1548年 毛利家の財政状況
毛利奉行衆……それは毛利家の内政を担当する官僚の長……官房長官が毛利信龍の奉行衆筆頭とすると、各局長クラスが奉行衆として支えていた。
奉行衆には色々あり、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、鉱山奉行、技術奉行、殖産奉行、教育奉行と多岐に渡る。
立法も奉行の中に組み込まれている為、三権(立法、行政、司法)が奉行という1つの組織に集中した権力になっていた。
戦国大名は基本的に当主がトップでこの三権を掌握している状態で、守護大名はこれを家臣と権限が分散している状態を示す。
大内家は守護大名からも外れた公家大名と呼ばれる存在であるので例外である。
今そんな奉行衆は先ほども言ったように毛利信龍が奉行衆筆頭として管轄し、各奉行衆として赤川元保、粟屋元親、国司元相、桂元忠、児玉就忠、志道就広の毛利譜代家臣の他に吉岡長増、臼杵鑑速といった外様の家臣も能力があると奉行衆に引き上げられていた。
史実以上に学び舎でレベルアップしていたことで毛利家は6カ国を纏めるに足りる十分な行政力と人員を確保していた。
そんな信龍は各国の国力を確認していた。
まず毛利家は一応は安芸の毛利本家と分家達は財源が別になっている。
ただ毛利本家が統率するために各分家の税収等の写しを毛利本家が握っていた。
毛利本家の直轄領は安芸、備後、伊予、阿波、讃岐に広がっており、土地の広さ的には30万石、実質石高は150万石に到達していた。
有力分家として備後毛利家の毛利元秋、伊予毛利家の毛利就虎、新領土の阿波にも九男と十男の毛利葛就、毛利就彰の両名も直系の分家として機能していた。
それとは別に大内義隆から宗家相当とされる土佐毛利家の毛利盛就も有力分家の1つである。
毛利の名前が無い分家としては吉川、小早川、河野の3家も毛利に吸収された家であり、吉川は安芸と石見に、小早川は安芸と備後、河野は伊予にそれぞれ勢力を持つ有力な家に成長していた。
これが毛利家の分家達であり、彩乃の子供達ばかりであった。
そんな毛利家では鉱物資源としては銀、銅、鉄、石灰石、水晶の鉱山があり、膨大な量は採掘することはできないが、毛利領内で回すには十分な量が採掘されていた。
産業構造も少し変わってきており、安芸では工業化が進み、紡績と造船、機械の輸出が主要産業に変わりつつあった。
椎茸や養蜂、養蚕は毛利領内だけでなく、徐々に他の地域にも技術伝播が起こっており、前みたいに大金を稼げるみたいにはならなくなっていた。
まぁ毛利領内で大量に原材料を作り、山口の職人達がそれを芸術に昇華させ、大陸や南蛮に売る流れで金を稼いでいた。
大量生産に必要な石炭は北九州で採掘され、それが毛利の蒸気機関の原動力となり、更に金を生む循環が出来上がっていた。
毛利自身も土佐で南蛮貿易に手を出していたので海外貿易の利権に食い込んでも居たが……。
土佐から南蛮貿易として輸出される品は生糸、香辛料、真珠がメインである。
あと銀。
布も売れるが、国内需要が凄まじく高いので輸出に回らないし、工芸品系は博多で取引されているので土佐の南蛮商館から求められるのは基本この4種に酒と砂糖とかである。
上記の3つは特に高値でヨーロッパで売れるため高値で取引されていた。
貿易額は400万貫近くであり、大内家の1000万貫の貿易額には及ばないが、十分な稼ぎを叩き出していた。
そんな安定した財源の確保ができたことで、毛利は鉄道の延伸と治水工事を進めており、四国各地の飲水問題と洪水問題の解決に金をかけていた。
あとは造船所の拡張にも金が注ぎ込まれていた。
その甲斐あって蒸気船が完成し、外輪船の黒船もどきが300年以上前に日ノ本に完成していた。
その船は大内家に直ぐに買い取られたが、作れば作るほど売れ、毛利家でも3隻、小早川家も1隻保有することになり、商人向けの弁財船も飛ぶように売れるのであった。




