1542年〜1545年 蒸気船の開発
「いやぁ、まさか40代半ばで蒸気機関車まで持っていけるとはのぉ……」
「技術書とか掻き集めたけど技術者達が頑張ってくれたわよね」
元就と彩乃は蒸気機関車を見ながらそう話す。
現在作られた汽車はロケット号と呼ばれるイギリスの小型機関車をモデルに作られた物であり、最高時速は50キロほど、客車や貨物車も4両が限界と輸送力は非力であったが、石炭の採掘量が限られている以上、他にも蒸気機関で動く機械が量産されていたので機関車ばかりを作り、石炭を供給するわけにもいかなかった。
まぁ一部の蒸気機関の機械には木炭を使って稼働している機械もあったが……。
「私も閉経が来ちゃったし、これからは技術普及に注力するね」
「頼むのじゃ! しっかし20人もよく産んでくれたのじゃ! 早逝する子供も居らず、皆健康で凄いのじゃ!」
「えへへ、孫も産まれ始めたし、毛利家が今後どうなっていくか見守らないとね」
「ワシも出家しようかのぉ」
「まだまだ働けるでしょ。というか大と三葉が良い感じに大きくなったからこれからじゃんじゃん孕ませないと」
「うむ、合戦で遠征に出ていたからのぉ……これからは学び舎で教師をしつつ、子供を見守っていこうかのぉ……」
そんな会話をしていると、備後争乱で活躍し、備後南部を任された毛利元秋が元就と彩乃の元を訪ねてきた。
「兄上にも話ましたが、何とか備後まで鉄道を敷けませんかね」
「なんじゃ? 統治で何か問題が起こったのか?」
「一向一揆で6万人近くが亡くなって、備後全体で人口が凄く減ってしまって……土地の再配分とかや家畜を使った大農家が誕生したんですけどそれ以外の特産品も炭以外は特になく……」
「綿栽培を増やせば? 適した土地沢山あるでしょ。後は小金持ちの人口が増えて畳の需要が増えているからイ草の生産しようよ」
「イ草ですか……確かに未来でも産地でしたよね」
「そうそう。他にも探せば備後だと鉄鉱山があるでしょ。鉄の需要は今後どんどん高まるよ」
「その鉄を運ぶために鉄道が欲しいんですがね」
「備後毛利家は元秋に房元は任せておるんじゃから隠居の父や母よりも房元ともっと話し合うのじゃ」
「うへ~わかりました」
そんな感じで備後の開発計画を話ながら、蒸気機関と言えば蒸気船を作りたいよねという話になり、しかも波が緩やかな瀬戸内海であればスクリュープロペラよりも技術的に容易な外輪船と帆船を組み合わせた船が作れるのでは無いかと話し合われ、四国と大内領や毛利領を繋ぐ船が欲されていた。
早速元就は船職人や蒸気機関の技術者を集めて蒸気機関を載せた船を造るように命令。
房元は大内義隆に機関車の技術を応用した新型船の建造とその船が完成すれば風が無くても自由に外洋を航行できると説明し、大内家からも予算を引き出すことに成功する。
大内家は植民を行っていた台湾でサトウキビの栽培だったり、巨大な金山が発見されたと報告があり、荒れに荒れている畿内よりも台湾開発のほうが金になると大内義隆は判断していた。
その台湾を繋ぐ船は大積載かつ気候による沈没の危険性が少ない船が求められていた。
この頃になると勘合貿易で中華から南蛮人が巨大艦に乗って貿易をしていると情報が入っており、大内家の威信をかけた旗艦を欲していた。
そこに房元がクリッパーのボトルシップを見せて大内義隆に順々に造ると説明し、大内義隆から船の購入を約束すると、船に乗せる蒸気機関の完成するまでの繋ぎとして呉に1年かけて大型造船所が造られ、広島や備後から造船の物資運搬の為の鉄道も敷かれた。
5つの造船ドックから大型船が作られていき、その船を扱う為の船員育成の学校も建てられた。
1542年に小型訓練帆船、中型訓練帆船が完成し、中型訓練帆船の段階で関船に匹敵し、それから中型の魚船が幾つか造られた後に1543年にクリッパーと呼ばれる大型帆船の建造を開始。
最初の船は嵐で船体が折れる被害を受けたりもしながら1544年に既存の安宅船を有に超す巨大艦が完成する。
それほどの巨大艦を運用するよりはそれより少し小さい船を多数作った方が良いとなり弁才船と呼ばれる和洋折衷の千石船が造られ、それが大内水軍に降ろされていった。
既存の船の2倍近くの積載量かつ、耐久年数が20年以上と運用できる年数も長く、それでいて西洋の帆の形を取り入れているため、航行速度が速くなり、博多から台湾まで1週間、明の港まで4日で風や波に乗れれば着けるようになり、貿易額も拡大する結果となった。
大内家でも莫大な額をかけて商品開発が行われていた事があり、大内領内で作られた工芸品は明でも売れ筋の商品に、絹織物は明でも十分に売れる品質に、椎茸や蜂蜜、干しアワビに真珠も明で高い需要があるので飛ぶように売れる。
お陰で経済規模は年間1000万貫を超える金額まで膨れ上がり、それがさらに台湾や大内家領内の開発費用に充てられる好循環となる。
この予算が蒸気船の開発にも充てられてますます開発が加速するのだった。
1543年に南蛮船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来したが、堺の商人達は毛利軍が播磨撤退戦で放棄した鉄砲の複製に成功し、史実より衝撃的な物でも無かった。
ただ鉄砲を大量運用する強さを毛利軍は各勢力に見せつけていたが、その運用資金を集められる大名が畿内では居らず、以前毛利軍の優位性は保てていた。
またこの頃には大内軍でも鉄砲は導入されて徐々に広まっていっていた。
普段は毛利家を警戒している大内家臣達も鉄砲が毛利家の強さだと思っていたので、鉄砲技術習得に力を入れて、運用ができる体制を整えていた。
毛利家ではさらに火縄銃の改造が進み、備後で日ノ本では質の良い火打石が産出するため、火縄では無く火打石による着火式に変更し、さらに密集した陣形を組めるようになっていた。
元就は将来的に大内家と毛利家の融合が可能であると判断し、房元と相談して大内家と毛利家の一体化を狙う血縁政策を行うように指示し、大内義隆に相談して元就の娘達を次々に大内家家臣達に嫁がせていった。
内藤と陶の両家は拒否したが、逆にこれ以外の重臣の家は毛利家の親戚関係を結び、大内家内部にさらに侵食。
勿論房元と梓との間の子供も大内家の家臣に嫁がせ、中には今後重要や役割になるからと島津家に房元は娘を嫁がせて同盟関係を結ぶに至る。
島津は琉球利権を持っているので仲良くした方が得であると思っての婚姻政策であったが、大内経済圏に組み込まれた島津はハッスルして日向と大隅に軍事侵攻を開始し、1550年頃には島津家悲願の三州統一に成功し、大内家から資金提供を受ける形で琉球に侵攻し、琉球を傀儡化。
台湾の航路の重要拠点として発展していくことになるのだった。




