1539年〜1541年 大内を揺るがす大事件
空白地帯となった畿内周辺で勢力を盛り返したのは細川晴元の配下である三好長慶の一族であった。
三好長慶の軍は赤穂の戦いで包囲が完成する前に運良く脱出することが出来、本拠地である四国が陥落したものの、石山本願寺に籠る事が出来ていた。
そして門徒達が暴走している最中も石山にて情勢を伺い、大内義隆が京から撤退したのを見て和泉の城を次々に落とし、一向一揆衆が播磨で命を落とし、勢力が縮小すると、和泉だけでなく摂津も陥落させて実効支配を行った。
三好長慶は細川晴元とは主従関係であったが、父親が誅殺された関係でギクシャクしており、細川晴元は三好長慶を警戒していた。
そんな事を知らない三好長慶は堺に護衛料をよこせとカツアゲして軍資金を募るとそのまま京周辺の一向一揆と激突。
これは引き分けであったが、暴走を続ける一向一揆に反感を抱く勢力が次々に出現し、加賀一向一揆の様に国を支配する……とまではいかないのであった。
一方大内軍が撤退して首の皮1枚繋がった尼子経久は家督を尼子詮久(直ぐに尼子晴久になるので以後尼子晴久と表記)に譲り、隠居をする。
尼子晴久は大内軍が尼子攻略に動く前に軍事拡張しなければならないと焦り、出雲の基盤を纏めると、大内の影響力が少ない東に活路を見い出した。
大内に奪われていた伯耆を再占領後、因幡、美作、但馬を1540年までに制圧を完了する。
また尼子家は山口幕府の方が正統性があるのをわかっていても奈良公方を担がないといけない状態であり、奈良公方の足利義晴と連絡を取り、晴の字を授かった。
一応尼子の勢力を立て直した尼子晴久は急拡大、急縮小の連続である尼子家ではいつか破綻が絶対に起こるとして以後の拡張を取りやめ、勢力の整備に注力した。
畿内が空白地帯となったことにより、尼子は東の勢力を気にすること無く、西の大内家のみを警戒することができ、尼子晴久は出雲に防衛線となる11の城を整備し、月山富田城の兵糧攻めの経験から補給路の確保に力を入れるのであった。
その頃毛利家は半年かけて備後の一向一揆を鎮圧し、備後の寺領を没収。
一向宗の寺社に毛利に忠誠を誓うように誓約文を書かせ、国が割れた一揆の鎮圧に成功する。
飛び火していた備中では鎮圧に失敗した庄家当主が討死したことで、家老であった三村家の力が強くなり備中の大半を自分の勢力にすることに成功していた。
そのため蔵田房信は備前にのみ影響があることになってしまっていたので、三村家討伐を毛利家に要請し、毛利軍は備中まで遠征する羽目になった。
三村家がゲリラ戦で激しく抵抗したため、1年以上粘られたり、高松崩れと呼ばれる吉川興経率いる吉川軍が備中高松城攻めに失敗して手痛い敗北をするなどの戦術的な敗北はあったものの、戦略的な戦力差を覆すには至らず、備中を1540年には平定。
蔵田房信を備中守護代に戻すことに成功し、大内家は備前までは勢力を取り戻すに至った。
結局毛利家は四国3国、安芸、備後2国……計5ヶ国の守護代となり、大内家の外様重臣扱いであったが、1540年に大内家に激震が走る。
毛利家から人質として送られていた新太郎と梅であったが、新太郎と梅の顔が似ていた為に大内義隆が3Pをしたところ、梅が大内義隆の子を孕むという事件が発生。
大内義隆には正室の貞子という女性がおり、万里小路家出身の公卿と呼ばれる大内義隆の従三位以上の家柄の娘であり、その女性から度々種をまかない(男色が酷すぎてセックスしてくれない)と愚痴を言っていただけに、今回の行為は貞子にとって裏切り行為に等しく、山口の町に万里小路家が逃げてきていた為に、その仮屋敷に怒って閉じこもってしまう。
夫婦仲はこれで破綻してしまい、公家達は大内義隆が怒りを抱き、山口から追放となったらいよいよ住める場所が無くなると戦々恐々としていたが、当の大内義隆は梅から男の子が産まれることを凄まじく願っていた。
「だってこの子は房元の子でもあり、妹の子でもある梅の子……大内家を継がせる血筋的にはバッチリじゃないか! 毛利家もこの子が大内家の当主になったら裏切ることは絶対に無いし安心だね!」
と愛したセフレと妹の子を孕ませるという現代から見たら倫理観がバグっていて頭がおかしくなりそう(家系図はもう滅茶苦茶)なことになっていたが、大内義隆にとっては大事な子であった。
1541年……大内義隆の願いが通じ、梅から元気な男児が産まれる。
大内義隆は産まれた子供に大喜びし、健康祈願を保護している寺社に連日行わせ、山口の町は連日お祭り騒ぎであった。
ただこれに警戒心を強めていた人物達が居た。
内藤興盛と陶家の家督を継承した陶隆房である。
毛利家による血縁ネットワークがいよいよ大内家中枢を侵食しており、陶家と関係が悪い杉家や遠くに飛ばされているとは言え重臣の蔵田家に及び、安芸国衆の吉川、小早川、伊予の河野などは完全に臣従するまでに毛利家の手の中に下に置かれていると警戒を強めていた。
それを大内義隆に忠告しても聞く耳を持たないことも彼らを苛立たせる一因となっていた。
とは言え彼らもここまで巨大化した毛利を潰すように動けば大内家が割れてしまうというのはわかりきっており、天皇や将軍といった日ノ本の中枢が山口に居る以上、迂闊な行動をすることは出来なかった。
山口に移住した公家達は最初緊急で遷都することに不信感を抱いていたが、山口では衣食住が保証され、飢える心配が無くなり、ちゃんと政務に予算が付いた事や、大内義隆は貴族の教養を広めるべきと足利学校を習って、貴族が中心の大学を山口に設置したことで大内義隆を悪く言う公家は居なくなった。
そして1541年には山口皇居と足利義維の住む足利御殿が完成し、朝廷の政務と幕政がちゃんと機能するようになっていた。
更に毛利家が大内義隆に蒸気機関車が完成し、山口の町に蒸気機関車が走らせられた。
世界初の蒸気機関車は時速50キロで山口の町から防府港までの20キロを繋ぎ、大内家の権威がさらに上るきっかけとなった。
蒸気機関車には足利義維や後奈良天皇も乗車し、馬よりも早く、多くの人や物資を運搬できると感激し、蒸気機関車を運用、管理する者に朝廷が新しく役職を作り、長官に従五位下、その下の者達にも六位相当の官職が与えられ、半家扱いを受けるに至る。
それほどの衝撃であった。
さらに蒸気機関車は博多から大宰府を繋ぐ路線も整備され、博多に立ち寄った人々が動く鉄の塊を見て度肝を抜くという光景が散見され、山口と博多に住む大妖怪として各地に広まることになるのだった。
そして大内義隆の許可を得てから毛利家は広島港から吉田郡山城の城下町まで延びる路線を構築し、さらに産業の活性化に尽力するのであった。




