1545年 激突陶隆房対尼子国久
陶隆房が支城を力攻めを選択していたが、尼子にとって陶の力攻めによる速攻は実はしっかりダメージが入っていた。
というのも尼子経久が亡くなった事で尼子は絶対的な柱を失っており、尼子晴久も若く、戦の経験も豊富とは言い難かった。
一応近隣諸国侵攻で力量は見せていたが、大内が畿内から撤退した火事場泥棒的に領土を奪っていたために大きな戦には発展せず、その為に合戦で名声を上げるということができていなかった。
どちらかと言えば卑怯者扱いされている。
そうなると尼子の軍事を支えるは分家の尼子国久率いる新宮党であり、今回の大内軍侵攻に尼子国久は新宮党に号令をかけて兵を集めていた。
勿論尼子晴久も兵を集めていたが、陶の力攻めにより動員するよりも城が早く落とされてしまい、兵が集まり切る前に決戦となる可能性を秘めており、尼子晴久は今度も月山富田城に籠城することになれば再び東国の領土を失うのでは無いかと不安を抱えていた。
これに対して直ぐに動員を終わらせた新宮党1万は攻められている支城に援軍に向かわなければ尼子の求心力が低下することを恐れ、尼子晴久の命令が来る前に進軍を開始してしまう。
力ある分家が独立した軍権を与える弊害である。
毛利家は色々分家が分かれているが、命令権の頂点は大内家、その次点に毛利宗家とトップダウンになるように房元が戦国大名となれるように宗家の指示系統を明文化させて誓わせていたのに対して、尼子の新宮党は尼子の最大軍事力であると同時に宗家よりも軍事に関しては権限が強くなってしまっていた。
父である尼子経久が存命の時は制御できていたが、宗家とのパワーバランスが崩れていることや尼子宗家の男子が不足していることが更に両家のバランスを不安定にさせていた。
元就、房元、義元の毛利家直系の3人が元気に子供を作って直系を増やしまくっているのとは対照的である。(3代が現役バリバリというのが普通に異常である)
そんな新宮党1万は陶に攻められていた三刀屋城に救援を行い、三刀屋城を挟む様に陶軍と新宮党が対峙する構成が出来上がるのであった。
三刀屋城の戦いの始まりである。
「尼子が出てきたか」
「旗からして新宮党かと」
陶隆房は軍議にて新宮党の布陣と自陣の位置を確認し、こちらはまだ約2万5000の兵がおり、新宮党をみる限り1万5000から1万程度であると目測を付けた。
「江良、お主に兵5000を付ける。新宮党を挑発してこい」
「隆房様はいかがします?」
「私も5000を率いて尼子の裏を突く。本軍は弘中隆兼殿に任せる」
「私がですか!? 待ってください! 本軍を率いるべき大将は陶隆房殿のハズ!」
「1万は動かし辛い。命令が行き届く5000で私は十分だ。本軍は数が居るように焚き火や旗の数を増やしておいてくれ」
陶隆房は副将の内藤興盛より1つ下の弘中隆兼に本軍を動かすように命令した。
副将であった内藤興盛もこの指示には仰天で、弘中隆兼と顔を見合わせてしまう。
陶隆房はそのまま軍を纏めると行動を開始した。
陶隆房の重臣の江良は5000の軍を率いて新宮党の居る陣に近づき、矢を放ち、弓合戦が始まる。
交戦が始まったのを見て、陶隆房は軍を回り込ませて尼子の退路となっている砦を早々に陥落させると新宮党の背後に陣を構えた。
ここまでは陶隆房の思い描いていた状況であったが、新宮党を率いるのが亡き尼子経久が武神の加護があり、自身よりも戦上手と褒める尼子国久である。
退路が断たれた瞬間に江良の軍に突撃を開始し、江良軍は数的劣勢で一気に崩れてしまう。
江良隊が崩れるのを弘中隆兼は軍権を預かった者として崩れた江良隊を収容して体勢を立て直すと、弘中隆兼率いる6000の軍が新宮党と激突。
一進一退の消耗戦に持ち込む。
内藤興盛の部隊もこれに合流するが、魚鱗の陣と呼ばれる三角形の陣をして突破力を強め、更に尼子最精鋭の新宮党は強く、数的には大内軍が圧倒しているのに、互角以上の勝負に持ち込んでいた。
そこに三刀屋城に籠もっていた兵が打って出て大内軍に攻撃を開始する。
これを待っていた陶隆房は信用できる家臣の野上に500を預け、三刀屋城を搦め手から強襲させて、逆に三刀屋城を攻め落とすことに成功する。
こうなると正面に大内本軍、側面に三刀屋城、背後に陶隆房の別働隊と3方から囲まれる形になり、上空から見た陣形が鶴翼の陣に大内軍が変わっていることに気が付く。
「トドメだ!」
陶隆房は背後から新宮党を強襲して次々に討ち取っていくが、尼子国久は混乱する陣形を整え、猛然と数の多い大内本軍に突撃を開始する。
これを弘中隆兼は受け流すが、尼子国久は突破力を応用して大内軍から離脱することに成功する。
1日の戦いの結果、尼子側は三刀屋城を失い、新宮党も1万の兵力のうち5000を失う大損害を受ける。
一方で大内軍はそれよりも多い7000名を死傷する結果になったが、三刀屋城を落とすことに成功。
尼子軍を撃退したことで戦術的な勝利を飾ることに成功するが、支城2つ落とすのに約1万近くの兵数を失う結果になり、これ以上遠征を続けても尼子を潰すことはできないと内藤興盛は判断し、陶隆房を説得し、落とした支城に家臣を詰めて撤退することになる。
なおこの出雲に取り残された大内軍の大将が弘中隆兼になり、完全に貧乏くじを引かされ続けた。
戦略的には尼子の勝利という結果になる。
更に大局的に見れば遠征の失敗により反毛利だった陶隆房と内藤興盛の発言力は低下、所領の没収は無かったものの、大内家内でのパワーバランスが武断派、文治派、毛利派の3つの派閥が拮抗する状態に変わっていくのであった。
一方で尼子国久は今回の合戦で新宮党の精鋭兵を多く失う結果になり、今まで本家よりも大きな顔をしていた新宮党の力が低下し、本家の軍事力が新宮党を上回った。
尼子晴久はこのパワーバランスを維持したまま、奪われた出雲領の奪還作戦を練ることになるのだった。
そして尼子晴久の尼子本軍が所領奪還に翌年動き、弘中隆兼は先の戦で陶隆房や内藤興盛の武断派に不信感を抱いており、本人の派閥が中立だったため、毛利派閥に鞍替えすることを決め、尼子からの防衛協力……救援要請を毛利房元に送ることになるのだった。




