と鞭で次々に攻め落としていき、ゲリラ戦に移行する前に電撃的に紀伊を制圧した。
そのまま北上し、和泉の国を侵攻。
三好側も3万の兵で防衛線を構築していたが、散兵戦術に適応していた毛利兵の四方八方からの射撃と、騎馬隊による後方の遮断、砲兵による支援砲撃により一気に戦線が瓦解し、和泉の堺と連結に成功。
そして大内本軍こと幕府軍も播磨から畿内に侵攻し、三好の軍と激戦を繰り広げるのであった。




