1538年 山口京爆誕
一方で月山富田城に籠る尼子経久は現状を打開するためにあの手この手の工作活動を続けていた。
一応1万の軍で城に籠もっているため落ちる事は無いが、支配領域もどんどん削り取られており、尼子の支配下に置いていた伯耆の国も陥落。
出雲や伯耆の守護職を足利義晴は認めていたが、京で新政権を立ち上げた大内義隆率いる足利義維は尼子の守護職を解任した上で足利義晴派の尼子経久を痛烈に批判し、各地に大内義隆に従うように命令を送る始末。
頼りになりそうな周辺勢力も赤穂の戦いで消滅しており残る手立ては石山本願寺を通じて和睦を斡旋してもらうばかりであった。
一方石山本願寺は苦しい立場に置かれていた。
この頃の石山本願寺は平和主義を掲げ、中央の政権から距離を置いていたのだが、細川晴元に内部工作を受けて門徒の一部が暴走し、細川晴元の兵を匿ってしまっていた。
細川晴元も石山本願寺に逃げ延び、細川晴元は足利義維に和睦を申し出たが足利義維が表裏比興の者と罵倒し、石山本願寺に細川晴元の首を届けよと命令が送られた。
石山本願寺は守護不入の権利を行使して細川晴元の引き渡しを抵抗したが足利義維や大内義隆と石山本願寺との間に不穏な空気が漂っていた。
毛利房元と毛利盛就は両者の間に入り、仲介を務めた。
というのも安芸国では一向宗の力が強く、石山本願寺が命令した場合5万人近くの一向門徒が安芸国内部で決起する可能性を秘めていた。
それに家臣の一部は一向宗のため、合力してしまう家臣が出る可能性が高かった。
なので毛利家は仲裁に入り、細川晴元を石山本願寺から追い出そうとしたが、細川晴元は伊達に悪魔や魔王扱いされる人物では無く、本来細川晴元は石山本願寺の門徒を煽り、一向一揆を勃発させた後に梯子外しをして対立する法華衆の一向を誘発し、一向一揆を鎮圧、更にその法華衆の一揆を比叡山と六角の力で鎮圧したやばい人物なので全方位から恨まれてもおかしくないのだが、扇動の天才の為、石山門徒、法華門徒、比叡山延暦寺の門徒を暴走させて約20万の門徒を暴走させた。
勿論加賀一向一揆も暴れ始め朝倉軍は京から撤退。
門徒を暴走させるだけさせた細川晴元も石山本願寺から脱出し、畿内は収拾がつかない大混乱が発生。
一揆が一揆を生む地獄となり、京に居ては一向一揆が流れ込み、京を火の海に変える危険性が高いと判断した大内義隆は足利義維と時の後奈良天皇を説得し、公家達を含めても京から脱出もとい、水面下で話し合われていた山口への遷都が実行された。
足利義維は山口遷都計画は事前に聞かされていなかったが、天皇が遷都する以上、現在の京の価値は大幅に低下すると判断し、損得勘定で幕政の中心地を山口に移動した方が権限を強く出来るとし、山口に下向した。
京にいた毛利家は安芸本国で一向宗が暴走する可能性を見越して官位が低く、戦力的にもおまけ扱いであった毛利元秋を先に安芸に返して、安芸国人衆に緊急事態を伝えるように命令した。
毛利元秋は愛馬に乗り、僅かな供回りを連れて陸路で安芸に1週間かけて帰国し、元就や安芸に戻っていた吉川興経、小早川鳥光に安芸一向宗暴走の危険性を説明。
その日のうちに元就と毛利元秋は安芸一向宗の本拠地である仏護寺を訪れ、畿内で石山本願寺が一向一揆を起こしている事と、もし安芸で一向一揆を勃発させた場合門徒を根切りにし、寺や道場は破却、寺領も没収すると警告した。
寝耳に水だった安芸国の指導者だった僧は元就に安芸国で一向一揆は発生させないと起請文を提出し、石山本願寺の指示に従わない事も約束した。
安芸国で一向一揆勃発は未然に防ぐ事が出来たが、隣の備後では旧山名残党と共に一向宗が決起し、備後争乱と呼ばれる一向一揆が勃発。
備後だけでなく備中にも飛び火し、備後約4万人の一向門徒が暴走を開始してしまった。
毛利家が管理していた城が次々に攻撃され、元就は安芸国人衆や毛利領に戻っていた兵達を掻き集めて備後一向一揆に攻撃を開始。
統率能力に欠ける一向一揆は次々に敗北するが、何度も何度も復活してくる。
吉川興経は
『吉川軍だけでも1万は首印を挙げたが数を増やして民が暴走を続ける。備後は一向一揆に加担しない者は一向一揆に襲われ、流民が安芸になだれ込む。安芸での治安が心配である』
と書き残し、混乱状態に陥った事が読み取れた。
大内義隆は備後、備中が争乱状態になった事で播磨から瀬戸内海の海路で畿内から脱出することを選択し、毛利軍に殿を任せた。
殿になった毛利房元は毛利一族を集結させ、武器は使えるだけ使い切り、徹底的に相手を出血させ、身軽になって四国に逃亡する選択を行い、播磨撤退戦が開始されるのであった。
播磨撤退戦では毛利房元、毛利盛就、毛利就虎、河野元重の軍1万が防衛陣地を構築し、畿内から流れてくる一向一揆を迎撃した。
一向一揆は最初勢いよく襲いかかってきたが、鉄砲約1万丁による連続射撃により一瞬で士気が崩壊し、逃走するが、逃走する、僧達による鼓舞、復活して襲いかかるとまるでゾンビの様な攻撃を行い、1ヶ月粘り、大内義隆や足利義維、後奈良天皇や公家達が大内領内に落ち伸びる時間を十分に稼いだ。
播磨の加古川下流は折り重なった死体の山で川が血に染まっており、毛利軍事四国軍も相応の被害が出たが、主要武将達は損害が無く、四国に撤退することに成功した。
四国経由で安芸に戻った房元達は四国領内から武器を調達して備後に渡り、備後争乱鎮圧に加担するのであった。
足利義維が第13代将軍に就任してから半年での出来事だった為に足利義維や大内義隆は半年将軍や半年天下人と呼ばれるようになるが、山口に戻った大内義隆は直ぐに町を整備して御所の建築に着工。
山口御所や貴族宅が完成するまでは復興させていた大宰府と山口の仮住まいに身を寄せて貰い、大至急で山口……いや、周防と長門を日ノ本の中心地にするための大規模工事が始まった。
そのため大内義隆は軍事費を京建設の費用に充てなければならず、東の争乱への援軍は僅かとなってしまった。
更に尼子攻めをしていた大内家の軍師かつ宰相でもあった陶興房が病気を患った為尼子侵攻どころでは無くなり出雲から撤退。
結局大内家の実効支配領域は安芸、石見から九州北部、四国全域までの14カ国となり堺を中立地とすることで畿内への橋頭堡を確保することは出来たが、23カ国から9カ国を半年で失う結果となってしまう。
京……もとい古都は一向一揆により焼き尽くされ、大内家により復興途中であった屋敷、花の御所と言われた将軍家の屋敷、公家達の家や天皇の御所まで賊が放火や狼藉の限りを尽くし、瞬く間に廃墟となってしまった。
坂本に逃げ延びていた足利義晴は古都での政務は不可能なので坂本から大和に拠点を移し、大内家が居なくなった畿内を掠め取ろうとしたが、大量の一向一揆により統率不可能となっており、その一向一揆の中の浪人や地侍が成り上がり、新しい国衆として誕生していくことになる。
この一件で中国地方西部を本拠地にする天皇が正統性を担保した山口幕府と大和国の奈良に拠点を置いた奈良公方、中央の統制が完全消滅したことで関東周辺で権威を強める関東公方の足利家でも3つに権威が分裂する事態が発生。
畿内は守護大名が亡くなっているのでほんまもんの世紀末となり、日ノ本の戦国時代は次なるステージに移行したのだった。




