1536年 毛利元経(毛利隆元)の教育
彩乃は自分の息子ではないが、怜の長男一郎こと元服して毛利元経と名乗っている史実の毛利隆元が、他の兄弟が凄すぎてネガティブになっている為に怜から彩乃にどうか精魂を叩き直して欲しいと言われていた。
「精魂叩き直してほしいって言ったって……ねぇ」
「彩乃おばさんも母上みたいに吉川の血を継ぐ男児たるものって武芸しろ……と言うの?」
「うーん、そもそも元経は何がしたいの」
「兄様達の手伝いがしたいのですが……武芸はからっきしで……」
「うーん……工芸でもしてみる?」
「工芸ですか?」
「そうそう幸い私が作った実験用の窯があるし……安芸だと良い粘土が少ないけど周防だと焼き物も盛んに行われているって言ってたし……気分転換気分転換」
彩乃は足踏みで回転するろくろ台を持ってきて元経に陶芸を教えた。
「私も職人じゃないけど例えばこの土だと黒い陶磁器が、こっちだと茶色や赤黒い陶磁器が、こっちは真っ白な陶磁器ができるけど」
「せっかく何で白色でやってみます」
ろくろを回しながら、あーでもないこーでもないと言い茶碗を形づくっていく。
「できました!」
「じゃあこれを幾つも作ってみようか!」
「はい!」
とりあえず20個ほど作り、800度の温度で素焼きを行い、焼き固める。
「そしたら絵を描く」
「絵ですか?」
「まぁ模様だね。自由に描いて良いよ」
「でしたら猫の足跡みたいな模様にします!」
そしたら次に焼き色を着けるための釉薬をまぶす。
これをまぶす事で表面がガラス化して艷やかな肌触りになる。
今回は白色をベースとするので焼くと白色になる釉薬をまぶす。
そして徐々に温度を上げていき、12時間以上焼くことになるのでこれ以降は職人に任せる。
そして2日かけて窯を徐々に冷やしていき、作ってから3日後に窯の所に行く。
すると割れなかった10個の茶碗が出来上がっていた。
「おお! 美しい! これ僕が作ったんですよね!」
「そうだね」
「僕の成果……」
「じゃあこれを売れる物にするにはどうすればいいでしょうか」
「売れる物にですか?」
「房元達の手伝いがしたいなら金を稼げるようにしないとね……まぁ今回は例を教えるけど付属価値を着ける……だね」
「付属価値?」
「新品よりも偉い人が使った茶碗の方が人々からはありがたがられるんだよね。だから元経のお父さんこと元就様に協力してもらおうか」
「父上にですか? でもつかってくれますかね?」
「大丈夫、自信を持って!」
彩乃は元就に言って茶会の席を用意してもらい、茶道を元経と一緒に勉強することにした。
毛利家では彩乃が度々未来から良さげな茶碗を持ってくるので茶会が開かれており、毛利家では娯楽の1つとして楽しまれていた。
まぁ抹茶ラテを作ったりもするので現代や戦国時代の茶道とは独自の進化をしていたが、元就もまだこの時代は決まった茶道が無いからと家臣達に自由にやらせていた。
最低限のルールとして武器を持ち込まない、白色の足袋を履く程度で、後は各々自由に楽しんでもらうという形であった。
中には茶室で茶を点てながら半丁博打をすると言う千利休が居たらぶん殴られそうな事も普通にしていたし、抹茶ラテだけじゃなくて抹茶に酒を入れた抹茶カクテルを飲んだりもしていた……マジで千利休にぶん殴られそうだな……。
「ふむ、結構なお点前なのじゃ」
「け、結構なお点前で……」
茶を飲みながら元就が茶碗について元経に色々質問していく。
「何で猫の足跡にしたんじゃ?」
「鼠取りに飼っている猫が部屋の近くにうろついていて、よく戯れていたので、猫って癒されるじゃないですか。だから茶碗に描いたら愛着湧くかなって」
「ふむ、最初から自分で使うのが目的の茶碗じゃったか……良い茶碗じゃな。ほれ返すのじゃ」
「ありがとうございます」
元就に茶碗を褒められて元経は嬉しそうにしていた。
「でも考え方は良いと思うぞ。偉い人が使った茶碗や茶器は価値が出るのじゃ。色々考えると良いと思うぞ」
「はい!」
ただ元経はそれから茶器作りにハマり、彩乃にねだって未来から粘土を色々取り寄せたり、茶器の作り方の資料を持ってきてもらった。
お陰で毛利領内でもある程度の質の茶器が作られるようになる。
ただ元経はその技術を山口に行った時にも、山口の職人達と技術交流をしたことで、山口の茶器の技術が凄いことになることを彩乃は理解していなかったのである。
元経が茶器作りにハマって居た頃、ようやく土佐や伊予が安定し始め、領分も決まり始めていた。
まず竹原小早川家を継承した小早川鳥光が安芸頭部の海岸沿いと伊予周辺の島々を、河野家を継承した河野元重が河野家旧領の一部を毛利家や小早川家から返してもらい伊予中部に勢力を。
伊予西部は毛利就虎が事業を引き継ぎ、結局土佐は毛利盛就が切り盛りする羽目になってしまった。
ただ約4年間内政に注力できた事で土佐の国人衆の反乱も鎮圧し、黒字経営に持っていくことができた。
盛就は土佐国人衆が行っていた一領具足(ほぼ屯田兵)制度を評価しており、一領具足の兵達に開拓を推奨しつつ、開拓した土地でよく育つ芋や小麦を分け与えた。
牧場から作られる肥料を使い、農地をよく耕した事や米栽培を無理に行わなかった事、小麦や蕎麦の料理を広めた事で肉うどんや肉蕎麦が流行し、ご統治名物になっていく。
盛就も肉うどんだったり土佐で獲れるイカで作るイカ天や鶏肉を使ったとり天を好み、蕎麦に乗っけて食べていたし、時には家臣達に簡単だからとうどんや蕎麦を生地から作って振る舞った事で地域に浸透するきっかけになった。
また土佐の統治の為に高知の町に政治拠点を移し、高知城の建造を開始。
高知城周辺の水回りや度々反乱する鏡川の川沿いにコンクリートで堤防を築いたり、国分川から支流となる江ノ口川を城下町に引き込んだりと大工事を次々に行っていった。
資金は毛利家からの支援と砂糖の売却利益から抽出し、それらが完成するのは1540年になるが、お陰で高知周辺の土地が開発可能になり、土佐国では貴重な田園地帯兼商業用地として栄える事になるのだった。




